Portugal 国連 1989 発行 |
切手で綴る 冒険大航海(Adventure Voyages)ポルトガルのインド副王(6-6)
ロポ・ソアレス・デ・アルベリガリア船長
第6次遠征艦隊・インド副王・テージョ河・ベレンの塔 |
大航海物語 ポルトガル編★ |
ESTADO da INDIA アルベリガリア副王の紋章 ポルトガル領インド 1958/4/3 発行 |
Mozambique ポルトガル船、1511 モザンビーク 1963/12/1 発行 |
POTUGAL ポルトガルからインドへの航海地図 ヴァスコ・ダ・ガマ生誕500年記念 ポルトガル 1969/12/30 発行 |
ロポ・ソアレス・デ・アルベリガリア (生年没年不詳) Lopo Soares de Alberigaria (インド総督在任:1515〜1518) ポルトガルのアルベリガリア船長は若い頃から船に乗り込み、活躍していました。 1495〜1499年の間はエルミナの総督(captain-general)を務めました。 1504年に第6次インド遠征艦隊13隻に1,200人を率いてインドのカリカットへ赴き、12隻で翌年リスボンへ成功裏に帰国しました。喜んだポルトガルの国王マヌエル1世はアルベリガリア船長を第3代インド副王(身分:2代総督)に任命しました。 参考HP:〜 ・諸外国のインド占領地の場所地図 10/10/10追記 |
第6次インド遠征艦隊 1504〜1505 総司令官ロポ・ソアレス・デ・アルベリガリア船長 |
Mozambique ポルトガル船 モザンビーク 1963/12/1 発行 |
MOZAMBIQUE ポルトガルからインドへの航海地図 ヴァスコ・ダ・ガマ生誕500年記念 ポ領モザンビーク 1969/8/29 発行 |
・第6次インド遠征艦隊13隻の編成:総司令官アルベリガリア船長 6th Portuguese India Armada (Albergaria, 1504-1505):〜1200人 ・大型ナオ船(nau)9隻、 ・小型カラヴェル船(caravel)4隻、合計1200人乗組 01)司令官ロポ・ソアレス・デ・アルベリガリア船長 (Lopo Soares de Albergaria/Alvarenga) 02)ペロ・デ・メンドウサ船長(Pero de Mendonca/Mascarenhas)、 船は帰路に遭難して喪失、船長は救助される 03)ドン・レオネル・カウチンホ船長(D. Leonel Coutinho) 04)副司令官ロポ・デ・アブロウ船長(Lopo de Abreu、vice-admiral) 05)ペドロ・アフォンゾ・デ・アグイアール船長(Pedro Afonso de Aguiar) 06)ロポ・メンデス・デ・ヴァスコンセロス船長(Lopo Mendes de Vasconcelos/Martins) 07)マヌエル・テレス・デ・ヴァスコンセロス船長(Manuel Telles de Vasconcelos/Barreto) 08)トリスタン・ダ・シルヴァ船長(Tristao da Silva) 09)フィリペ・デ・カストロ船長(Filipe de Castro) 10)ヴァスコ・ダ・シルヴェイラ船長(Vasco da Silveira/Silva) 11)アフォンゾ・ロペス・ダ・コスタ船長(Afonso Lopes da Costa) 12)ヴァスコ・デ・カルヴァルフォ船長(Vasco de Carvalho) 13)ペドロ・ディアズ船長(Pedro Dias/Dinis de Setubal) ・第6次インド遠征艦隊の航海日誌より:〜 1504年
ラヴァスコ船長(Rui Lourenco Ravasco)の2隻と出会う 09月、カナノール(Cannanore)に到着、”コーチンの戦い”を聴き、捕虜の奪還に向かう 09/7、カリカット着、捕虜を救出すべく、街を艦砲射撃で破壊して救出 コーチン(Fort Manuel)に到着、 ドアルテ・ペレイラ船長はキロン(Quilon、現Kollam)行きで不在、 5隻を同地へ派遣、2隻を南カリカットへパトロールにやる 10/22、アルベリガリア船長がキロンから戻ったペレイラ船長とコーチンで会見 東洋の産物を船積みする 12/31、コーチンを出帆、帰途に就くも、 ケーララ州ポナミ(Ponnani Malappuram district Kerala)港で アラブの17隻に4000人が接近の情報を得る(Pandarane)港沖に誘導して、 カラヴェル船2隻とピンネス型マラバル船(pinnaces)15隻にポルトガル兵300人で 迎え撃って、エジプトのイスラム艦隊2000人を殺傷して勝利する、ポルトガルも 23人戦死、170人負傷の大被害をこうむりましたが、インドの産物を満載した 第6次インド遠征艦隊13隻はマラバール海岸を無事に出帆。 1505年 2/01、ケニアのマリンディに到着 2/10、タンザニアのキルワ(Kilwa)に到着 2月中旬、モザンビ−グ島に到着、2週間滞在して艦隊の補給と集結を図る コレンテス岬(Cape Correntes)付近で難破したペロ・デ・メンドウサ船長の船の 喪失が判明するも、船長は無事に救出される 07/22、司令官ロポ・ソアレス・デ・アルベリガリア船長と12隻がリスボンに到着。 参考:〜
橋梁は リスボンのテージョ川河口部には4月25日橋[2]とヴァスコ・ダ・ガマ橋が架かる。ヴァスコ・ダ・ガマ橋は全長が17.2kmあり、ヨーロッパで最も長い橋として知られている。1996年1月より40年間の料金徴収が認められています。なお、ポルトガルの上流にアルモーロル城が有、またアルカンタラダムが有。 ・ヴァスコ・ダ・ガマ橋 Ponte Vasco da Gama 17.2km ヨーロッパで最長 ヴァスコ・ダ・ガマ橋は、ポルトガルのテージョ川河口(三角江)部に架けられた斜張橋。リスボン近郊のサカヴェン (Sacavem) とモンチジョ (Montijo) を結ぶ。全長は17.2kmあり、ヨーロッパで最も長い橋になっている。1995年に着工され、リスボン国際博覧会開催直前の1998/3/29に開通。ヴァスコ・ダ・ガマ橋の名前は、大航海者ヴァスコ・ダ・ガマのインド到達500年を記念して名付けられた。上り(モンチジョからサカヴェンに向かう)方向のみ通行料2.2ユーロが課される。サカヴェン側ではA1、第2環状、A8と、モンチジョ側では、A12に接続している。リスボンの他の橋(4月25日橋)の混雑を軽減する目的で建設された。 斜張橋部が100km/h制限になっている以外、ほかの高速道路と同じように120km/hの速度制限で、橋は6車線になっている。強風、雨、霧のときは速度制限は90km/hになる。 ・4月25日橋 Ponte 25 de Abril 2,277m 吊り橋 4月25日橋は、リスボンとテージョ川対岸のアルマダとを結ぶ、長さ2,277mの吊り橋。1966/8/6に開通。建設したのは、サンフランシスコの金門橋と同じ会社で、開通した当初は当時のポルトガルの独裁者アントニオ・サラザールにちなみ、サラザール橋と呼ばれていたが、1974/4/25のカーネーション革命のすぐ後、革命が起こった日から名前をとって改名された。長さは2,277mで、上段が6車線の道路、下段が複線の鉄道となっている。鉄道部は当初建設した時から構想はあったが、経費削減のため実行されず、最終的に1999年完成。 |
ロポ・ソアレス・デ・アルベリガリア船長
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SULTANATE of OMAN 紅海とインド洋の地図 オマーン 1981/11/23 発行 |
Mozambique ポルトガル船、1511 モザンビーク 1963/12/1 発行 |
アルベリガリア船長は第2代インド副王(身分:初代総督)のアルブケルケ将軍が1515/12/16にゴアの海上で亡くなった後をうけて、インドのゴアで第3代インド副王(身分:2代総督、在任:1515/9/8-1518/9)に就任しました。アルブケルケ将軍が亡くなったのはポルトガルのマヌエル国王が、アルブケルケ将軍の個人的な政敵のアルベリガリア船長を後任者としてゴアに派遣したのに絶望したためであるとも言われています。また将軍はホルムズで発病し、ゴアで病死したという説も有りますが。。。。。 1516年にはアルブケルケ将軍の後を受けて、紅海作戦(イスラム作戦)を実施しました。サウジアラビア西部のメッカ州にある紅海に臨む都市で、首都リヤドにつぐ大都市でもあるジェッダ(Jeddah、ジッダ)攻撃のポルトガル艦隊の司令官として指揮を執るも、占領には至りませんでした。
参考HP:〜 ・ジェッダの場所地図 ・諸外国のインド占領地の場所地図 ・セイロン島の地図 ・喜望峰の付近の地図(詳細な地名が有) ・アフリカ東岸からインドの地図 ・上記はこちらの文献などを参照させてもらいました。 2008/8/8、10/10/10追記、令和6年 2024/8/16 |