Portugal

国連 1989 発行
切手で綴る 冒険大航海(Adventure Voyages)ポルトガル発見者の群像(5-4
ルイス・ヴァス・デ・カモンイス詩人
1547
セウタの戦い従軍

セウタインドモザンビーク

大航海物語
ポルトガル編

ESTARD da INDIA
カモンイス詩人

ポルトガル領インド 昭和21年 1946/5/28 発行

Mozambique
ポルトガル船、1511

ポ領モザンビーク 1963/12/1 発行
PORTUGAL
ポルトガルからインドへの航海地図

ポルトガル 1969/12/30 発行


ESPANA
14世紀の海図


イベリア半島→



北アフリカ


ジブラルタル海峡→ 
    タンジール→ 
地中海西部の地図
イベリア半島

北アフリカ
地中海西部の地図とジブラルタル海峡
突き出している所が
ジブラルタル
セウタ
スペイン地理学会議50年記念 スペイン南部の三角網状況を示す地図切手
スペイン 1974/1/26 発行 スペイン 地図測量制度00年記念 1970/10/20 発行

カモンイス詩人はポルトガルの伝説的な国民的叙事詩人で、ポルトガル詩聖の一人。ジョアン3世に仕え、1547年セウタへ行き、ムーア人との戦争に従軍して右目を失いました。29才でインドに行き、17年間にわたる数奇な海外生活をゴア・マカオ・モザンビークでおくった後、無一文でポルトガルへ帰り、その間に書き上げていた代表作の叙事詩”ウス・ルジ−アダス”を1572年にリスボンで出版して大成功しました。
ルイス・ヴァス・デ・カモンイス詩人
 (Luis Vaz de Camoes, 1525頃〜1580/6/10)
カモンイス詩人はポルトガル史上最大の詩人で、ポルトガルを代表する叙事詩作家として、叙事詩”ウズ・ルジーアダス”(OS LVSIADAS, 1572、ルシタニアの人々、または、ルススの子孫達の意味で、”ルスス”とは古代ローマ人がポルトガル周辺をルシタニアと呼んだ語源となった神話的英雄のこと)が代表作です。

この叙事詩はポルトガルの国民的な叙事詩として広く称賛されており、大航海時代のポルトガルの海外進出と栄光を描いたもので、ポルトガルの黄金時代を称える内容となっており、この中でポルトガルの探検航海者達のことを歌い上げていますが、なかでも1498年にインド航路を開拓した”ヴァスコ・ダ・ガマ船長”を英雄的に歌い上げてインド航路の発見を中心に据えています。カモンイス自身も東方航海からの帰還後にこの作品を完成し、イタリアのルネッサンス叙事詩の手法に従い10編に分わかれた1,102のスタンザ(詩節)から成り、8連詩で書かれているとされていて、1572年に初版が出版されました。スペインのセルバンテスによって「ポルトガルの宝」と評されるなど、その文学的価値は国境を越えて認められています。

・セウタ攻略戦・従軍
カモンイス詩人の両親はポルトガルのセントロ地方コインブラ出身であったことは分っていますが、出生地は不明で、色んな町が出生地の名乗りをあげています。リスボンが最も有力で、コインブラがその次だと言われています。生まれたのは1524年とされていますが、1517年説も有り、爵位の無い下級貴族であったそうですが、謎の多い人物です。ガマ船長とは縁戚関係があったとも言われています。青少年時代は学都コインブラで過ごし、同地の大学で学びました。詩の中でコインブラでの生活を懐かしく追憶しており、ここで学んだ事を誇りに思っていたことを伺わせています。1543年(19才)頃リスボンに出て、大貴族のリニャレス伯爵ドン・フランシコ・デ・ノロニャ(Count of Linhares, Dom Francisco de Noronha, ?)の後援を得ることが出来、伯爵の息子ドン・アントニオ(Count of Linhares, Dom Antonio de Noronha, 1464-1532/5/3-1551)の友人となり、慣習で家庭教師となり、ジョアン3世の宮廷へも出入りしました。この頃の
カモンイスは伝説に包まれていますが、貧乏貴族の適職であった軍務に就いて、1547年(23才)まで北アフリカへ行っていた事は確かです。ポルトガルの最も重要な貿易中心地で軍事基地でもある”セウタ”の駐屯部隊で軍務に服して、「ムーア人との戦い」に従軍して右目を失いました。右の切手にはその戦闘の場面が描かれています。何故”セウタ”へ行ったかについても謎に包まれていますが、叙事詩から「恋愛事件により宮廷から追放された」といわれています。お相手は”ドナ・カテリナ・デ・アタイデ”といわれ、詩編の”ナテルシア”だとされています。その後、リスボンに戻りました。 セウタの戦い

カモンイス生誕400年記念
ポルトガル 1924 発行
謎の多い生涯で最初の公式記録がこの時期に残されています。それはリスボンで発行された1553/3/7付(29才)国王サイン入りの”ルイス・カモンイスへの赦免状”です。それによるとカカモンイス詩人は貧乏であったが宮廷に出入りできる騎士で、1552/6/16(キリスト聖体の祝日、27才)に宮廷内で剣を抜き、出入り職人を傷つけたかどで逮捕されました。職人はその後結局、許したので赦免が裁可されたのでした。そしてインドへ出発することを伝えています。後に手紙(インドからの4通の手紙が現存)で、リスボンでの生活を「全くの嫉妬に基づいた中傷と奸計と悪意の3000日」と書いています。

・ポルトガル領インド ポ領インド・ゴア

ポ領インド 1956  発行
1553年 29才
3月 サン・ベント号に乗船、リスボンを出帆
9月 6ヵ月後、
”ポルトガル領インド”の商業・軍事上の首府”ゴア”に到着
11月 インド副王ドン・アフォンゾ・デ・ノロニャ(第17代)が
マラバル攻略にゴアを出発・同行
副王の”マラバル香料王”の討伐遠征隊が勝利を収めて帰還
後年、詩編”悲歌第6”に「我々は死と火の劫罰を下した」と歌う
1554年 30才
2月 副王の部下のドン・フェルナンド・メネゼスの指揮での探検航海に参加
艦隊は紅海に向って出帆、アラビアの沿岸を帆走
後に”歌集第8”の中で、この旅を追想しているといわれている
11月 遠征隊は紅海には入らずにゴアに戻る
1555年 31才
6月 新総督フランシスコ・バレド(第14代)がゴアで就任
その祝宴で叙事詩”フィロデモ”と”試合の風刺”を贈ったとされている
1558 34才
マカオへ行き、ポルトガル人死亡者や不在者の中国での財産を管理
まもなく財産管理に失敗して告訴される
船でゴアへ送還される
1561年 37才
ゴアに着くと投獄される。







★カモンイス物語 ルイス・ヴァス・デ・カモンイス詩人
1567
ゴアからモザンビークへ
大航海物語★


ESTARD da INDIA
カモンイス詩人

1572 ウス・ルジ−アダス400年記念 1972
ポルトガル領モザンビーク 1972/5/25 発行

Mozambique
モザンビーグ島、1572

ポ領モザンビーク 1972/5/25 発行
ANGOLA
コンゴ河々口に停泊するガレオン船

ポ領アンゴラ 1972/5/25 発行


Mozambique ANGOLA
現在のモザンビーグの地図

ポ領モザンビーク 1972/5/25 発行
モザンビーグ島古地図、1572

1569 カモンイス訪問400年 1969
ポ領モザンピーク 1969/6/10 発行
アンゴラの古地図とペレイラ総督

1617 ベンゲラ350年記念 1967
ポ領アンゴラ 1967/5/13 発行

幾多の変遷の後、1567年に友人のペドロ・バレトがモザンビーク総督に就任したので、一緒にモザンビークへ行きました。同地での2年間は友人たちの施しで生活したと言われています。1569年11月(45才)歴史家ディオゴ・デ・コートたちの援助で、サンタ・クララ号に乗船、ようやくのこと故国へと出帆し、1570/4/7(46才)に17年ぶりにポルトガル・リスボンに帰ることが出来ました。

カモンイス詩人は無一文で帰国し、”ウス・ルジ−アダス”の原稿だけが唯一の荷物だったと言われています。直ぐにも出版したかったのですが、当時リスボンではペストが大流行していました。何とか国王の出版許可を1571/9/24にとりつけ、翌年出版にこぎつけ大成功を収めました。カモンイス詩人の作品が国民的叙事詩であると認めたセバスチャン国王は、カモンイス詩人に年金を贈りました。1580年には2回目のスペイン語訳が発行されるにおよび、年金は更新され1580/6/10(55才)の彼の死去後は母親に引き継がれました。スペイン語訳詞は彼自身が書いたとも言われ、1580年のスペインによるポルトガル併合直前に亡くなっています。リスボンのアンナ教会に手厚く埋葬されましたが、1755年のリスボン大地震で破壊されました。

カモンイス詩人の”ウス・ルジ−アダス”に歌い上げられている人物:〜
 ・ヴァスコ・ダ・ガマ
 ・ガルシア・デ・ノローニャ
 ・コンスタンチノ・デ゙・ブラガンザ
 など。

・上記はこちらの文献などを参照させてもらいました。      09/7/7追記
スタンプ・メイツ
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