Portugal

国連 1989 発行
切手で綴る 冒険大航海(Adventure Voyages)ポルトガル発見者の群像(3-5
ペドロ・カブラル船長
1500
ブラジルを発見
ブラジルに上陸第2次インド遠征艦隊

大航海物語
ポルトガル編

PORTUGAL
ペドロ・カブラル
カブラルの船隊
1469 カブラル生誕500年記念 1969
ポルトガル 1969/130 発行
インドへの航路地図
ポルトガル・リスボン、ブラジル
アフリカ・喜望峰
インド・カリカット



ブラジル
インド


ポルトガル領モザンビーク 1969/8/29 発行
南米の地図

エクアドル 1961/2/27 発行


←ブラジル

カブラルはヴァスコ・ダ・ガマのインド航海の成功の後、第2回めの
インド遠征隊を引きいてインドへ向う途中、ブラジルを発見しました。
ペドロ・アルバレス・カブラル船長
 Pedro Alvares Cabral (1468頃〜1520)
カブラル船長はポルトガル・ベルモンテの貴族の家に生まれ、宮廷社会で育ちました。マヌエル1世に貴族の顧問官として仕え、キリスト騎士団の一員となったこと以外はほとんど伝えられていません。

1499年、マヌエル1世は1498年のヴァスコ・ダ・ガマ提督のインド航海の成功に次ぐ第2回目の航海を計画し、その司令官に31才のカブラル船長を任命しました。今回の艦隊は13隻に1,200人を乗せた大遠征隊となり、1500/3/8に大観衆の華やかな見送りを受けて、ポルトガルのテージョ河々口のリスボン港を出帆しました。彼はガマが1497-99年の航海で作成した「東方航路図」に従って航海をしましたが、何故か大幅に西へと航路を外れてしまいました。嵐に遭ったというのが定説ですが確証は無いようです。

第2次インド遠征艦隊13隻の編成(船長):総司令官カブラル船長
 2nd Portuguese India Armada (Cabral, 1500-1501):〜1,500人
 1)ペドロ・カブラル総司令官
 2)ニコラウ・コエリョ船長(Nicolau Coelho、1460-1504)
    1497年ガマの航海に参加
 3)ペドロ・デ・アタイデ船長(Pedro d'Ataide)
 4)ペロ・ヴァス・デ・カミーニャ船長(Pero Vaz de Caminha)
    (ヌーノ・ダ・クーニャ船長、Nuno Leitao da Cunha、説有)
 5)ガスパル・デ・レモス船長(Gaspar de Lemos)
   又はアンドレ・ゴンサルヴェス船長(Andre Goncalves)
 6)ルイス・ピレス船長(自称:伯爵、Luis Pires:Count Portalegre)
 7)ディオゴ・ディアス船長(Diogo Dias)、バーソロミュー船長の弟
カブラルの船隊

アンゴラ 1968 発行
 8)バーソロミュー・ディアス船長
 9)サンチョ・デ・トーヴァー船長(Vice-admiral. Sancho de Tovar)
10)アイレス・ゴメス・ダ・シルヴァ船長(Aires Gomes da Silva)
11)シマオ・デ・ピーニャ船長(Simao de Pina)
12)ヴァスコ・デ・アタイデ船長(Vasco de Ataide)
13)シマオ・デ・ミランダ・デ・アゼヴェド船長(Simao de Miranda de Azevedo)
   航海日誌より:〜






★カブラル物語 ペドロ・カブラル船長
1500/4/22
ブラジルに上陸
大航海物語
ポルトガル★

Portugal
晩年のカブラル

ポルトガル 1945/1/29 発行
BRASIL CRREIO
ホーメンのブラジル古地図
Diego Homen 1568
ブラジル
←サンロケ岬




←アマゾン河
ブラジル 1972/8/26 発行

PORTUGAL
カブラルの紋章

ポルトガル 1969/130 発行

1500/4/22に南緯17度の海上で、はからずも西方に陸影が認められ上陸して海岸地帯を探検しました。カブラル船長はここをポルトガル王の新領地であると宣言し「イリャ・デ・ヴェラクルス」と命名しました。同行していた貿易商人たちは良質な赤色染料の原料となる「ブラジル・ウッド」が生い茂っているのを見て、’ブラジルの地’と呼び、「ブラジル」の語源となりました。ブラジル発見の知らせを国王に送って、やがて彼はインドに到着し、コーチンに貿易の拠点を開設しました。そして艦隊は待望の東洋産の香料を満載して、翌年1501/6/23にポルトガル・リスボンに帰港しました。

その後、ガマ提督のインド航海の準備を手伝ったこと以外は詳しい記録は無く、サンタンレン近郷のジャルディンの領地に引退して、1520年に52才で亡くなりました。

参考HP:〜
カブラルの航海地図(往路:赤、復路:青、2010/10/30追記)






★カブラル物語 第2次インド遠征艦隊
1500〜1501
総司令官ペドロ・カブラル船長
大航海物語
ポルトガル★

CABO VERDE
1468 カブラル生誕500年記念 1968
カブラルの航海地図
ペドロ・カブラル



南アメリカ
カンティーノの古地図、1502
アフリカ
縦の赤線はトルデシリャス条約
カーボヴェルデ 1968/4/22 発行
BRASIL CRREIO
カブラルの船隊

ブラジル 1968/4/22 発行
ANGOLA
カブラルの船隊

1468 カブラル生誕500年記念 1968
アンゴラ 1968/4/22 発行

第2次インド遠征艦隊13隻の編成(船長):総司令官ペドロ・カブラル船長
 2nd Portuguese India Armada (Cabral, 1500/3/08-1501/6/23
4隻が帰港
01)旗艦キャラック帆船(200t carrack)、インド到達・帰国
   総司令官ペドロ・カブラル、エスコラール船長が水先案内人で乗船
02)ニコラウ・コエリョ船長
   ヴェルデ岬で遭難、ヴェルデ岬で帰国中の艦隊に出会い帰国
03)サン・ペドロ号(Sao Pedro、70t square-rigged caravel)
   ペドロ・デ・アタイデ船長
   モッセルベイに手紙を残す、インド到達帰国
04)ノッサ・センホラ・ダ・アヌンシャカン号(Nossa Senhora da Anunciacao
   ペロ・ヴァス・デ・カミーニャ船長
   個人所有のカラヴェル帆船、100t caravel)、インド到達・帰国
05)補給船(supply ship)、火災でリスボンへ帰国して、ブラジル発見を報告
   ガスパル・デ・レモス船長
06)ルイス・ピレス船長
   乗船がヴェルデ岬で破損するも、リスボンへ帰国
07)ディオゴ・ディアス船長
   マダガスカル島を発見後、紅海へ行く、ヴェルデ岬で帰国中の艦隊に出会い帰国
08)バーソロミュー・ディアス船長
   喜望峰付近で遭難
09)エル・レイ号(El Rei、200t carrack)、帰路、マリンディ付近で座礁
   サンチョ・デ・トーヴァー船長
10)アイレス・ゴメス・ダ・シルヴァ船長
   喜望峰で遭難
11)シマオ・デ・ピーニャ船長
   喜望峰で遭難
12)ヴァスコ・デ・アタイデ船長、ナオ船、150人乗組み
   ヴェルデ岬か喜望峰で遭難
13)シマオ・デ・ミランダ・デ・アゼヴェド船長、インド到達
   帰路、ソファラ付近で座礁するも乗切り、帰国

カブラルの第2次インド遠征艦隊の航海日誌より:〜
1500年
02/15、インド遠征艦隊(第2次)の最高司令官に任命される
03/08、マヌエル1世の命により、
     テージョ河々口リスボン港ベレン周辺に13隻が集結
03/08〜09、13隻がリスボンを順次、出帆
03/14、カナリア諸島最大の島グラン・カナリア島(スペイン領)沖通過
03/22、カーボヴェルデ諸島着
     ルイス・ピレス船長の船がヴェルデ岬で破損し
     船隊を外れる(リスボンへ帰国)
カブラルの船隊
03/23、ヴァスコ・デ・アタイデ船長のナオ船を見失う
04/09、赤道を通過
04/21、海藻(かいそう、Seaweed)を見つけ
     ブラジル望見
04/22、カブラルがブラジル(嵐で漂着?)バハイア州の
     モンテ・パスコウル(Monte Pascoal)に到達・上陸
04/23、12隻が集結・上陸
05/01、カブラル総司令官が天文方に観測で場所の特定をさせ
ブラジル
     トルデシリャス条約線の東と確認、ポルトガル領を宣言
05/02、急遽、カブラルが補給船を発見報告で帰国させる説有
05/03、現:バイーア州ポルト・セグロ(Porto Seguro、Bahia)出帆
     (パイナップル、グアバ、マンゴウをインドへ持ち込む)
     ガスパル・デ・レモス船長の補給船が火災で船隊を外れ
     リスボンへ帰国してブラジル発見を報告
05/24、喜望峰を望見するも、大嵐に遭遇、
     ディアス船長他3隻の計4隻を失い、艦隊は7隻となる
嵐の岬(喜望峰)を回航

シスカイ 1991/5/11 発行
ディアス船長は、1500/5/29に遭難したものとみなされました。
ペドロ・デ・アタイデ船長がモッセルベイに到達・上陸して、ここまでの航海で、「嵐に遭遇してブラジルに漂着したことや、リスボンを出帆した13隻が喜望峰近くで嵐にあって4隻を失い、2隻とははぐれてしまって、残りの船隊が7隻となった」、ことなどを書いた手紙を、水汲み場近くのミルクウッドの木に、古い船乗りのブーツ片方の中に入れて吊り下げて残しました ブーツに手紙を残す

シスカイ 1991/5/11 発行
07/16、ソファラ(Sofala、現:モザンビークのソファラ州)着
07/20、モザンビーク島(Mozambique)着
07/26、キルワ(Kilwa、現:タンザニア)
08/02、マリンディ(Melinde、現:ケニア)着、
     アラブの水先案内人(pilot)を雇う
08/10、嵐でディオゴ・ディアス船長(Diogo Dias)が船団を離れる、その後、同船長が
     マダガスカル島(Madagascar)発見、セント・ローレンス島(St Lawrence)命名
09/13、インドのカリカット(Calicut)に6隻が到着、
     上陸後に現地人と交流して、
     ファクトリー(factory、商館兼倉庫)を建設
12/16、現地人300〜数千人に突然攻撃され、50人が殺害されて船に逃げ帰る
12/17、24時間待ってもカリカット王から何の謝罪も無いので、港内のアラブ商船
     10隻を攻撃、船は炎上して乗組員600人もろ共に沈没、
     そして街を艦砲射撃で終日に渡り攻撃後、ファクトリーを放棄、
     艦隊は南へ移動
12/24、艦隊はコーチン(Kochi)に到着、ファクトリー(商館兼倉庫)を建設
1501年
01/16、カナノール(Kannur )を6隻が東洋産の香料を満載して出帆
     エル・レイ号がマリンディ付近で座礁・遭難
     シマオ・デ・アゼヴェド船長の乗船がソファラ付近で座礁・遭難
05/22、喜望峰を回航
06/02、ベセグイチェ(Beseguiche、現ダカール)着、そこで1年前に遭難ではぐれていた
     ニコラウ・コエリョ船長(Nicolau Coelho)のカラヴェル船と、病人6人が生存の
     ディオゴ・ディアズ船長(Diogo Dias)のナオ船を発見、直後に1人が亡くなる
07/21、リスボンに4隻と途中で出会った船2隻が帰港
     積荷を満載4隻、空船2隻、6隻を失う(補給船は途中で帰国)、計13隻。

参考HP:〜
カブラルの航海地図(1500)
カブラルの船隊地図

・上記はこちらの文献などを参照させてもらいました。 追記03/10/15、09/7/27、10/4/28、7/31
スタンプ・メイツ
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