Portugal

国連 1989 発行
切手で綴る 冒険大航海(Adventure Voyages)ポルトガル発見者の群像(5-2
アルブケルケ将軍
1503、第5次インド遠征艦隊
1510、ゴアを占領

第5次遠征艦隊第8次遠征艦隊ゴア占領マラッカ王国

大航海物語
ポルトガル編

ESTADO da INDIA
晩年のアルブケルケ将軍

ポ領インド  昭和21年 1946/5/28 発行

MOZAMBIQUE
ポルトガルからインドへの航海地図

ヴァスコ・ダ・ガマ 生誕500年 記念
ポ領モザンビーク 1969/8/29 発行
Mozambique
ポルトガル船

Nau de 800tones, 1520
モザンビーク 1963/12/1 発行

アルプケルケ将軍は50才で第5次インド遠征艦隊9隻の総司令官としてインドに向かい、翌年2隻でリスボンに帰国しました。さらに1506年にインドを再訪して、1510年にゴアを占拠し要塞を築きました。その後、二度と本国に帰ることなく、インドで亡くなりました。
アファンソ・デ・アルプケルケ将軍
 (General Afonso de Alebuquerque、1453〜1515/12/16)
アルプケルケ将軍はポルトガルの下級貴族の家に生まれ、若い時から軍人として、地中海や北アフリカで活躍し、ポルトガルの第2代インド副王(身分:初代総督)になりました。
1503年マヌエル王の命により、アルプケルケ将軍は50才で、甥のフランシスコと共に、艦隊を率いてインドに赴きました。将軍はコーチンに向かい城塞を築いて、宿敵サムリン王を城塞での戦いで戦死させ、イスラム教徒の船も追い散らしました。アルメイダ提督の活躍もあって、インド洋支配の確立が出来ました。次は陸上の支配の確立となり、将軍は要塞を築くことによって陸上の支配は出来ると考え、その押さえの拠点の目標としてアデン・ホルムズ・ゴアマラッカの4ヵ所を選んでいましだ。 ゴアの占領

ポ領インド 1956  発行
帰国後1506年に「1508年にインド総督に任命する」旨の宣旨を受け、再び司令官としてインド遠征艦隊と共にポルトガルのテージョ河々口のリスボンを出帆しました。アフリカ南岸の各地を経て、1507年アデン湾口のソコトラ島を攻撃、ペルシャ湾口のホルムズ海峡に至り、ホルムズをポルトガル朝貢国としました。1509年インドのカリカットを攻撃するも、占領には至りませんでした。1510年にはインドのゴアを占領して艦隊の基地としました。

1511年7月には東西貿易の中心地としで栄えていたマレー半島のマラッカへ16隻の大艦隊を派遣して攻め入り占領しました。この占領航海には31才のマゼランが参加していました。この3大拠点を機軸にして東アフリカのソファラとモザンビーク、インド・クジャラートのディウなどに商館を置き、1511〜12年にはマルク諸島(香料諸島)のテルナテ島に艦隊を派遣して通商路を確保しました。こうしてインド洋を支配統制するのに成功しました。
1513年にはアデンを攻撃しましたが占領には至りませんでした。

1515年に再びホルムズを攻撃し要塞を建設しました。ホルムズの支配は非常に重要で、それまでイスラム商人の手によって香料がイタリ−のヴェネティアへと交易されていたのをポルトガルの独占へと替えることとなりました。しかし同地で発病、ゴアに戻るも、同港内の船上で病状が悪化して亡くなりました。62才でした。

なお、アデンは将軍没後にポルトガルが攻略し、香料貿易のポルトガル独占がさらに強化されました。アルプケルケ将軍はアルメイダ提督に次いで、ポルトガル海洋帝国の基礎を築いた人物でした。それはホルムズ・ゴア・マラッカを占拠して要塞化し、その支配を強化し、ソファラモザンピーク島キルワモンパサの拠点を造り上げました。さらにポルトガルの宗主権を確立しました。これでイスラム教徒に対決するポルトガル海上帝国の基礎が築かれ、ポルトガルの植民地支配が完成しました。 アデンの場所地図

英領アデン 1963 発行

参考HP:〜
アフリカの地図、インド付近の地図    2007/11/05 & 12/30






第5次インド遠征艦隊
1503〜1504
総司令官アルプケルケ将軍


CABO VERDE
甲冑姿のアルブケルケ将軍

ポ領ヴェルデ岬諸島  昭和13年(1938)発行

PORTUGAL
ポルトガルからインドへの航海地図

ポルトガル 1969/12/30 発行
Mozambique
ポルトガル船、1500

モザンビーク 1963/12/1 発行
ESTADO da INDIA
マヌエル要塞(コーチン)建設、1503

ポ領インド 1956/3/24 発行

第5次インド遠征艦隊10隻の編成(船長):総司令官アルプケルケ将軍
 5th Portuguese India Armada (Albuquerque, 1503/4/6〜1504/7下旬)
:〜
・第1艦隊4隻:〜
 総司令官アルブケルケ将軍(Afonso de Albuquerque)50才
01)旗艦サンチャゴ号(Sant'Iago)300屯、大型ナオ船、
  アルブケルケ将軍
02)エスピリトサント号(Espirito Santo)350屯、大型ナオ船、コーチン駐留
  ドアルテ・パチェコ・ペレイラ船長(Duarte Pacheco Pereira)
03)サンクリストバン号(Sao Cristovao) 150屯、ナオ船、帰路に遭難・沈没
  フェルナン・マルチン・デ・アルメイダ船長(Fernao Martins de Almada)
04)カタリナディアス号(Catharina Dias)400屯、大型ナオ船
  ジバンニ・ダ・エンポリ船長(Giovanni da Empoli)

・第2艦隊3隻:〜
 司令官フランシススコ・デ・アルブケルケ船長(Francisco de Albuquerque)
05)レイニャ号(Rainha)カラヴェル船、帰路に遭難・沈没
  フランシススコ・デ・アルブケルケ船長(アルブケルケ将軍の甥
06)ファイアル号(Faial)カラヴェル船、帰路に遭難・沈没
  ニコラウ・コエルホ船長(Nicolau Coelho 1460-1504)
07)ペドロ・ヴァス・ダ・ヴェイガ船長(Pedro Vaz da Veiga)カラヴェル船、帰路に遭難・沈没

・第3艦隊3隻:〜
  司令官アントニオ・ダ・サルダーニャ船長(Antonio de Saldanha)
08)アントニオ・ダ・サルダーニャ船長
09)ルイ・ロレンソ・ラヴァスコ船長(Rui Lourenco Ravasco)
10)ディオゴ・フェルナンデス・ペレイラ船長(Diogo Fernandes Pereira)
・第5次インド遠征艦隊10隻の中に、後のインド副王の24才のノローニャ船長が乗組み。

第5次インド遠征艦隊の航海日誌より:〜
1503年
04/06、第1艦隊4隻がリスボンを出帆
04/16、第2艦隊3隻がリスボンを出帆
5月中旬、第1艦隊4隻が、カーボヴェルデ諸島着、
     第3次インド遠征艦隊のノーヴァ船長発見のアセンション島着、
7月上旬、喜望峰で第2艦隊のヴェイガ船長の船が嵐に遭遇して遭難、沈没
7月中旬、第1艦隊が喜望峰を回航するも、嵐でカタリナディアス号を失う
     ばらばらになった第1艦隊と第2艦隊がモッセルベイで合流
7月下旬、マリンディ着
8月中旬、レイニャ号がインドの南ゴアのアンジャディプ島(Anjadip Island)着
     次いでファイアル号がインドのアンジャディプ島に到着
8月下旬、エスピリトサント号がインドのアンジャディプ島に到着、2週間後の
嵐の岬(喜望峰)を回航

シスカイ 1991/5/11 発行
9月上旬、アルブケルケ将軍の旗艦サンチャゴ号がインドのアンジャディプ島に到着
1503
2月 ヴァスコ・ダ・ガマ第4次インド遠征艦隊が帰国のためインドを去り、司令官ヴィセンテ・ソダー提督のカリカット残留艦隊アデン湾から紅海方面に出動して留守のところへ、3月にカリカット王が兵50,000人でコーチンに陸上から攻め込み、第1次コーチン包囲攻撃の戦い(First Siege of Cochin)が始まり、ポルトガルは苦戦していました。そこへ第5次艦隊のレイニャ号、ファイアル号が到着し、残留艦隊のフラデサ号他3隻が修理のため戻ってきました。アルブケルケ将軍がサンチャゴ号で到着すると、カナノールで合流しコーチンの救援に駆け付け、勢いづいたポルトガルが勝利し、カリカット王が戦死 欧州16世紀頃の大砲と砲弾

クリストファーネヴィスアンギラ1970発行
9月 カリカット王軍が撤退
カリカット王軍に加担のケラーラ州ヴェンバナド環礁島(Vembanad lagoon)、エダパリー(Edappally)、クンバラン(Kumbalam)に対する攻撃にファイアル号、エスピリトサント号、フラデサ号、サルタニャ・パルハ号のカラヴェル船4隻が派遣され、強固なコーチン要塞フォート・マヌエル(Fort Manuel de Cochim)が建設されました。
10月 アントニオ・デ・サ(Antonio de Sa)が救援を求めてきたので
カリカット王軍の30隻を迎え撃つべく、アルブケルケ将軍はキロンへ出帆して
インドで3番目のファクトリー(Factory in Quilon、商館)をキロンに建設して
アントニオ・デ・サ(Antonio de Sa)を残留軍司令官として駐留させる
1504
1/12 アルブケルケ将軍がコーチン着
コーチンに戻ると地元サルタンの協力なしには香料取引が成り立たないことを悟り
帰国を急ぐので、カリカット王国のイタリア人協力者引き渡しは棚上げして、
平和裏に講和条約を締結
1月 下旬、アルブケルケ将軍がコーチンを帰国のため出帆、コーチン要塞の司令官として
ペレイラ船長に兵150人と、カラヴェル船2隻:エスピリトサント号、ラファエル船長の
ガリダ号、そしてナオ船コンセプション号(Concepcao)を残留軍として駐留させました
1/30 カナノールでレイニャ号がスパイスを船積み中なので
サンチャゴ号、サンクリストバン号とカリカット残留艦隊フラデサ号の3隻が出帆
2/5 カナノールをレイニャ号とファイアル号が出帆
2月 下旬、サンチャゴ号とサンクリストバン号がモザンビーク島着
フラデサ号がキルワで遭難して多くの乗組員を失い、アタイデ船長と数人が
地元のボートに救出されてモザンビーク島に着くも、重病で残留
レイニャ号とファイアル号がモザンビーク海峡で遭難
3月 中旬、サンチャゴ号、サンクリストバン号がリスボンへとモザンビーク島を出帆
サンクリストバン号がトラブったので、両船がモッセルベイ(Sao Bras)着
アルブケルケ将軍が第3艦隊のサルダーニャ船長の手紙「10月通過」を受け取る
5/1 サンチャゴ号ともう1隻が喜望峰を回航
カーボヴェルデ諸島着、修理、補給
6月 サンチャゴ号がモーリタニア沖で水漏れを起こし、カーボヴェルデに戻って修理、補給
7月 下旬、アルブケルケ将軍のサンチャゴ号と、もう1隻がリスボンに帰港。

第3艦隊3隻の航海:〜
1503年
5月上旬、第3艦隊3隻がリスボンを出帆
6月下旬、カーボヴェルデでサルダーニャ船長とラヴァスコ船長の2隻が
     嵐で航路を誤り、ギニア湾奥のサントメ島へ漂着
     ディオゴ・ペレイラ船長の行動は不明となる
7月中旬、第3艦隊の2隻が喜望峰で嵐に遭遇、
     サルダーニャ船長が喜望峰のテーブル湾を発見
     上陸して場所確認でテーブル山に登る、その上陸がヨーロッパ人最初となるも、
     現地人と戦い、サルダーニャ船長が負傷
10月、サルダーニャ船長とラヴァスコ船長が
    モッセルベイ(Sao Bras)に到着、補給
    第3艦隊はインドへ向かう季節風(モンスーン)の時期を失し、翌年
    の風待ちとなり、第3艦隊3隻はアフリカ沿岸を北方へと航海して、
    サルダーニャ船長はザンジバル(Zanzibar)へ、ラヴァスコ船長は
    ケニアのモンバサ(Mombassa)からソマリアのバラワ(Barawa)へ
    ディオゴ・ペレイラ船長はモッセルベイからマリンディを経て
    アデン湾に航海し、アデン湾口のソコトラ島(Socotra island)を発見
アデン

アデン 1939-48 発行
1504年
4月、第3艦隊ディオゴ・ペレイラ船長がソコトラ島を出帆
5月、第3艦隊ディオゴ・ペレイラ船長が第1次コーチン包囲攻撃戦の最中のアンジャディプ島着
7月、第3艦隊サルダーニャ船長がアンジャディプ島着、第6次艦隊に合流
9月、第3艦隊ラヴァスコ船長がアンジャディプ島着、第6次艦隊に合流。

参考HP〜
 ・アフリカ南部海岸の地図
 ・アフリカ東海岸の地図

・上記はこちらの文献などを参照させてもらいました。       10/10/10追記







司令官インド副王(総督)アルプケルケ将軍
1506〜1515
第8次 5隻 第1艦隊
第9次 16隻 インド再遠征


Estad da India
インド総督・アルブケルケ

ポ領インド  昭和31年 1956/3/24  発行

Estad da India
アルブケルケ将軍の紋章

ポ領インド  1958/4/3  発行
Mozambique
フロードマー号、1502

モザンビーク 1963/12/1 発行
SULTANATE of OMAN
インド洋からアジアへの地図

オマーン 1981/11/23 発行

・第8次インド遠征艦隊5隻の編成
 8th Portuguese India Armada (1506):〜
・第1艦隊5隻:〜司令官アルブケルケ将軍、53才
 ・旗艦サンチャゴ号(Sant'Iago)、300屯、大型ナオ船、他4隻
 ・フロードマー号ジョアン・ダ・ノーヴァ船長、46才、がモザンビーク海峡で合流して計6隻となる

・第9次インド遠征艦隊16隻の編成(船長):〜インド再遠征
 9th Portuguese India Armada (Cunha, 1506):〜
 総司令官トリスタン・ダ・クーニャ船長、46才(クーニャ船長はアルブケルケ将軍の従弟)。

1506/4/6、2つの強力な艦隊がリスボンを出帆。指定されたパイロット(Pilot:水先案内人)が出帆前に行方不明となったため、司令官アルブケルケ将軍は艦隊を水先案内し続けました。モザンビーク海峡で、インドからの帰途にあったノーヴァ船長がフロードマー号の船体が破損し越冬しているのを発見しました。アルブケルケ将軍らはノーヴァ船長らを救出し、艦隊に合流させました。クーニャ船長はマリンディからエチオピアへのポルトガル遠征隊を派遣しましたが、ジョアン・ゴメス神父(Father Joao Gomes)、ジョアン・サンチェス(Joan Sanchez)、チュニジア人のシド・モハメッド(Sid Mohammed)はマリンディを渡れず、ソコトラ島へ向かい、アルブケルケ将軍によってソマリアのソマリ半島のグアルダフィ岬(Cape Guardafui)近くのフィルク(Filuch)で下船させられました。東アフリカ海岸のアラブ諸都市への攻撃に成功した後、アルブケルケ将軍らはソコトラ島に進出し、1507/8月にキリスト教徒の存在を確認した後、ソコトラ島を占領し要塞を築きました。

ソコトラ島で、クーニャ船長とアルブケルケ将軍の艦隊は分かれました。クーニャ船長はインドのケーララ州カナノール(Cananoru)で包囲されたポルトガル軍を支援するために出帆。一方、アルブケルケ将軍は艦隊6隻と500人の兵員を率いて、ペルシャ湾のホルムズ島へと航海しました。途中、オマーンのクリアス(Qira'as, Oman)、マスカット(Muscat, Oman)、コーファクション(Cofaction)の都市を征服し、カルハット(Karhat)とソアー(Soar)の都市の服従を受け入れました。

1507/9/25、アルブケルケ将軍はホルムズに到着。ホルムズ島へ侵攻すると、地元の王はポルトガルの属国になることに同意しました。数日後、ペルシアからの使者がイランのイスラム教シーア派国家サファヴィー朝(1501-1736)建国者イスマーイール1世(Sah Ismayil, 1487-在位1501-1524)への貢物の支払いを要求するために到着すると、アルブケルケ将軍は「貢物は砲弾と武器のみである」と返答しました。1507/10月にホルムズ島占領(Capture of Ormuz, 1507)の侵略が成功を収めたことで、ポルトガルはペルシア湾を通るインドとヨーロッパの交易路を独占しました。

アルブケルケ将軍と第1艦隊の大冒険:〜(第8次インド遠征艦隊と共同作戦)
・1506年(53才)〜リスボンを出帆、モザンビーク海峡でフロードマー号と合流
・1507年(54才)〜ソコトラ島を占領、ホルムズ島を占領・要塞を建設、
・1508年(55才)〜アデン湾を平定
・1509年(56才)〜アルメイダ提督がカナノールで監禁するも、開放後にインド副王に就任
・1510年(57才)〜ゴアを占領、要塞化する
・1511年(58才)〜マラッカの戦い勝利・占領、マラッカ王国が滅亡
・1512年(59才)〜セケイラ船長の艦隊を香料諸島に派遣、アルヴァレス船長を中国に派遣
・1513年(60才)〜紅海作戦でバブエルマンデブ海峡を突破
・1514年(61才)〜インドサイをマヌエル1世に届ける
・1515年(62才)〜ホルムズを再占領、発病、ゴアで亡くなる
1506年
アルブケルケ将軍は国王マヌエル1世の命で、アフリカ東岸・アラビア海・アデン湾から紅海までのイスラム勢力平定のために出帆することになり、6才の息子のために遺言状をしたためる
04/06 クーニャ船長の第8次インド遠征艦隊11隻と共に
アルブケルケ将軍は第1艦隊5隻を率いてリスボンを出帆、
パイロットがいなかったので、自ら水先案内して航海
モザンビーク海峡で、インドの帰りに喜望峰で水漏れを起こして孤立していた
ノーヴァ船長のフロードマー号を見つけて合流し、アデン湾へと航海、
クーニャ船長は大使をエチオピアに派遣するためマリンディに寄航、
アフリカ東岸のイスラム都市を攻撃
1507年
アルブケルケ将軍はダ・クーニャ船長と共に、ソマリアの
グァルダフィ岬(Guardafui アシル岬)の先の東北東240kmに浮ぶ
ソコトラ島を攻撃、上陸して首都を占拠
ダ・クーニャ船長はインドへ航海してカナノール戦の救援に成功
竜血樹(ソコトラ島も有)

スペイン 1973/3/21 発行
07月 7隻に兵500人でホルムズ海峡を突破してペルシャ湾へ突入し
ノーヴァ船長がマスカット(Muscat, Oman)攻撃で勇猛果敢に戦う
コーファカン(Khor Fakkan)、ソハー(Sohar)他を攻撃
09/25 ホルムズに到着
ホルムズ王を捕えポルトガルの属国州となることに同意させる
10月 ホルムズ海峡のペルシャ帝国が支配(領土)する
ホルムズ島(Hormuz Island 42ku)を攻撃して占領
10/27 ホルムズ要塞(Fort of Our Lady of Victory)の建設に着工
1508年
1/上旬 ホルムズ王がホルムズ島を攻撃してくるも、数日間の戦いで撃退
4月、 カラヴェル船2隻をホルムズ島に残して出帆、
ソコトラ島へ戻ると駐留軍が飢えていたので救助
アデン湾へ行きイスラム船を襲撃し、バーレーン要塞(Bahrain Fort)を焼打ち
12月、アルブケルケ将軍がマラバル海岸のカナノール着
    副王アルメイダ提督に国王の副王交代の親書を見せるも応じず、
    あわや戦争かとなったのでコーチンへ引上げる
1509年
02/03、アルメイダ提督艦隊がマルムーク朝エジプト、オスマン帝国トルコ、
    カリカット王国とクジャラート王国の連合艦隊に対して
    ディウ沖の海戦(Battle of Diu)を戦い勝利し、
    チャウルの海戦(Battle of Chaul 1508/3)で戦死した息子の仇を討ち
07月、アルブケルケ将軍をカナノールの古いサンアンジェロ要塞に3ヵ月監禁
08月、カウチンホ提督(Marshall D. Fernando Coutinho)の艦隊が到着
インドの寺院

インド 1949 発行
    アルブケルケ将軍がサンアンジェロ要塞(St Angelo Fort)から解放され、
    セケイラ船長(Diogo Lopes de Sequeira)をマラッカ遠征に派遣
09/11、セケイラ船長がマラッカに到着するも、占領はならず、
     ポルトガル人19人の捕虜を残してインドへ撤退
11/04、アルブケルケ将軍が第2代インド副王(身分:初代総督)となる
1510年
01月、アルブケルケ将軍がカリカット王の留守を狙って、カウチンホ提督の
    警告にもかかわらずカリカットへ侵攻攻撃するも、待ち伏せにあい
    重傷を負って退却、数日後23隻に兵1200人でカリカットを再攻撃
02/17、アントニオ・デ・ノローニャ(Antonio de Noronha)と共にゴアに上陸
03/04、ゴアのビジャプール王国イスマイル・アディ・シャー国王
     (Ismail Adil Shah 1510-1534:Bijapur Sultanate)と
     援軍のオスマン帝国が防衛するゴアを攻撃
05/20、ポルトガル兵2,000でゴアを占領するも、市内は不穏な状態となる
05/30、ムスリムがオスマンの支援でゴアを再占領
ゴアの占領、1510
11/25、修理改装済マラッカ攻撃の援軍ヴァスコンセロス(Diogo Mendes deVasconcelos)艦隊34隻
     と同盟軍カナノールのマラバル船300隻で攻撃
12/10、6,000人の犠牲者を出してイスマイル・アディ・シャー国王と援軍のオスマン帝国が降伏
     ゴアの完全支配がなり、ゴアの要塞化を始める、
     クジャラート王国とカリカット王国が大使を派遣してくる
     新しいコイン(Mint:coin)を発行、天球儀(Armillary sphere)を作成
1511年
02月、マラッカで1508年に捕えられたアラウジョ(Rui de Araujo)から救助の手紙を受け取る
04月、アルブケルケ将軍がヴァスコンセロス艦隊などの18隻に
    兵900人ヒンズー同盟200人を率いてゴアを出帆、マゼラン船長が従軍
    マラッカで捕虜の救出交渉を始め、マラッカを攻撃、現地軍20,000に援軍2,000と交戦
    マラッカの戦い(Battle of Malacca)が始まる
07/25、マラッカに上陸するも、一時撤退
08/24、マラッカの戦いで市内に突入、激戦に勝利
11月、マラッカの戦いに勝利、マラッカの街を占領、アファモウサ要塞(A Famosa)を建設、
    マラッカ王国が滅亡
    ビルマのペグー(Pegu)、スマトラ(Sumatra)、シャム(Siam:現タイ国)へ大使を派遣
11/20、将軍がマラッカ占領支援のフロードマー号で出帆、マラバールへ向うも遭難、
    かろうじて助かるがシャム王からポルトガル王への献上品などの積荷を失う
1512年
   セケイラ船長(Francisco Serrao, 1521没)の艦隊を香料諸島に派遣
   ナツメグクローブなどを購入して帰還
01月、アルブケルケ将軍がコーチンに凱旋、帰港するも、
   アディ・シャーの反乱が起っていたので、鎮圧
05月、アルヴァレス船長を中国に派遣、
   アルヴァレス船長はパタリン船長(Rui de Brito Patalim)のジャンク船6隻でマラッカ着、
   パタリン船長の6隻とポルトガル船2隻で広東省(Guangdong)着、
   ホンコン近郷の珠江デルタのリンチン島に上陸、
   その後に明時代の中国との交易路が開かれる
09/10、アルブケルケ将軍がコーチンを14隻に兵1,700人で出帆、ゴアへ向い反乱を鎮圧し、
    ゴア要塞へ通じる水路を制するベナステリム要塞を奪取、ゴアに病院と教会を建設
12月、エチオピアからの使者がゴアに到着、イスラムの不穏な状勢を伝える
1513年
   カブラルがカリカットで1500年に手掛けた砦が1513年にカリカット要塞として完成
02月、将軍が兵1000人マラバル同盟400人でゴアを出帆、紅海へ向い、イスラムのスエズ艦隊と
    アデン攻防戦後、バブエルマンデブ海峡(Strait of Bab el Mandeb)を突破、紅海へ侵入
    これは欧州人の初の快挙となる
05月、イェーメンのカマラン島(Kamaran)着、風待ちしてジェッダ(Jeddah)へ向おうとするも
    飲料水の不足と病人の発生で撤退
08月、アデン再攻撃を企図するも発病者多数で中止して、何の成果も無くインドへ撤退
1514年
初頭、グジャラート王ムザファル2世(Muzafar II)にディウ島要塞承認の使者を派遣、
    承認は却下されるも、交渉時の外交儀礼で互いに交わした贈答品中にインドサイがいた
1515年
01月 ゴアからインドサイを積んだ輸送船が出帆、当時ポルトガルの植民地だった北アフリカのフォゴ島(現カーボベルデ共和国)のノッサ・セニョーラ・ダ・アジューダ(Nossa Senhora da Ajuda)を経由する航路をとり、フランシスコ・ペレイラ・コウティーニョを   船長とするこの輸送船は、東洋の香辛料を満載した2隻の僚船とともにインド洋を横断、モザンビークに寄港、喜望峰を回って大西洋を北に向かい、航海途中にセントヘレナ島、アゾレス諸島に寄港。120日間の航海の後、サイは5/20ポルトガルに到着。 サイ(犀)

ポ領アンゴラ 1953 発行
当時建築中のマヌエル様式のベレンの塔のすぐ近くに揚陸。後にベレンの塔にはサイの頭をかたどったガーゴイルが、コーベル(軒下の飾り)として設置される
04/01、ホルムズ島を27隻、兵1,500人とマラバル兵700人で再占領(〜1622)
    ホルムズ要塞をコンセプション砦(Fort of Our Lady of the Conception)として再建
09/08、アルブケルケ将軍の副王後任者アルベリガリア船長(身分:2代総督)がゴアに到着
11月、アルブケルケ将軍がホルムズをインドへ向けて出帆
12月、インド・サイをマヌエル1世がローマ教皇レオ10世(Pope Leo 在位:1513-1521)へ送るも、
    途中で船が遭難して積荷もろともサイも海の藻屑となる
12/16、アルブケルケ将軍がゴアに戻って病状が悪化(ホルムズ攻撃中に発病)して、
    船上にて62才で亡くなりました

参考:〜
マラッカ王国
  (Malacca Sultanate, 1402-1511)
1509年ディオゴ・ロペス・デ・セケイラの率いるポルトガル遠征隊がマラッカに初めて到着。当時インド洋でポルトガルの海洋覇権と対立していたイスラム系商人が扇動したため、王国はポルトガル人と対立し、ポルトガル艦隊は何人かの捕虜を残してインドに帰りました。この知らせを聞いたポルトガルのインド副王アルブケルケ将軍が、1511年に18隻の艦隊と800人のポルトガル人兵士を率い
マラッカのモスク

マラッカ 1957 発行
てマラッカ征服に来航。数ヵ月の攻防戦の後、マラッカは陥落。スルタン・マームド(Mahmud Shah 1488-1528)はマレーの密林の中に逃れ、その子孫はジョホールなどマレー各地のスルタンとなりました。

参考HP:〜
 ・アフリカ東岸からインドへの地図
 ・ソコトラ島の場所地図(日本語)
 ・ホルムズ海峡の地図
 ・ホルムズ島の場所地図
 ・オマーン半島の地図(詳細)
 ・バーレーン島の地図
 ・インド西岸の地図
 ・マラッカの地図
 ・マラッカ海峡の地図
 ・紅海の地図
 ・ソマリ半島グアルダフィ岬の地図(フィルク(Filuch)は岬の西に有)

・上記はこちらの文献などを参照させてもらいました。    10/11/11追記

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