Portugal 国連 1989 発行 |
切手で綴る 冒険大航海(Adventure Voyages)ポルトガル発見者の群像(5-2)
アルブケルケ将軍
第5次遠征艦隊・第8次遠征艦隊・ゴア占領・マラッカ王国 |
大航海物語 ポルトガル編★ |
ESTADO da INDIA 晩年のアルブケルケ将軍 ポ領インド 昭和21年 1946/5/28 発行 |
MOZAMBIQUE ポルトガルからインドへの航海地図 ヴァスコ・ダ・ガマ 生誕500年 記念 ポ領モザンビーク 1969/8/29 発行 |
Mozambique ポルトガル船 Nau de 800tones, 1520 モザンビーク 1963/12/1 発行 |
アルプケルケ将軍は50才で第5次インド遠征艦隊9隻の総司令官としてインドに向かい、翌年2隻でリスボンに帰国しました。さらに1506年にインドを再訪して、1510年にゴアを占拠し要塞を築きました。その後、二度と本国に帰ることなく、インドで亡くなりました。 |
アファンソ・デ・アルプケルケ将軍 (General Afonso de Alebuquerque、1453〜1515/12/16) アルプケルケ将軍はポルトガルの下級貴族の家に生まれ、若い時から軍人として、地中海や北アフリカで活躍し、ポルトガルの第2代インド副王(身分:初代総督)になりました。
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帰国後1506年に「1508年にインド総督に任命する」旨の宣旨を受け、再び司令官としてインド遠征艦隊と共にポルトガルのテージョ河々口のリスボンを出帆しました。アフリカ南岸の各地を経て、1507年アデン湾口のソコトラ島を攻撃、ペルシャ湾口のホルムズ海峡に至り、ホルムズをポルトガル朝貢国としました。1509年インドのカリカットを攻撃するも、占領には至りませんでした。1510年にはインドのゴアを占領して艦隊の基地としました。 1511年7月には東西貿易の中心地としで栄えていたマレー半島のマラッカへ16隻の大艦隊を派遣して攻め入り占領しました。この占領航海には31才のマゼランが参加していました。この3大拠点を機軸にして東アフリカのソファラとモザンビーク、インド・クジャラートのディウなどに商館を置き、1511〜12年にはマルク諸島(香料諸島)のテルナテ島に艦隊を派遣して通商路を確保しました。こうしてインド洋を支配統制するのに成功しました。 1513年にはアデンを攻撃しましたが占領には至りませんでした。 1515年に再びホルムズを攻撃し要塞を建設しました。ホルムズの支配は非常に重要で、それまでイスラム商人の手によって香料がイタリ−のヴェネティアへと交易されていたのをポルトガルの独占へと替えることとなりました。しかし同地で発病、ゴアに戻るも、同港内の船上で病状が悪化して亡くなりました。62才でした。
参考HP:〜 ・アフリカの地図、インド付近の地図 2007/11/05 & 12/30 |
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第5次インド遠征艦隊 1503〜1504 総司令官アルプケルケ将軍 |
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CABO VERDE 甲冑姿のアルブケルケ将軍 ポ領ヴェルデ岬諸島 昭和13年(1938)発行 |
PORTUGAL ポルトガルからインドへの航海地図 ポルトガル 1969/12/30 発行 |
Mozambique ポルトガル船、1500 モザンビーク 1963/12/1 発行 |
ESTADO da INDIA マヌエル要塞(コーチン)建設、1503 ポ領インド 1956/3/24 発行 |
・第5次インド遠征艦隊10隻の編成(船長):総司令官アルプケルケ将軍 5th Portuguese India Armada (Albuquerque, 1503/4/6〜1504/7下旬):〜 ・第1艦隊4隻:〜 総司令官アルブケルケ将軍(Afonso de Albuquerque)50才 01)旗艦サンチャゴ号(Sant'Iago)300屯、大型ナオ船、 アルブケルケ将軍 02)エスピリトサント号(Espirito Santo)350屯、大型ナオ船、コーチン駐留 ドアルテ・パチェコ・ペレイラ船長(Duarte Pacheco Pereira) 03)サンクリストバン号(Sao Cristovao) 150屯、ナオ船、帰路に遭難・沈没 フェルナン・マルチン・デ・アルメイダ船長(Fernao Martins de Almada) 04)カタリナディアス号(Catharina Dias)400屯、大型ナオ船 ジバンニ・ダ・エンポリ船長(Giovanni da Empoli) ・第2艦隊3隻:〜 司令官フランシススコ・デ・アルブケルケ船長(Francisco de Albuquerque) 05)レイニャ号(Rainha)カラヴェル船、帰路に遭難・沈没 フランシススコ・デ・アルブケルケ船長(アルブケルケ将軍の甥) 06)ファイアル号(Faial)カラヴェル船、帰路に遭難・沈没 ニコラウ・コエルホ船長(Nicolau Coelho 1460-1504) 07)ペドロ・ヴァス・ダ・ヴェイガ船長(Pedro Vaz da Veiga)カラヴェル船、帰路に遭難・沈没 ・第3艦隊3隻:〜 司令官アントニオ・ダ・サルダーニャ船長(Antonio de Saldanha) 08)アントニオ・ダ・サルダーニャ船長 09)ルイ・ロレンソ・ラヴァスコ船長(Rui Lourenco Ravasco) 10)ディオゴ・フェルナンデス・ペレイラ船長(Diogo Fernandes Pereira) ・第5次インド遠征艦隊10隻の中に、後のインド副王の24才のノローニャ船長が乗組み。 ・第5次インド遠征艦隊の航海日誌より:〜 1503年 04/06、第1艦隊4隻がリスボンを出帆 04/16、第2艦隊3隻がリスボンを出帆 5月中旬、第1艦隊4隻が、カーボヴェルデ諸島着、 第3次インド遠征艦隊のノーヴァ船長発見のアセンション島着、
・第3艦隊3隻の航海:〜 1503年 5月上旬、第3艦隊3隻がリスボンを出帆 6月下旬、カーボヴェルデでサルダーニャ船長とラヴァスコ船長の2隻が 嵐で航路を誤り、ギニア湾奥のサントメ島へ漂着 ディオゴ・ペレイラ船長の行動は不明となる 7月中旬、第3艦隊の2隻が喜望峰で嵐に遭遇、 サルダーニャ船長が喜望峰のテーブル湾を発見、 上陸して場所確認でテーブル山に登る、その上陸がヨーロッパ人最初となるも、 現地人と戦い、サルダーニャ船長が負傷
4月、第3艦隊ディオゴ・ペレイラ船長がソコトラ島を出帆 5月、第3艦隊ディオゴ・ペレイラ船長が第1次コーチン包囲攻撃戦の最中のアンジャディプ島着 7月、第3艦隊サルダーニャ船長がアンジャディプ島着、第6次艦隊に合流 9月、第3艦隊ラヴァスコ船長がアンジャディプ島着、第6次艦隊に合流。 参考HP〜 ・アフリカ南部海岸の地図 ・アフリカ東海岸の地図 ・上記はこちらの文献などを参照させてもらいました。 10/10/10追記 |
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司令官インド副王(総督)アルプケルケ将軍 1506〜1515
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Estad da India インド総督・アルブケルケ ポ領インド 昭和31年 1956/3/24 発行 |
Estad da India アルブケルケ将軍の紋章 ポ領インド 1958/4/3 発行 |
Mozambique フロードマー号、1502 モザンビーク 1963/12/1 発行 |
SULTANATE of OMAN インド洋からアジアへの地図 オマーン 1981/11/23 発行 |
・第8次インド遠征艦隊5隻の編成 8th Portuguese India Armada (1506):〜 ・第1艦隊5隻:〜司令官アルブケルケ将軍、53才 ・旗艦サンチャゴ号(Sant'Iago)、300屯、大型ナオ船、他4隻 ・フロードマー号、ジョアン・ダ・ノーヴァ船長、46才、がモザンビーク海峡で合流して計6隻となる ・第9次インド遠征艦隊16隻の編成(船長):〜インド再遠征 9th Portuguese India Armada (Cunha, 1506):〜 総司令官トリスタン・ダ・クーニャ船長、46才(クーニャ船長はアルブケルケ将軍の従弟)。 1506/4/6、2つの強力な艦隊がリスボンを出帆。指定されたパイロット(Pilot:水先案内人)が出帆前に行方不明となったため、司令官アルブケルケ将軍は艦隊を水先案内し続けました。モザンビーク海峡で、インドからの帰途にあったノーヴァ船長がフロードマー号の船体が破損し越冬しているのを発見しました。アルブケルケ将軍らはノーヴァ船長らを救出し、艦隊に合流させました。クーニャ船長はマリンディからエチオピアへのポルトガル遠征隊を派遣しましたが、ジョアン・ゴメス神父(Father Joao Gomes)、ジョアン・サンチェス(Joan Sanchez)、チュニジア人のシド・モハメッド(Sid Mohammed)はマリンディを渡れず、ソコトラ島へ向かい、アルブケルケ将軍によってソマリアのソマリ半島のグアルダフィ岬(Cape Guardafui)近くのフィルク(Filuch)で下船させられました。東アフリカ海岸のアラブ諸都市への攻撃に成功した後、アルブケルケ将軍らはソコトラ島に進出し、1507/8月にキリスト教徒の存在を確認した後、ソコトラ島を占領し要塞を築きました。 ソコトラ島で、クーニャ船長とアルブケルケ将軍の艦隊は分かれました。クーニャ船長はインドのケーララ州カナノール(Cananoru)で包囲されたポルトガル軍を支援するために出帆。一方、アルブケルケ将軍は艦隊6隻と500人の兵員を率いて、ペルシャ湾のホルムズ島へと航海しました。途中、オマーンのクリアス(Qira'as, Oman)、マスカット(Muscat, Oman)、コーファクション(Cofaction)の都市を征服し、カルハット(Karhat)とソアー(Soar)の都市の服従を受け入れました。 1507/9/25、アルブケルケ将軍はホルムズに到着。ホルムズ島へ侵攻すると、地元の王はポルトガルの属国になることに同意しました。数日後、ペルシアからの使者がイランのイスラム教シーア派国家サファヴィー朝(1501-1736)建国者イスマーイール1世(Sah Ismayil, 1487-在位1501-1524)への貢物の支払いを要求するために到着すると、アルブケルケ将軍は「貢物は砲弾と武器のみである」と返答しました。1507/10月にホルムズ島占領(Capture of Ormuz, 1507)の侵略が成功を収めたことで、ポルトガルはペルシア湾を通るインドとヨーロッパの交易路を独占しました。 アルブケルケ将軍と第1艦隊の大冒険:〜(第8次インド遠征艦隊と共同作戦) ・1506年(53才)〜リスボンを出帆、モザンビーク海峡でフロードマー号と合流 ・1507年(54才)〜ソコトラ島を占領、ホルムズ島を占領・要塞を建設、 ・1508年(55才)〜アデン湾を平定 ・1509年(56才)〜アルメイダ提督がカナノールで監禁するも、開放後にインド副王に就任 ・1510年(57才)〜ゴアを占領、要塞化する ・1511年(58才)〜マラッカの戦い勝利・占領、マラッカ王国が滅亡 ・1512年(59才)〜セケイラ船長の艦隊を香料諸島に派遣、アルヴァレス船長を中国に派遣 ・1513年(60才)〜紅海作戦でバブエルマンデブ海峡を突破 ・1514年(61才)〜インドサイをマヌエル1世に届ける ・1515年(62才)〜ホルムズを再占領、発病、ゴアで亡くなる
セケイラ船長(Diogo Lopes de Sequeira)をマラッカ遠征に派遣 09/11、セケイラ船長がマラッカに到着するも、占領はならず、 ポルトガル人19人の捕虜を残してインドへ撤退 11/04、アルブケルケ将軍が第2代インド副王(身分:初代総督)となる
と同盟軍カナノールのマラバル船300隻で攻撃 12/10、6,000人の犠牲者を出してイスマイル・アディ・シャー国王と援軍のオスマン帝国が降伏 ゴアの完全支配がなり、ゴアの要塞化を始める、 クジャラート王国とカリカット王国が大使を派遣してくる 新しいコイン(Mint:coin)を発行、天球儀(Armillary sphere)を作成 1511年 02月、マラッカで1508年に捕えられたアラウジョ(Rui de Araujo)から救助の手紙を受け取る 04月、アルブケルケ将軍がヴァスコンセロス艦隊などの18隻に 兵900人ヒンズー同盟200人を率いてゴアを出帆、マゼラン船長が従軍 マラッカで捕虜の救出交渉を始め、マラッカを攻撃、現地軍20,000に援軍2,000と交戦 マラッカの戦い(Battle of Malacca)が始まる 07/25、マラッカに上陸するも、一時撤退 08/24、マラッカの戦いで市内に突入、激戦に勝利 11月、マラッカの戦いに勝利、マラッカの街を占領、アファモウサ要塞(A Famosa)を建設、 マラッカ王国が滅亡、 ビルマのペグー(Pegu)、スマトラ(Sumatra)、シャム(Siam:現タイ国)へ大使を派遣 11/20、将軍がマラッカ占領支援のフロードマー号で出帆、マラバールへ向うも遭難、 かろうじて助かるがシャム王からポルトガル王への献上品などの積荷を失う 1512年 セケイラ船長(Francisco Serrao, 1521没)の艦隊を香料諸島に派遣 ナツメグやクローブなどを購入して帰還 01月、アルブケルケ将軍がコーチンに凱旋、帰港するも、 アディ・シャーの反乱が起っていたので、鎮圧 05月、アルヴァレス船長を中国に派遣、 アルヴァレス船長はパタリン船長(Rui de Brito Patalim)のジャンク船6隻でマラッカ着、 パタリン船長の6隻とポルトガル船2隻で広東省(Guangdong)着、 ホンコン近郷の珠江デルタのリンチン島に上陸、 その後に明時代の中国との交易路が開かれる 09/10、アルブケルケ将軍がコーチンを14隻に兵1,700人で出帆、ゴアへ向い反乱を鎮圧し、 ゴア要塞へ通じる水路を制するベナステリム要塞を奪取、ゴアに病院と教会を建設 12月、エチオピアからの使者がゴアに到着、イスラムの不穏な状勢を伝える 1513年 カブラルがカリカットで1500年に手掛けた砦が1513年にカリカット要塞として完成 02月、将軍が兵1000人マラバル同盟400人でゴアを出帆、紅海へ向い、イスラムのスエズ艦隊と アデン攻防戦後、バブエルマンデブ海峡(Strait of Bab el Mandeb)を突破、紅海へ侵入 これは欧州人の初の快挙となる 05月、イェーメンのカマラン島(Kamaran)着、風待ちしてジェッダ(Jeddah)へ向おうとするも 飲料水の不足と病人の発生で撤退 08月、アデン再攻撃を企図するも発病者多数で中止して、何の成果も無くインドへ撤退 1514年 初頭、グジャラート王ムザファル2世(Muzafar II)にディウ島要塞承認の使者を派遣、 承認は却下されるも、交渉時の外交儀礼で互いに交わした贈答品中にインドサイがいた 1515年
ホルムズ要塞をコンセプション砦(Fort of Our Lady of the Conception)として再建 09/08、アルブケルケ将軍の副王後任者アルベリガリア船長(身分:2代総督)がゴアに到着 11月、アルブケルケ将軍がホルムズをインドへ向けて出帆 12月、インド・サイをマヌエル1世がローマ教皇レオ10世(Pope Leo 在位:1513-1521)へ送るも、 途中で船が遭難して積荷もろともサイも海の藻屑となる 12/16、アルブケルケ将軍がゴアに戻って病状が悪化(ホルムズ攻撃中に発病)して、 船上にて62才で亡くなりました。 参考:〜
参考HP:〜 ・アフリカ東岸からインドへの地図 ・ソコトラ島の場所地図(日本語) ・ホルムズ海峡の地図 ・ホルムズ島の場所地図 ・オマーン半島の地図(詳細) ・バーレーン島の地図 ・インド西岸の地図 ・マラッカの地図 ・マラッカ海峡の地図 ・紅海の地図 ・ソマリ半島グアルダフィ岬の地図(フィルク(Filuch)は岬の西に有) ・上記はこちらの文献などを参照させてもらいました。 10/11/11追記 |