Portugal 国連 1989 発行 |
切手で綴る 冒険大航海(Adventure Voyages)ポルトガル発見者の群像(3-7)
ジョアン・ダ・ノーヴァ船長
フアンデノーヴァ島・フロー・ド・マー号・第3次遠征艦隊・カナノール海戦 |
大航海物語 ポルトガル編★ |
PORTUGAL ポルトガルの航海者ノーヴァ船長 ポルトガル 1990−94 発行 |
PORTUGAL ポルトガルからインドへの航海地図 ポルトガル 1969/12/30 発行 |
Mozambique ノーヴァ船長の乗船フロー・ド・マー号 Flor do Mar モザンビーク 1963/12/1 発行 |
スペイン生れのノーヴァ船長は幼い時にスペイン貴族の内紛でポルトガルに逃れ、長じてポルトガル王室に出仕し、リスボン市長になりましたが、1501年に国王の命で第3次インド遠征艦隊を率いてインドへと出帆し、モッセルベイでアタイデ船長の手紙を発見。翌年に東洋のスパイスや財宝を満載して、ポルトガルに帰港しました。その航海中の往路でアセンション島とファーカー環礁島を発見し、帰路にはセントヘレナ島を発見しました。1505年にアルメイダ提督の第7次インド遠征艦隊にフロードマー号の船長で参加しましたが、帰路に喜望峰付近で水漏れを起こして修理でモザンビークに残留中に、第8次インド遠征艦隊のアルブケルケ将軍の第1艦隊が通りかかり合流し、インドで亡くなりました。 |
ジョアン・ダ・ノーヴァ・カステリア船長 Joao da Nova Castelia (1460〜1509/7) スペイン人のノーヴァ船長はスペインのサンチャゴ・デ・コンポステラ南方ガリシヤ地方のマセダ(Castillo de Maceda, Galicia, Spain)で生まれましたので、ガルシア提督(Galician Admiral)と呼ばれました。少年の頃にスペイン貴族の派閥争いの戦いが起こり、彼の家族に命からがらポルトガルへ逃がされました。ポルトガルのマヌエル1世王につかえて、1496年に36才でポルトガルの首都リスボンの市長になりました。 ノーヴァ船長の大冒険:〜 ・1501年(41才)〜第3次インド遠征艦隊を率いてリボンを出帆、アセンション島を発見 ・1502年(42才)〜セントヘレナ島を発見、リスボンに帰港 ・1505年(45才)〜第7次インド遠征艦隊にフロードマー号の船長で参加 ・1506年(46才)〜喜望峰で水漏れして修理でモザンビーク島に残留、 第8次インド遠征艦隊のアルブケルケ将軍の第1艦隊に合流 ・1507年(47才)〜オマーンのマスカットなどを攻撃 ・1508年(48才)〜3隻で沿岸警備任務に就くも、コーチンでアルメイダ提督指揮下に入る ・1509年(49才)〜ディウ攻撃戦で勝利、コーチンで没 1500/3/8にはペドロ・カブラル船長が13隻の大船団でインドへ向けて、ポルトガル・リスボン港を出帆し、嵐に流されて偶然にブラジルを発見するも、この艦隊に参加していたバーソロミュー・ディアス船長はブラジルからインドへ向かう途中の大西洋で嵐に遭遇し、遭難して亡くなりました。この船隊が帰国するより早く、ポルトガルのマヌエル1世は、ジョアン・ダ・ノーヴァ船長指揮のもと5隻の船隊をインドへ向けて派遣しました。 1501年に第3回インド遠征艦隊5隻の司令官に指名されたノーヴァ船長の艦隊は、1501/3/5〜10に順次ポルトガルのリスボン港を出帆しました。大西洋を航海中にアセンション島(Ascension Island)を発見、投錨しました。
この艦隊はその後インドのカナノールへ直航し十分な積み荷を得ての帰路、1502年にはセントヘレナ島を発見(望見)して、島名はコンスタンティヌス1世(Helena of Constantinople)の母「聖ヘレナ、St. Helena」にちなんで名づけました。インド到着後は東洋産の香料を満載して、無事にポルトガルへ帰国しました。以後インドへの年次航海が実施されるようになりました。 1505年にノーヴァ船長はアルメイダ提督の第7次インド遠征艦隊に、フロードマー号(Flor do Mar)の船長でインドへと航海しました。ノーヴァ船長の提案は初代インド副王アルメイダ提督に受け入れられず、提督(General-Capitain)という階級も許されず、小型の沿岸警備船に乗り換えるようにいわれましたが、それを断り許される代わりに、帰国することになりました。1506/2月にノーヴァ船長は第7次インド遠征艦隊の帰国の第3艦隊2隻と共にインドを出帆。乗船のフロー・ド・マー号が喜望峰で水漏れとなり、モザンビーク島で修理して8ヵ月滞在し、ザンジバル付近でトリスタン・ダ・クーニャ船長の第8次インド遠征艦隊アルブケルケ将軍の第1艦隊に合流しました。 1506年にノーヴァ船長はソコトラ島攻撃に向かうアルブケルケ将軍の艦隊に、フロー・ド・マー号の船長で参加しました。この作戦中にホルムズ攻撃の準備をしていたアルブケルケ将軍の5隻の艦隊に加わっていましたが、物資を集めるために「アラビアに行くようにとの将軍命令を無視して、インドに向かおうとした」という理由で逮捕されましたが、結局は彼が1507/8〜9月にオマーンのカルハット(Qalhat)、マスカット(Muscat)、カルヤート(Qurayyat)に対する勇猛果敢な連続攻撃で示した武勇のために許され、転じて1507/10月アルブケルケ将軍ホルムズ島攻撃(Battle of Hormuz)に従軍を許され、勝利してホルムズを占領しました。 1509/2/3には旗艦フロー・ド・マー号に乗船して、18隻にポルトガル兵1,300人、現地兵400人によるアルメイダ提督のディウ攻撃戦を戦い勝利しました。1509/3月にアルブケルケ将軍がアルメイダ提督に和解の提案を持ちかけましたが、それを知ったノーヴァ船長は他の3人の船長と共に、アルメイダ提督にアルブケルケ将軍との和解を受け付けないように画策しましたが、1509/7月にインドのコーチン(Cochin, India)にて49才で亡くなりました。それはアルメイダ提督がアルブケルケ将軍を逮捕する、丁度2週間前のことでした。その後、アルブケルケ将軍が開放されると、ノーヴァ船長の武勇を惜しんで、丁重な葬儀を執り行ったと伝えられています。 なお、1501年にノーヴァが発見したマダガスカル島東方に有る環礁島は、後年に彼が発見した功績を称えてフアン・デ・ノーヴァ島(Juan de Nova Island)と名付けられました。面積4.4kuで、1897年フランス領となりました。その後、1965年ファーカー環礁(Farquhar Atoll)としてイギリス領インド洋地域となり、1976年にセイシェル諸島が独立してセイシェル共和国に編入されました。
参考HP:〜 ・インド中部の西海岸の地図(カナノール有) ・ファン・デ・ノーヴァ島の場所地図(赤丸) ・モッセル・ベイの場所場所 ・アセンション島とセントヘレナ島の場所場所 08/7/25、09/12/31、10/10/10 |
第3次インド遠征艦隊 1501〜1502 司令官ノーヴァ船長 |
PORTUGAL ポルトガルの航海者ノーヴァ船長 ポルトガル 1990−94 発行 |
MOZAMBIQUE ポルトガルからインドへの航海地図 ヴァスコ・ダ・ガマ 生誕500年 記念 ポ領モザンビーク 1969/8/29 発行 |
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Mozambique |
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モザンビーグ島古地図、1572 1569 カモンイス訪問400年 1969 ポルトガル領モザンピーク 1969/6/10 発行 |
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・第3次インド遠征艦隊5隻の編成(Cpt.):司令官ノーヴァ船長 3th Portuguese India Armada (Nova, 1501-1502):〜350人、内80兵 1)司令官ジョアン・ダ・ノーヴァ船長(Joao da Nova)旗艦、王室船、リスボンに帰港 2)フランシスコ・デ・ノヴァイス船長(Francisco de Novais)王室船、リスボンに帰港 3)ディオゴ・バルボサ(Diogo Barbosa)、私掠船 Privately)、リスボンに帰港 船主:ブラガンザ公(D. Alvaro of Braganza) 4)フェルナン・ヴィネット(Fernao Vinet)、私掠船(Privately)、リスボンに帰港 船主:フィレンツェ商人組合(Florentine Marchionni consortium) 5)補給船(supply ship)、途中で火災焼失(burnt) ・第3次インド遠征艦隊の航海日誌より:〜 1501年 03/05、リスボンのテージョ川河口を5隻が出帆
09/11、リスボンに4隻が帰港 参考HP:〜 ・アラビア海の地図 ・セーシェル諸島の地図(マダガスカル島の北方にファーカー環礁島群が有) ・アセンション島の地図 ・セントヘレナ島の地図(Jamestown有) ・上記はこちらの文献などを参照させてもらいました。 10/11/11 |