冒険航海(Adventure Voyage) ラピタ人の大移動の航海 紀元前1000年前後頃 Voyage of Lapita Peaple Expedition |
漁労の様子 ・シ ャコ貝 |
ラピタ人の狩猟採集生活 |
狩猟採集の様子 |
Republique de Guinee |
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マルケサス諸島の海洋船 Samoan Boat, Marquesas Island |
タヒチの道具 Tahitian Utensil, 1760 |
マオリ族の木製屋根飾り Maori Wood Carving, 1750 |
2000年紀記念のミレニアム切手 ギニア共和国 2000 発行 |
現在の太平洋諸島の現地舟艇 |
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Mritime History ソロモン 2012/6/5 発行 |
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英領ソロモン 1973 発行 |
ニウエ 1978 発行 |
英領ソロモン 1971 発行 |
ラピタ人の航海 (約3,000年前) Voyage of Lapita Peaple Expedition ラピタ文化は、今から約3,000年前に太平洋のメラネシア(Melanesia)で発生、高度な土器文化を持ちラピタ土器(Lapita pottery)を残しました。ラピタ人(Lapita people)は人類史上初めて遠洋航海を実践して太平洋の島々に住み着いたと思われる民族で、1952年に米国の考古学者エドワード・ギフォード博士(American archaeologists Edward Winslow Gifford, 1887-1959)がリチャード・シェルター博士(Richard Shulter Jr, )と共に、ニューカレドニアの主要島であるグランドテールのフエ半島で最初に発見された第13遺跡(Site 13 of Lapita)の発掘で発見した土器が「ラピタ土器」と命名されたことから、この文化がラピタ文化と呼ばれるようになり、ポリネシア文化の源流とする考えとなりました。この文化が元々は何んと呼ばれていたのかは、現在まで明らかにされていませんが、それ以来、太平洋諸島の200以上のラピタ遺跡が仏のデュルヴィル提督が使い始めたパプアニューギニアなどの「メラネシア」地域からフィジー、トンガまで4,000km以上に及ぶ島の海岸などでの調査に関する研究がなされました。ラピタ(Lapita)という用語は、ニューカレドニアでの1952年の発掘時に地元のハウケ語(Haveke)で「穴を掘る」または「掘り起こす場所」を意味する ハペタア (xapeta'a) という言葉を発掘した遺物のことと誤解した考古学者によって名付けられました。 1944年にニュージーランドの人類学者デレック・フリーマン博士(Derek Freeman, 1916-2001)がサモアのウポル島(Upolu island, Samoa)北海岸、ファアサレレアガ地区ヴァイレレ村(Vailele, Tuamasaga)のファレマーガ洞窟(Falemauga Caves)を調査、発掘しました。1944年にポリネシア人(Polynesian Society)のジャーナルに報告書を発表しました。洞窟では、積み重ねられた岩石(stacked rocks)、木炭(charcoal)、石飾り(stone adzes)、貝殻(marine shells)が見つかりました。1957年にもガリソン博士(Jack Golson, 1926ロンドン生)がファレマーガ洞窟を発掘しました。 1970年代になると、オークランド大学のグリーン博士 (Roger C. Green, 1932-2009) らがソロモン諸島のネヌンボ遺跡 (Nenumbo site) を発掘して、ラピタ土器の破片を発見しました。破片幅は約8cmで、紀元前1,000年ごろのものと見られました。 経済活動としては、ブタ、イヌ、ニワトリなどの牧畜が行われ、またイモや果実を収穫するための農業も行われており、主にヤムイモ、タロイモ、ココナツ、バナナ、パンノキなどが栽培されていました。これに加えて漁業が行われ、黒曜石や石の鍬、その原料となる各種の石や貝殻などとの交換による遠距離の島々との交易が行われていました。 埋葬風習としては、バヌアツのエファテ島のテオウマ遺跡で2003年に見つかった古墳では、36体の遺体が25の墳墓または甕棺に埋葬されていました。遺体はすべて頭部を欠いており、これは一度埋葬した後に、頭部だけを取り去り巻き貝で作った指輪と置き換えていたためでした。その頭部は別に埋葬されており、埋葬されている老人の胸の上に3つの頭部が並べられていた墓が見つかっています。また見つかった甕棺の一つには、4羽の鳥が中をのぞき込む造形が見られました。炭素年代測定により、墳墓の中の貝殻は約紀元前1,000年ごろのものとされています。 ポリネシアの西部では、人々の住む村落は大きな島の海岸沿い、あるいは小さな島に作られました。これは、ニューギニアの海岸などではすでに住んでいた別の民族との衝突を避けるため、あるいはラピタ人にとって致命的な病気であったマラリアを媒介する蚊をさけるためであったと考えられています。礁湖 (ラグーン) の上に作られた高床式の住居も見つかっています。パプアニューギニア領ビスマルク諸島の最大の島ニューブリテン島では内陸部、黒曜石の産地の近くに植民したのが分かっています。ポリネシア東部の島々では内陸部に、しばしば海岸から距離のある場所に入植していました。 ・ラピタ土器 ラピタ土器はビスマルク諸島からトンガにかけて見つかっていて、その東端はサモアのウポル島北海岸、ファアサレレアガ地区ヴァイレレ村やムリファヌア村 (Mulifanua)です。ここでは4,288個の土器片と2個の石の鍬が見つかっています。炭素年代測定で紀元前3,000年のものと見られました。 牧畜も、土器同様にオセアニアの各地に広まりました。ラピタ人や、家畜、その移動についてきた他の生物 (おそらくナンヨウネズミなど) は、外来種として、結果的に多くの移住先で飛べない鳥を始めとする固有種を絶滅させることになりました。 ラピタ土器のうち古期のものは、紀元前1,350年から同750年の間にビスマルク諸島で作られたものが見つかっています。その後紀元前250年ごろまでに、次第に多様化しました。バヌアツやニューカレドニアには、その地方独自の様式が見られます。メラネシアやパプアニューギニアのウンボイ島でも見つかっているも、それらが絶えた後もフィジーでは作られ続けました。 またラピタ土器は、ポリネシア西部では紀元前800年くらいからフィジー、サモア、トンガの一帯で作られはじめました。トンガからサモアへ、つまりポリネシアの東方にむかって植民によってラピタの文化が広がっていき、続いてマルケサス諸島、ソシエテ諸島、さらにはハワイ、イースター島、ニュージーランドへと伝わりました。しかしラピタ土器はポリネシアのほとんどの地域で途絶えました。これは小さな島などでは、土器を作るのに適した粘土が得られにくかったためと考えられています。 発掘遺物の土器は低い温度で焼いて作られており、貝殻や砂を混ぜて作られたものも有。多くは歯型の文様が付けられるも、これは樹皮布や入れ墨などにも用いられていたと考えられています。ラピタ文化圏では文様のないもの、すなわち石製の鍬 (adze) などの人工遺物や、黒曜石(obsidian)、堆積岩の一種の角岩(かくがん、チャート:chert)などで作られた石器も見つかっています。 ・東海大学海洋考古学者の研究発表(要旨):〜 (研究者)小野林太郎(2014/12/4) ラピタ文化は、特徴的な文様の土器で知られている。担い手であるラピタ人は、今のポリネシア人の祖先であり、前にも言及したオーストラロネシア語を話していた人たちでもある。彼らは特徴的な土器を携えて、リモートオセアニアへと旅だった。ニューカレドニアや、フィジーといったメラネシアの島々に初めて入り、数百年でサモア、トンガなど、ポリネシアの一番西の端まで一気に行っている。さらに1000年ほどの停滞期の後で、ポリネシアを制覇する。地球上の人類拡散の最終章だ。興味深いのは、彼らは、ある時から土器を作るのをあっさりとやめてしまったこと。だから今、ラピタ土器を作っている島はどこにもない。ミステリアスな文化で、考古学的にも人気がある。実は、ブキットテンコラックからは、ラピタ人が愛用したビスマルク諸島タラセア半島産の黒曜石が多く出土しているそうだ。産地から約5000kmも離れて運ばれており、驚かされる。しかし、それでもラピタの土器は出ない。そこで最近は、ラピタ人は、インドネシア・ウォーラシアのルートではなく、フィリピンの北部から直接来たのではないかなどという考察もされているそうだ。いずれにしても今も謎に満ちている。 「ラピタっていうのは、ニューギニアの東のビスマルク諸島やニューブリテン島とかその辺の島で突如、非常に特徴的な土器を持った人たちの遺跡が出てくるんです。今のところ一番古いのが3300年ぐらい前だと言われていまして、それより古い年代のラピタ遺跡はまだ見つかっていません。そういう文化が伝わったとしたら、東南アジアを通って、インドネシア、このウォーラシア海域を通って行ったんじゃないかっていうふうに言われてきました。それで私もこの途中のところにあるはずの島々で調査をしているんですが、土器は出てきてもラピタの土器につながるようなものが出ないんです。ブキットテンコラックの遺跡は位置的にも時期的にも、ラピタにつながるものが出ればいいと思っていたんですが、出ませんでした」 ・ラピタ文化と消滅の謎 ラピタ人って、人類で初めて長距離航海を成し遂げた海洋技術集団とか、海のモンゴロイド、その正体は縄文人なのでは!?等々、アジア人とポリネシア人をつなぐミッシング・リングとして未だに謎が多いラピタ人。3000年以上も昔(紀元前1500年〜紀元500年)、ニューギニアからサモアの辺りに突如現れ、一帯に広がっていたラピタ文化の遺跡。それが彼らの存在の証です。とても精細な文様を刻んだ高度な土器文化を持つ集団だったようです。 このラピタの名は学者が命名したもので、最初に遺跡が発見されたニューカレドニアの土地の名がその名の由来です。だから、実際に過去そのように呼ばれていた種族が存在したというわけではないんです。後年、学者によってラピタ文化と名づけられた、ラピタ文化を持った人々が、ラピタ人であり、ラピタ集団ってわけなんですね。(縄文人や弥生人と同じなんです) ・ラピタ文化消滅の謎 現在のポリネシア文化がラピタ文化を背景に生まれたとは一概に言えないものの、ラピタ文化は今から約3600年前にニューギニア東北部の島やビスマーク諸島に突如出現し、2000年ほど昔まで、現在のメラネシア一帯で花開き、遺跡から発掘された人骨や、加工した貝殻、食糧となった魚などの地理的変遷から、彼らがポリネシア人の先祖に大きく関わっていた事が確認されています。彼らはその後さらに東進するのですが、ラピタ文化とポリネシア文化を直接に結ぶものは、残念ながらあまり多くは見つかっていません。その理由は分析可能なラピタ人の人骨が十分にないこと。そして、ラピタ文化の特徴であった土器の消失が大きく関係しています。 ・土器の消失 ポリネシア周辺の島の土壌は、ほぼ玄武岩と珊瑚礁で出来ています。実は、これらの玄武岩や珊瑚には多くの気泡があり、土壌化したものも含めて、土器の材料には適さなかったのです。ラピタ式の土器は当初、サモアやトンガにも持ちこまれましたが、素材となる土が乏しく、土器制作の文化は衰退の一途をたどります。持ち込まれた当初は、ラピタ式よりシンプルな文様の土器が造られ、やがて無文様の土器となり、そしてついに、土器そのものがなくなっていくのです。ポリネシアの風土環境によって、土器文化はすべて木器文化に置き換わっていきました。そして、この木の文化への転換が遺跡の長期保存を不可能にし、その後の彼らの文化形態が謎に包まれてしまったのでした。でも、土器は消滅し、その後の古い木器も風化してしまいましたが、ポリネシアの島々に伝わる刺青やカヌーのデザインには、今も「ラピタの文様」が間接的に表現されているとする学説があります。文様はさまざまな宗教的意味合いや、ことばに代わる情報伝達表現として利用されています。物質は風化しますが、観念や習慣といったラピタの文化は風化せずに受け継がれている。その可能性は十分にあると思われます。わずかに発見されたラピタ人の人骨からは、彼らがかなり大柄(180cm以上)であったことが推測されています。現在、この体型にもっとも近いのはサモア人やトンガ人。彼らがラピタ人の末裔であるとは断言できませんが、極めて深い関係にあるようです。
にわかに信じられない事ですが、実際、研究でもハワイ島が8,000km先の海流に影響を与えていることが確認されています。太平洋に点在する島々が波やうねりを起こし、その各々の島がそれぞれ数十、数百km先の海にも影響を与えている事は十分ありえる事なのです。わずかな波の微妙な動きを読み取ることができたラピタ人。それだけでも現代人の感覚からすれば、十分に驚嘆に値する超能力ですが、それ以上に凄い事があります。彼らは最終的にはおそらく南北アメリカ大陸にまで到達したであろうと考えられていますが、15世紀の大航海時代より遥か以前の紀元前15世紀!!ラピタ人たちは太平洋はおろかインド洋の無数の島々を既に発見していたという説です。 (※)ビスマルク諸島では30,000年から35,000年前に人が住んでいたことから、これがラピタ人のルーツである、とする説も有。それによると、ポリネシア西部でのラピタ人の広まりは、黒曜石の交易によるものである、とされています。 参考HP:〜 ・ポリネシアの場所地図 (Pitcairn有、ポリネシアン・トライアングル) ・考古学者エドワード・ギフォー報告書 こちらで世界遺産の ・ヘンダーソン島 (ピトケーン諸島) ・ヌビア遺跡 (エジプト) ・ペトラ遺跡 (ヨルダン) ・パルテノン神殿 (ギリシャ) ・法隆寺 (日本) をお楽しみください。 ・上記はこちらの文献などを参照させてもらいました。 2018/12/19 |