Portugal

国連 1989 発行
切手で綴る 冒険大航海(Adventure Voyages)ポルトガル発見者の群像(5-1
アルメイダ提督
1505
初代インド副王
第7次遠征艦隊大冒険ディウ海戦

大航海物語
ポルトガル編

ESTADO da INDIA
アルメイダ提督

ポ領インド 昭和21年 1946/5/28 発行


PORTUGAL
ポルトガルからインドへの航海地図

ポルトガル 1969/12/30 発行
Mozambique
ポルトガル船

Nau de 800tones, 1520
モザンビーク 1963/12/1 発行

リスボン生れのアルメイダ提督は1505年に初代インド副王に任命され、インドへ赴き、1505年から1509年までの間、インド総督として活動して、インド洋でのポルトガルの勢力を拡大しました。提督の指導の下でポルトガルはインド洋世界に要塞を建設しました。息子のロウレンソを戦闘で失った後、1509年のディーウ沖の海戦でインドとマムルーク朝の連合軍を破りました。5年後、ポルトガルへ帰る途中の1510年3月、南アフリカのテーブル湾での水補給中にコイサン人の攻撃を受けて戦死しました。
ドン・フランシスコ・デ・アルメイダ提督
 (Admiral Don Franciso de Ameida, 1450頃-1510/3/1)
 (インド副王(Vice-Rei da India)1505/9/12-1509/11)
アルメイダ提督はポルトガルのテージョ河々口のリスボンの貴族の家に生まれ、若い時から歴代の王に仕え、1505年55才でポルトガル王マヌエル1世の命で、初代インド副王に任命されて、第7次インド遠征艦隊22隻の総司令官としてインドへ向かいました。

アルメイダ提督の大冒険:〜
・第7次インド遠征艦隊22隻の総司令官:〜
 ・1505年(55才)〜第7次インド遠征艦隊がリスボン港を出帆
 ・1506年(56才)〜第7次インド遠征艦隊が帰国するも、インドに残る
 ・1507年(57才)〜カナノールの海戦に勝利
 ・1508年(58才)〜チャウルの海戦に敗れる
 ・1509年(59才)〜ディウの海戦に勝利、アルブケルケ将軍を監禁
 ・1510年(60才)〜帰国途上に南アのテーブル湾で亡くなる

その途中アフリカのソファラキルワモンパサを攻撃して要塞を築きました。またインド西海岸の各地を攻撃してコーチンその他に要塞を建設しポルトガル海上帝国の基礎を築きました。この航海には25才のマゼランが参加していました。1508年にカンベイ湾口西海岸のディウ沖でエジプトのマルムーク朝の艦隊の攻撃を受けて、息子のドン・ロウレンソを失いましたが、翌年にはディウを攻撃しマルムーク朝の艦隊を撃破して復讐を遂げています。それは「1508年2月アルメイダは遂にディウ沖で100隻の増援を得たエジプト艦隊を発見し、ネルソンが比較を絶した劣勢を物ともしなかったごとく毅然と コーチンの地図
ポ領インド 1956  発行
戦いを挑んで、この回教徒艦隊を殲滅した」とボイス・ペンローズ著「大航海時代」(筑摩書房)に記述されている通りです。この戦い以後、インド洋は長期にわたりポルトガル王国の支配下におかれました。

アルメイダ提督はイスラム教徒と対立しない形での香料貿易を行い、これによってポルトガル王室の利益を図ろうとしました。しかし後任の総督アルブケルケ将軍と意見が対立して帰国の途につき、その途中の南アフリカ海岸で住民に殺害されました。亨年60才。なお、帰国の艦隊とは別に、商船にて帰国したという説も有りますが、定かではありません。

参考HP:〜
アフリカの地図、インド付近の地図







第7次インド遠征艦隊
1505〜1506
総司令官・初代インド副王 ドン・アルメイダ提督


ESTADO da INDIA
正装のインド副王
ドン・アルメイダ提督


パリ国立図書館蔵
450 ANIVERSARIO da FUNDAZAO do ESTARDO da INDOA
インド殖民450年記念画像=200%
ポ領インド  昭和31年 1956/3/24  発行
ESTADO da INDIA
アルメイダ提督の紋章

ポ領インド 昭和33年 1958/4/3 発行


MOZAMBIQUE Portugal
コロンボの古地図

アルメイダ提督インド到達500年記念
ポルトガル 2006 発行
ポルトガルからインドへの航海地図

ヴァスコ・ダ・ガマ 生誕500年 記念
ポ領モザンビーク 1969/8/29 発行
ポルトガル船、1500

モザンビーク 1963/12/1 発行

第7次インド遠征艦隊22隻の編成:総司令官アルメイダ提督:〜
  
7th Portuguese India Armada (Almeida, 1505/3/25〜1506/5/23)
▼ポルト・デ・アレ港での編制替え後の艦隊(船長)21隻の編成:〜
  ・第1艦隊〜速度が遅い船13隻で編成〜司令官ドン・アルメイダ提督
  ・第2艦隊〜速度が早い船 7隻で編成〜司令官ドン・マヌエル・パサンハ卿
  ・ゴンサロ・デ・パイヴァ船長のカラヴェル船は第1艦隊の水先案内船に使用
・第1艦隊(First Squadron)13隻:〜総司令官(Francisco de Almeida)
01)サンジェロニモ号(Sao Jeronimo)、大型ナオ船
  ルイ・フェレイラ・デ・アンドレード船長(Rui Freire de Andrade)
02)サンラファエル号(Sao Rafael)、大型ナオ船
  フェルナオ・ソアレス船長(Fernao Soares)
03)ライオナルダ号(Lionarda)、大型ナオ船
  ディオゴ・コレイア船長(Diogo Correia)
04)ジュディア号(Judia)、大型ナオ船
  アンタン・コンサルヴェス船長(Antao Goncalves)
05)ボタフォゴ号(Botafogo)、大型ナオ船
  ジョアン・セラン船長(Joao Serrao)
06)マダレナ号(Madalena)、大型ナオ船
  ロポ・デ・デウス船長(Lopo de Deus)
07)フロー・ド・マー号(Flor de la Mar)、大型ナオ船
  ジョアン・ダ・ノーヴァ船長(Joao da Nova)、第3次インド遠征艦隊の総司令官
08)サンガブリエル号(Sao Gabriel)、大型ナオ船、喜望峰で遭難
  ヴァスコ・ゴメス・デ・アブロウ船長(Vasco Gomes de Abreu)
09)サンミゲル号(Sao Miguel)、ナヴェタ船
  フランシスコ・デ・サ船長(Francisco de Sa)
10)エスフェラ号(Esphera)、ナヴェタ船
  フェリペ・ロドリゲス船長(Felipe Rodrigues)
11)フェルナン・ベルムデス船長(Fernao Bermudez)、ナヴェタ船
12)ゴンサロ・デ・パイヴァ船長(Goncalo de Paiva)、カラヴェル船、モンバサでの砲撃で炎上
13)ベラ号(Bella)、大型ナオ船
  ペロ・フェレイラ・フォガサ船長(Pero Ferreira Fogaca)、赤道付近で遭難
・ゴンサロ・デ・パルヴァ船長のカラヴェル船は第1艦隊の水先案内船に使用

・第2艦隊(Second Squadron)7隻:〜司令官ドン・マヌエル・パサンハ提督(D.Manuel Pacanha)
01)コンセパン号(Concepao)、大型ナオ船
  セバスチャン・デ・ソウサ船長(Sebastiao de Sousa)
02)ロポ・サンチェス船長(Lopo Sanchez)、ナヴェタ船、喜望峰で遭難・乗り切る
03)アンタン・ヴァズ船長(Antao Vaz)、カラヴェル船
04)ゴンサロ・ヴァズ・デ・ゴース船長(Goncalo Vaz de Goes)、カラヴェル船
05)サンジョルジョ号(Sao Jorge)、カラヴェル船、喜望峰で遭難・乗り切る
  ジョアン・ホーメン船長(Joao Homem)
06)ロポ・チャノサ船長(Lopo Chanoca)、カラヴェル船、喜望峰で遭難・乗り切る
07)ルーカス・ダ・フォンセカ船長(Lucas da Fonseca)、カラヴェル船、喜望峰で遭難・乗り切る
・第5次インド遠征艦隊10隻の中に、25才のフェルディナンド・マゼランが乗組み
・第5次インド遠征艦隊10隻の中に、18才のヌーノ・ダ・クーニャが乗組み。

▼第7次インド遠征艦隊の航海日誌より:〜
1505年
03/25、ドン・アルメイダ提督が国王から初代インド副王の宣旨を受けて、
     22隻の艦隊がリスボンを出帆
     サンチャゴ号がテージョ河々口(Tagus)で座礁して出帆できずにリスボン港へ戻って修理、
     1ヵ月後に司令官アナイア船長の後続艦隊に加わり、ソファラ要塞の建設に向う
04/06、艦隊がカーボヴェルデ諸島に到着、
     セネガルルのヴェルデ岬半島にあるポルト・デ・アレ(Porto de Ale)港に寄港・補給後、
     艦隊の編成がえを行う、
      ・第1艦隊〜速度が遅い船舶13隻で編成〜司令官アルメイダ提督
      ・第2艦隊〜速度が早い船舶7隻で編成〜司令官ドン・マヌエル・パサンハ卿
      ・ゴンサロ・デ・パルヴァ船長のカラヴェル船は第1艦隊の水先案内船に使用
05/05、赤道を通過
     ペロ・フェレイラ・フォガサ船長のベラ号が水漏れで遭難、乗組員は他の船に乗換え
06/25、喜望峰を回航するも
     大嵐で艦隊がバラバラになってモザンビーク海峡へ、
     アンゴシェ(Angoche)沖のプリメイラス島(Primeiras)で
     修理しながら艦隊の集合を待ち、
     便りを取りにパイヴァ船長をモザンビーク島へ行かせる
07/18、ボタフォゴ号とサンガブリエル号の2隻を見失い、
     パイヴァ船長がモザンビーク島から
     戻らないまま、タンザニアのキルワ(Kilwa)へと出帆、
     途中でフェルナン・ベルムデス船長を
嵐の岬(喜望峰)を回航

シスカイ 1991/5/11 発行
     パイヴァ船長の消息を探しにモザンビーク島へ急派
     第2艦隊は喜望峰を
     コンセパン号、アンタン・ヴァズ船長、ゴンサロ・ヴァズ・デ・ゴース船長の3隻が回航し、
     他の4隻は遭難
07/23、タンザニアのキルワに第1艦隊13隻の内、8隻が到着、
     第4次艦隊が建設した砦に向かって号砲を放つも返事が無く、ノーヴァ船長を偵察にやるも
     首長イブラヒム(Emir Ibrahim)が応答しないので、攻撃を決意して、兵500人をアルメイダ提督
     と息子のロレンゾ(Lourenco de Almeida、1488-1508)との2手に分けて上陸、宮殿へ行軍、
     首長イブラヒムは街から逃亡、新首長にムハンマド・イブン(Muhammad ibn Rukn ad Din )擁立
     キルワ島にサンチャゴ要塞(Fort Sant'Iago)建設、遭難したベラ号フォガサ船長と兵550人を
     駐留させ、行政長官をカウチンホ(Francisco Coutinho)として奥地の金を取引を探求させる
     ベルムデス船長とパイヴァ船長が到着して第6次艦隊アルヴェルガリア船長の便りが届き、
     1503年の第5次インド遠征艦隊第3艦隊ルイ・ロレンソ・ラヴァスコ船長(Ravasco)と
     アントニオ・ダ・サルダーニャ船長(Saldanha)によるマリンディ攻撃とインド情勢をを知る
     ボタフォゴ号が到着、サンガブリエル号と第2艦隊は依然として不明
     ゴンサロ・ヴァス・デ・ゴース船長のカラヴェル船をキルワ沿岸警備とする
08/08、パサンハ船長(Manuel Pacanha)のカラヴェル船1隻を残留させて、
     季節風の都合で第1艦隊がキルワを出帆
08/13、ケニヤのモンバサ(Mombaca)に到着、
     パイヴァ船長が港の水深を調査中に海岸の砲台から砲撃されて炎上、
     キルワの攻撃を知ったモンバサは多数のバンツー人(Bantu)射手を街の周りに配置
     街を砲撃して上陸、味方にも死傷者が出る激戦の後にサルタンを捕え占領、虐殺が起るが、
     海岸に船の修理場所を確保、
     ロポ・チャノサ船長とジョアン・ホーメン船長がマリンディから合流
08/27、モンバサを14隻が出帆、インド洋の横断航海へ
09/13、インドの南ゴアのアンジャディプ島(Anjediva)に到着、
    初代インド副王に就任して、
    直ちにサンミゲル要塞(Fort Sao Miguel of Anjediva)の建設を開始し、
    教会(Church of Our Lady of Springs、ポ:Nossa Senhora da Brotas)を建設
    カナノール、コーチン、キロンへ艦隊を派遣
09月下旬、コンセパン号、パサンハ船長(Pacanha)乗船と
    アンタン・ヴァズ船長がアンジャディプ島に到着
10月上旬、ホーメン船長とロポ・チャノサ船長がアンジャディプ島に到着するも、
    ロポ・サンチェス船長(ケリマネQuelimane)近郷にあり)と
    ルーカス・ダ・フォンセカ船長(モザンビークにあり)の消息は無い
インドの寺院

インド 1949 発行
    要塞の建設が終わるとパサンハ船長と兵80人を駐留させる
10/16、アンジャディプを出帆、
    シャラヴァチ川(Sharavathi River、128km)河口のオノール(Onor:Honnavar)へ向う
    オノールはヴィジャヤナガル帝国(Vijayanagara Empire、1336-1649)の支配下に有って
    無数のアラブ船とアディル・シャヒ王家(Adil Shahi dynasty)のチモジャ(Timoja)海賊が寄港し
    ポルトガルに反抗していたので、これを攻撃し、帝国のオノール総督とチモジャ海賊が恭順して
    ポルトガルへの忠誠を誓いました
10/23、カナノールの友好的なチラカリ王(Chirakkal Raja)がサンアンジェロ要塞を承認
10/24、オノールを出帆、南のカナノールへ向う
    カナノールで古いファクトリーを訊ね、ゴンサロ・ギル・バルボサ(Goncalo Gil Barbosa)商館長に
    カナノールのコラチリ王(Kolathiri Raja)が要塞の建設を認めたことを聞き、要塞の建設を開始
    11月にサンアンジェロ要塞(Fort Sant' Angelo)が完成、兵150人と沿岸警備(patrol ships)に
    ナヴェタ船2隻、サンミゲル号とフェルナン・バルムデズ船長を駐留させる
    これで、ゴアのアンジャディプ要塞とカナノール要塞が完成し、アルメイダ提督は初代インド副王
    として、ヴィジャヤナガル帝国と安全保障条約を取り交わす
10月、ホーメン船長のサンジョルジョ号がキロン着、
    キロン商館長アントニオ・デ・サ(Antonio de Sa)がキロン政庁にイスラム香料商人の船を港から
    締め出す様に交渉しているところにホーメン船長が着いたので、イスラム船を追い払いました
    サンジョルジョ号がキロンを離れると、キロンのイスラム勢力が暴動を起し、商館や教会を焼き
    其処に居たポルトガル人が虐殺される事件が起る
10/30、アルメイダ副王がカナノールを出帆、コーチンへ向うも
    キロンの暴動とポルトガル人虐殺を聞きキロンへ急行、アルメイダ副王の怒りにふれた
    ホーメン船長はサンジョルジョ号追われ、その交代でヌーノ・ヴァズ・ペレイラ(Nuno Vaz
    Pereira)を船長として乗組ませる
10/31、コーチンに8隻で到着、キロンの虐殺を聞き、
    20才の息子ロレンゾを6隻のカラヴェル船でキロンに派遣、27隻のカリカット船を破壊
    コーチン要塞フォート・マヌエルの武装を強化
11月、エジプト・マルムーク朝の最後の王アル・アシャーの船隊がアデン(Aden)を攻撃
12月、アルメイダ副王がコーチン着、
    キロンとの関係改善を願って20才の息子ロレンソの艦隊をキロンへ派遣
    コーチン要塞フォート・マヌエル(Fort Manuel)を強化して
    ドン・アルヴァロ・デ・ノローニャ(D. Alvaro de Noronha)を守備隊長とし、
    第6次艦隊のヴァスコンサロス船長(Manuel Telles de Vasconcelos)をコーチン市長官に、
    ディオゴ・フェルナンデス・コレイア(Diogo Fernandes Correia)を帰国させ、
    ロレンソ・モレノ(Lourenco Moreno)を抜擢して商館長に昇格させる
1506年
01/02、帰国の第1艦隊5隻がコーチンを出帆
01/21、帰国の第2艦隊3隻がカナノールを出帆
02月、帰国の第3艦隊2隻が出帆

05/23、帰国の第1艦隊がリスボンに4隻が帰港、1隻は6月に帰港
11/15、帰国の第2艦隊がリスボンに2隻が帰港、1隻は翌年1月に帰港
12月、帰国の第3艦隊がリスボンに1隻が帰港、1隻はザンジバル付近で第8次艦隊に合流

アルメイダ副王の大冒険:〜
・1505年(55才)〜リスボン港を出帆、
           ゴアのアンジャディプ島に
           サンミゲル要塞(Fort Sao Miguel of Anjediva)を建設
           カナノール要塞サンアンジェロ(Fort Sant' Angelo)を強化
           コーチン要塞フォート・マヌエル(Fort Manuel)を建設
・1506年(56才)〜第7次インド遠征艦隊が帰国で、10隻がインドを出帆、
           副王とナオ船10隻他の船はインドに残留、
           カナノールの海戦に勝利、
           アンジャディプ島サンミゲル要塞包囲攻撃に勝利
・1507年(57才)〜カナノールの包囲攻撃に勝利、
           カナノールの海戦に勝利
アルメイダ副王
・1508年(58才)〜チャウルの海戦に敗れ
           息子ロレンソ・デ・アルメイダが戦死
・1509年(59才)〜ディウの海戦に勝利、
           アルブケルケ将軍をカナノールに監禁
           帰国でインドを出帆
・1510年(60才)〜南アのテーブル湾で亡くなる

1506年
    第7次インド遠征艦隊の10隻が帰国するも、なお大型ナオ船10隻を保有
    カリカットのザモリン(Zamorin of Calicut)がイスラム船200隻を準備
03月、息子のロレンソがカナノール港口のイスラム船集結を知る、
    カナノールの海戦が勃発、勝利するも損害も大きい
    ロレンソをセイロンへ派遣、コロンボに居住地を建設
    ザモリンのたきつけでカナノールのコラチリ王(Klattiri)が反抗するも完全鎮圧ならず
    アンジャディヴァ島包囲攻撃の戦い(Siege of Anjadiva)でポルトガルが防衛に成功
1507年
    トリスタン・ダ・クーニャ船長の艦隊アルブケルケ将軍の艦隊が到着するも、
    勝手に別々に行動して単独行動をとる
04/27、カナノールの包囲攻撃(Siege of Cannanore)勃発
08/27、トリスタン・ダ・クーニャ船長の艦隊11隻がソコトラ島から到着、
    カナノールの包囲攻撃に勝利して、サンアンジェロ要塞の防衛に成功
1508年
    カリカット承認の要請でエジプトの
    マルムーク朝のアルカイダ王(Amir Husain Al-Kurdi 16世紀初頭)の船隊が攻めよせる
03月、チャウルの海戦(Battle of Chaul)が勃発、ロレンソが戦死
    ポルトガルは一時撤退
12月、アルブケルケ将軍がカナノール着、国王の副王交代の親書を提示するも
    マルムーク船隊との息子ロレンソの復習戦に備えて応じず、後(1509/7)に将軍を投獄
1509年
02/03、エジプト(Burji dynasty Egypt 1382-1517)とのディウの海戦(Battle of Diu)に勝利、
    ポルトガルがアラビア海の制海権を奪取して、100年以上に渡りインド洋を支配
07月、アルブケルケ将軍を監禁
11月、ポルトガルからの艦隊到着で、アルブケルケ将軍が開放される
12月、アルメイダ提督の艦隊がインドを出帆、帰国へ
1510年
02月下旬、喜望峰近くのテーブル湾(Table Bay)着、飲料水を補給、
     ガルシア号(Garcia)、ベレン号(Belem)、サンタ・クルーズ号(Santa Cruz)の乗組み員が
     コイコイ人(Khoikhoi)に出会い、村に行くと牛が飼われているのを見つける
03/01、旗艦のディオゴ・ドゥンホス航海長(Diogo d'Unhos)のボートでアルメイダ副王と兵が上陸、
     ボートが水汲み場へ行っている間に、牛を捕りに行って攻撃され、副王と64人が殺害され
     副王の遺体は現:ケープ・タウンの浜辺に埋葬されました。

参考HP:〜
 ・アフリカ東岸の航海地図
 ・インド西岸の航海地図

第7次インド遠征艦隊の後続艦隊6隻の航海:〜
1505年
05/18、司令官ペロ・デ・アナイア船長の第7次インド遠征艦隊の後続艦隊6隻がリスボンを出帆
09/04、喜望峰で嵐に遭遇するも、ソファラに到着
     モザンビークのケリマネ近くでロポ・サンチェス船長の乗組員の半数が飢えて亡くなる
     キルワ王(Kilwa Sultanate)に商館と要塞の建設承認を求めるも認めないので、
     キルワとモンバサを攻撃して、サン・カイェタノ要塞(Fort Sao Caetano)をソファラに建設
     アナイア船長が要塞隊長に、マヌエル・フェルナンデス(Manuel Fernandes)は商館長になる

探索・救援艦隊2隻の航海:〜
1505年
09月、ジュリオア号とペドロ・クアレスマ船長のカラヴェル船がリスボンを出帆、
    南アフリカでコレンテス岬(Cape Correntes)付近で消息を絶った
    第5次艦隊の2隻、サンクリストバン号とファイアル号、そして
    第6次艦隊のペロ・デ・メンドウサ船長の探索・救援活動を行った後に、渡すべき
    ソファラのアナイア船長とインドのアルメイダ副王宛ての国王の親書を携え行く
    南アフリカ海岸から喜望峰、ナタール(Natal)海岸を数か月に渡って捜索、
    モンバサ近くでメンドウサ船長のカラヴェル船の残骸を発見するも無人で、
    他の2隻の消息は遥として分からず

参考HP:〜
 ・アフリカ南部海岸の地図

▼第7次インド遠征艦隊22隻の編成(船長):総司令官アルメイダ提督〜リスボン出帆時
 7th Portuguese India Armada (Almeida, 1505/3/25〜1506/5/23)
、10隻が帰港
・大型ナオ船(Large Naus)〜12隻
01)ボンジーザス号(Bom Jesus)〜行動詳細の不明な船で、別行動説有
  総司令官ドン・アルメイダ提督(D. Francisco de Almeida)
02)サン・ジェロニモ号(Sao Jeronimo)、400t、帰港
  ルイ・フェレイレ・デ・アンドレデ船長(Rui Freire de Andrad)
03)サン・ラファエル号(Sao Rafael)、帰港
  フェルナン・ソアレス船長(Fernao Soares)、独ハンス・メイヤー(Hans Mayr)乗船
04)ライオナルダ号(Lionarda)、400t、帰港
  ディオゴ・コレイア船長(Diogo Correia)、
   独バルタザール・スプレンジャー(Baltazar Sprenger)乗船
05)ジュディア号(Judia)、帰港
フロードマー号
  アンタン・ゴンサルヴェス船長(Antao Goncalves、Sesimbra出身)、ゴンサルヴェス船長の息子
06)ボタフォゴ号(Botafogo)、400t、帰港
  船長不詳、水先案内ジョアン・セラン(Joao Serrao)、
  コーチンでドン・アルヴァロ・ノローニャ船長(D. Alvaro de Noronha)が乗組み
07)マダレナ号(Madalena)
  ロポ・デ・デウス船長(Lopo de Deus/Goes Henriques)、
  カナノールでドン・ロレンソ・デ・ブリト船長(D. Lourenco de Brito)が乗組み
08)フロー・ド・マー号(Flor de la Mar)、400t、第3次インド遠征艦隊総司令官ノーヴァ船長の旗艦
  第3次(1501)参加のノーヴァ船長(Joao da Nova.)、沿岸パトロール隊(India patrol)で残留
09)サン・ガブリエル号(Sao Gabriel)
  ヴァスコ・デ・アブロウ船長(Vasco Gomes de Abreu)、紅海作戦艦隊(Red Sea patrol)参加
10)コンセパン号(Concepao)、
  セバスチャン・デ・ソウサ船長(Sebastiao de Sousa)、
  ドン・マヌエル・パカニャ船長(D. Manuel Pacanha/Pessanha)乗船
  アンジェディヴァ(Anjediva)で第2艦隊旗艦となりパカニャ船長が乗組み
11)ベラ号(Bella)、赤道付近で遭難
  ペロ・フェレイラ・フォガサ船長(Pero Ferreira Fogaca)、キルワ(Kilwa)で船長となる
12)サンチャゴ号(Sant' Iago)、400t、タホ河(Tagus)で遭難して出帆せず、
  ペロ・デ・アナイア船長(Pero de Anaia)、ソファラ(Sofala)で船長,
  後に分れてソファラ艦隊(Sofala squad)に参加

・小型ナオ船(Small Naus):ナヴェタ船(navetas)〜4隻
13)サン・ミゲル号(Sao Miguel)
  フランシコ・デ・サ船長(Francisco de Sa/Fernao Deca)、
  モンバサ(Mombassa)で殺害されるロドリゴ・ラベロ(Rodrigo Rabello)が船長で通過
14)エスフェラ号(Esphera)
  フェリペ・ロドリゲス船長(Felipe Rodrigues)
15)フェルナン・ベルムデス船長(Alonso/Fernao Bermudez)、カスティリア(Castilian)出身
16)ロポ・サンチェス・カスティリアン(Lopo Sanchez Castilian)、カスティリア(Castilian)出身
  この船はモザンビークのキルマネ(Quelimane)近郷で遭難

・カラヴェル船(Caravels)〜6隻
17)ゴンサロ・デ・パルヴァ船長(Goncalo de Paiva)、第1艦隊からのスカウト船長
18)アンタン・ヴァズ船長(Antao Vaz)、この年には出帆せず
   よくアントニオ・デ・カンポ(Antonio do Campo)と混同される
19)ゴンサロ・ヴァズ・デ・ゴース(Goncalo Vaz de Goes)、沿岸パトロール隊(Kilwa)で残留
20)サン・ジョルジ号(Sao Jorge)、
  ジョアン・ホーメン(Joao Homem)、喜望峰で離れるも、マリンディ(Malindi)で合流
  キロン(Quilon)の虐殺を挑発、ノーノ・ヴァズ・ペレイラ船長(Nuno Vaz Pereira)乗組み交代
21)ロポ・チャノカ船長(Lopo Chanoca)、
   喜望峰で離れるも、マリンディ(Malindi)で合流
22)ルーカス・ダ・ホンセカ船長(Lucas da Fonseca/d'Affonseca)
  喜望峰で離れて、1506迄インド洋を横断せず、ソファラ・ナオ船(Sofala naus)と横断

後続艦隊6隻:第7次インド遠征アルメイダ艦隊:〜
 ソファラ遠征艦隊6隻の編成(船長):司令官アナイア船長:〜1ヵ月後に出帆
  Portuguese expedition to Sofala (Anaia, 1505)

 司令官ペロ・デ・アナイア船長(Pero de Anaia)〜ソファラ要塞の建設
・ナオ船(Naus)〜3隻
23)司令官ペロ・デ・アナイア船長の旗艦、
, captain of Sofala; Ship later taken by Paio Rodrigues de Sousa to India in 1506.
24)エスピリト・サント号(Espirito Santo)、400t
  ペドロ・バレト・デ・マガルハエス船長(Pedro Barreto de Magalhaes)
  サンチェズ号(Sanchez)の乗組員をキルマネ(Quelimane)で救助
  インドに到達するも、キルワ(Kilwa banks)で座礁
25)サント・アントニオ号(Santo Antonio)、
  ジョアン・レイテ船長(Joao Leite)、
  1506年にペドロ・バレト・デ・マガルハエス船長(Pedro Barreto de Magalhaes)でインド到達
.・カラヴェル船(Caravels)〜3隻
26)サン・ジョアン号(Sao Joao)
  フランシスコ・デ・アナイア船長(Francisco de Anaia)、
  沿岸パトロール隊(Sofala patrol)で残留するも、モザンビーク近郷で喪失
27)マヌエル・フェルナンデス船長(Manuel Fernandes)、
  ソファラでファクトリー(商館)建設、
  1506年にジョアン・メンデス・カコト船長(Jorge Mendes Cacoto)でインド到達
28)サン・パウロ号(Sao Paulo)、
  ジョアン・デ・クェイロス船長(Joao de Queiros)、
  沿岸パトロール隊(Sofala patrol)で残留するも、モザンビーク近郷で喪失

最後の2隻:第7次インド遠征アルメイダ艦隊の後続艦隊:〜行方不明の3隻を探索
 探索・救援艦隊2隻の編成(船長)司令官バルブド船長
  Search & Rescue expedition to South Africa (Barbudo, 1505)

29)ジュリオア号(Julioa)、ナオ船(nau)
  シデ・バルブド船長 (Cide Barbudo)、1506年にインド洋を横断
30)ペドロ・クアレスマ船長(Pedro Quaresma)、カラヴェル船(caravel)、
  ソファラに残留

帰国の第1艦隊5隻の編成:〜
01)サン・ラファエル号(Sao Rafael)
   フェルナン・ソアレス船長(Fernao Soares)、
   マダガスカル島東海岸航路を単独で通過して島であることを確認
02)サン・ジェロニモ号(Sao Jeronimo)
   ルイ・フェレイレ・デ・アンドレデ船長(Rui Freire de Andrade)
03)ジュディア号(Judia)
   アンタン・ゴンサルヴェス船長(Antao Goncalves)
04)コンセパン号(Concepao)、
   セバスチャン・デ・ソウサ船長(Sebastiao de Sousa)、
05)ボタフォゴ号(Botafogo)
   マヌウル・トレス・デ・ヴァスコンセロス船長(Manuel Telles de Vasconcelos)
   最初の船長ジョアン・セラノ(Joao Serrao、?-1521セブ島没)は沿岸警備カラヴェル船で残留
   マヌエル・テレス船長(Manuel Telles)説では、6月帰国

帰国の第2艦隊3隻の編成:〜
06)ライオナルダ号(Lionarda)
   ディオゴ・コレイア船長(Diogo Correia)
07)マダレナ号(Madalena)
   ロポ・デ・デウス船長(Lopo de Deus)、モザンビークで修理、1507/1月帰港となる
   前船長ディオゴ・フェルナンデス・コレイア(Diogo Fernandes Correia)は商館長となる
08)第6次艦隊の古いナオ船
    前商館長ゴンサロ・ギル・バルボサ(Goncalo Gil Barbosa)が乗船

帰国の第3艦隊2隻の編成:〜
09)サン・ガブリエル(Sao Gabriel)、
   ヴァスコ・デ・アブロウ船長(Vasco Gomes de Abreu)、
   アルメイダ提督の公式報告書とインド象の赤ん坊を運ぶ
10)フロー・ド・マー号、
   ノーヴァ船長〜修理でモザンビークに残留

参考HP:〜
 ・アフリカの地図(日本語)
 ・アフリカの地図(詳細)

▼ディウの海戦 (1509/2/3):〜ポルトガルの決定的勝利
  Naval Battle of Diu
 ポルトガル艦隊とマルムーク6カ国連合船隊の海戦
区分 ポルトガル カリカット連合
対戦国 ポルトガル 6ヵ国連合
司令官 アルメイダ提督 マルムーク王
兵力 対戦兵 P:1,300人 -
支援兵 コーチン: 400人
艦隊 ナオ船 6隻 大型船 12隻
カラヴェル 12隻 その他 250隻以上
カリカット 80隻
ディウ

ポ領インド 1956  発行
アルメイダ提督のポルトガル艦隊
 ・ノーヴァ船長が旗艦フロー・ド・マー号で従軍
 ・ポルトガルの支援国〜ナイール王国(Nair)
  チャウルの海戦での息子ロレンソ・デ・アルメイダの復讐戦に勝利
  以降ポルトガルが百年以上もアラビア海からインド洋の制海権を奪取

・6カ国連合船隊:〜
  ・クジャラート王国ムハンマド・ベガダ王の私掠船長マリク・アヤズ最強海賊(Malik Ayyaz)
   (Gujarat Sultanate 1391-1583)(Sultan of Gujarat、Mahmud Begada 1458-1511)
  ・マルムーク朝エジプト王国アミル・フセイン・アルカイダ王
   (Mamluk Sultanate Egypt 9-19th century、Amir Husain Al-Kurdi)
  ・コージコート王国の提督クンジャリ・マラカール(Kunjali Marakkar)
   (Kozhikode Zamorin Raja(Saamoothiri 1100-1766)
  ・オスマン帝国
   (Ottoman Empire)
  ・ヴェネツィア共和国
   (Republic of Venice)
  ・ラグサ共和国(現クロアチア最南端)
   (Republic of Ragusa、Dubrovnik)

参考HP:〜
 ・Portuguese-Mamluk naval warの地図(インド洋でのエジプトとの海戦)
 ・イベリア半島の分割地図
  (1400年頃、ポルトガル、カステリア、ナバラ、アラゴン、グラナダの各王国)
 ・OttomanEmpireIn1683(オスマン・トルコの領土地図)
 ・ヴェネティア共和国の地図
 ・Republic of Venice(ヴェネティア共和国の地図)
 ・Borders of the Republic of Ragusa, from 1426(ラグサ共和国の地図)

・発見者の群像(5)インド洋支配!
(1)アルメイダ提督
(2)アルブケルケ将軍
(3)聖フランシスコ・ザビエル
(4)ルイス・デ・カモンイス詩人
(5)アルヴァレス船長
(6)メンデス・ピント船長
(7)フロイス神父

こちらで
エンリケ航海王子の船長たち(※)エンリケ王子の探検航海事業!
ジル・エアネス船長(0)ボジャドール岬を突破!
トリスタン・ヴァス・テイシェイラ船長(1)アフリカ西岸を越えて!
ジョアン・デ・サンタレン船長(2)赤道を越えて!
バーソロミュー・ディアズ船長(3)喜望峰を越えて!
ジョアン・デ・カストロ船長(6)インド副王列伝!
マゼラン (海峡)
スパイス (香辛料)
コーヒー (嗜好飲料)
ラッコ(絶滅危惧種)
クリッパートン島(絶海の孤島)
カリブ海の地図(島国シリーズ)
フランスの王と王族(ブルボン朝)
切手コレクションの
イギリス皇太子ご成婚
・切手で綴る東海道五十三次
全米50州アメリカ
・世界で1番美しい 蝶々
・ギリシャの民族衣装
・スペインの画家ゴヤ
世界遺産
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法隆寺日本
ヌビア遺跡エジプト
ピラミッド (エジプト)
パルテノン神殿ギリシャ
モヘンジョダロパキスタン
をお楽しみください。

・上記はこちらの文献などを参照させてもらいました。    10/10/20追記、令和6年 2024/8/8
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