Portugal

国連 1989 発行
切手で綴る 冒険大航海(Adventure Voyages)ポルトガル発見者の群像(5-6
メンデス・ピント概略
1544、日本へ「てっぽう」を伝える
1614、没後「東洋遍歴記」が出版される

タビンシュエーティー王王 直テオドロス2世

大航海物語
ポルトガル編

Portugal
メンデス・ピント

1510 ピント生誕500年記念 2010

ポルトガル 2010/11/16 発行


MACAU
メンデス・ピントの大冒険
メンデス・ピント
海族との戦い
中国で捕虜となる
ポルトガル領マカオ 1951/827 発行
1580 メンデス・ピント没後400年記念 1980
ポルトガル 1980/6/30 発行

東洋遍歴記が出版される、1614
           東洋遍歴記         中国のジャンク船
ポルトガル船 日本の武将
コプラを踏みつける孔雀に乗るヒンドゥー教の女神

メンデス・ピントの大冒険の古地図









東洋遍歴記
1614 東洋遍歴記出版400年記念 2014
ポルトガル 2014 発行
MOCAMBIQUE
PORTUGAL
16世紀ポルトガル・カラベル船

ポルトガル 1943 発行


火縄銃を担う→
ポルトガル人

←火縄銃
ポルトガルの
マスケット火縄銃
(Musket Rifle)
ポルトガル領モザンビーク 1967/1/12 発行

SULTANATE of OMAN
インド洋の地図

オマーン 1981/11/23 発行
琉球郵便
東南アジア、中国、日本の地図

日本 昭和38年 1963/9/16  発行

ETHIOPIA
エチオピアのマッサワ
テオドロス2
エチオピア 1964/12/12 発行
GRENADA
中国のジャンク船

グレナダ 1998/4/26 発行

PANAMA
日本に来た南蛮船(ポルトガル・ナオ)の図
MALAYA
マレー半島南部

パナマ 1968/5/7 発行

←タイ領シンゴラ
←タイ領パタニ
←コタバル


シンガポール
マラッカ海峡
スマトラ
マレー 1957/5/5 発行

メンデス・ピントはポルトガルの冒険家で、彼の業績は没後の1614年に自伝「東洋遍歴記」 として刊行されました。1537年にリスボンを発ち、インドのディウに上陸。1539年にマレー半島のマラッカに行き、東南アジアをポルトガル使節・商人・海賊として見て回り、中国方面への貿易商を生業として、日本にも渡来。1544年に鉄砲を日本に初めて伝えた人物の一人と自伝に記述しています。

1551年フランシスコ・ザビエルが日本に教会を設立するための資金を提供。その後、ポルトガルに帰ろうと思ってインドのゴアまで戻って、1554年にザビエルの「未だに生きているかのような遺体」を目の当たりにして改心し、イエズス会に入会。1556年にフロイス神父らと共に日本へ渡りましたが、日本でイエズス会を脱退。1558年ゴアへ戻り、同じ年にリスボンへと出帆、帰国しました。
フェルナン・メンデス・ピント
 Fernao Mendes Pinto (1509年頃〜1583/7/8)
メンデス・ピントはポルトガルのセントロ地方コインブラ県(#17)モンテモル・オ・ヴェリョ(Montemor-o-Velho、Coimbra district)で、貧乏な家に生まれました。少なくとも2人の兄弟と、2人の姉妹がおり、男兄弟のアルベロ(Alvaro)は1551年にはマレーのマラッカにおり、別の兄弟の一人はマラッカで殉教しました。また、1557年にはインドのコーチンに裕福な従兄弟フランシスコ・ガルシア・デ・ヴァルガス(Francisco Garcia de Vargas)がいました。

1521年12才の時、余りの窮乏を見かねた叔父の一人がテージョ河々口のリスボンに連れて行き、ポルトガル王ジョアン2世の息子でモンテモル・オ・ヴェリョの領主ジョルジ公(Jorge, Duke of Coimbra)の所へ奉公に出しました。2年後に貴族のフランシスコ・デ・ファリア(Francisco de Faria)に奉公するためセトゥーバル県のセトゥーバル(Setubal、現リスボン都市圏最南端でポルトガル第4の都市、サド川の河口に有)に向けてリスボン港(Lisbon)を出帆しましたが、フランスの海賊船に襲われてポルトガル南部のアレンテジョ(Alentejo)海岸まで連れ去られ、置き去りにされました。海賊船はサン・トメ島から大量の砂糖と奴隷を積んで来たポルトガル船を分捕って、フランスへと去って行きました。そこの海岸で貴婦人の施しで一同が助けられ、ピントはセトゥーバルに行き、騎士フランシスコ・デ・ファリアの従者のもとで4年間働き、さらに騎士の部屋付き下男として1年半働きましたが、少ない給金での苦しい生活を改善するため、インド行きを決意しました。

ピントは28才で、ポルトガルが開拓していた東インドの香料貿易地域へと大航海に出帆しました。ピントはインド方面で、21年間に渡って大冒険をなし、ポルトガルに無事に帰国しました。帰国したピントはテージョ河々口付近南方セトゥーバル県アルマダ近くプラガル(Pragal, Almada)に隠居して「東洋遍歴記」(Peregrinacao "Pilgrimage",1570)を書き残していました。それは没後31年後の1614年に出版されました。

メンデス・ピントの大航海:〜1537/3/11(28才):〜
1)インドへの大航海
 ・ポルトガル、リスボンを5隻のナオ船で出帆
   1.女王号(Rainha)〜ドン・ペドロ・ダ・シヴァ船長(Don Pedro da Siva)
   2.聖ロッケ号(Sao Roque)〜ドン・フェルナンド・デ・リマ船長(Dom Fernando de Lima)
   3.聖バルバラ号(Santa Barbara)〜ジョルジュ・デ・リマ船長(George de Lima)
   4.海の花号(Flor do Mar)〜ロポ・ヴァス・ヴォガド船長(Lopo Vas Vogad)
   5.ガレガ号(Galega)〜マツヒンス・デ・フレイタス船長(Matsuhins de Freitas)
 ・アフリカ喜望峰を回航
 ・アフリカ、モザンビークに寄航
 ・インド、西海岸のポルトガル植民地のディウに到着
 ・アフリカ、エチオピアの港町マッサワでポルトガル人傭兵隊と接触
 ・紅海、海戦に敗れて捕虜となりイェーメンのモカで奴隷として売り飛ばされる
 ・アラビアをキャラバンで横断
 ・ペルシア湾、ペルシャのホルムスでポルトガルの総督に救出される
 ・アラビア海でオスマン船隊との海戦に勝利
 ・インド、ゴアへ戻る
2)インドから極東アジアへの大航海
 ・インド、ゴアを出帆
 ・マレー、マラッカ
 ・スマトラ島、小さな諸王国
 ・トンキン湾
 ・シャム(タイ)、アユタヤ
 ・中国、北京
 ・東シナ海、中国の寧波(ねいは:ニンポー)
 ・日本、種子島
 ・ジャワ、バンタ港でスパイスを買い付け
 ・ビルマ、マルタバンのビルマ、ドゥマク王国
  などからインドへ戻る。
3)インドから母国への大航海
 ・アフリカ、喜望峰
 ・ポルトガル、リスボンへ戻る:1558/9/22(49才)

(1)最初のインドへの航海
ピントは1537/3/11にリスボンを出帆、アフリカの喜望峰を回航してポルトガル領モザンビークに寄港。インド洋を航海して9/5には、2年前の1535年にポルトガルが占領したインドのボンベイの北西にある要塞島に建設されたディウ要塞に到着しました。ピントの記録でば、その時のディウ付近は東洋の貿易の独占のためにポルトガル勢力を退けようとしたオスマン・トルコ帝国スレイマン1世(Suleiman I 、1494-1566)が支配していました。ピントはムスリム(Muslims、イスラム教徒)の貿易船の襲撃隊に加わりイスラム船を襲い、その船員から聞いた儲け話にとびつき、紅海へのポルトガル偵察隊に加わりディウを出帆。
ディウの地図

ポ領インド 1956/3/24 発行

・海戦に敗れて奴隷となる
途中、ピントの言うプレステ・ジョアン、実はエチオピアのダウィット2世(Dawit II of Ethiopia 1501-1540)の母であるヘレナ女王(Eleni エレニ)が、ペロ・ダ・コヴィリャン没後に、山中で雇っていたポルトガル人傭兵隊に伝言を伝えるため、エチオピアの港町マッサワ(Massawa、現エリトリア領)に停泊。その後、マッサワを出帆したポルトガル船隊は、オスマン帝国のガレー船3隻を包囲しましたが逆に
エチオピアのマッサワ
敗北し、船は拿捕され乗組員は捕虜となってアラビア半島南西にあるモカ(Mocha, Yemen、アル・ムハ:Al Mokha)まで運ばれ、奴隷として売り飛ばされました。

ピントはギリシア人ムスリムに買い取られ、残酷に当たられたため何度か自殺を試みましたが生きのび、その後に30ドカート(Ducat)金貨相当のナツメヤシ(Date Palm)と交換でユダヤ人に売り飛ばされました。そのユダヤ人はピントを連れてホルムス(Hormuz)へ陸上のキャラバン交易路で連れて行きました。着くとポルトガル人の要塞司令官とポルトガル王の命令で来ていたポルトガル人総督によって300ドカート(Ducat)金貨のお金が支払われて救出されました。 ピントは自由の身になりインドのゴアへ行こうとしました。陸路はオスマン帝国によって封鎖されていましたが、海路はポルトガルがインドのゴアに海軍基地を建設して以来、香辛料貿易航路を完全に掌握していましたので、ゴアに向けて出帆しょうと
ゴアの地図
思いました。ところが、ピントの意に反し、ダブル港(Dabul)に停泊していたオスマン船隊を拿捕するか破壊することになり、アラビア海でオスマン船隊との海戦が戦われ、ピントも従軍しました。その勝利の後、ピントはゴアへ出帆しました。

(2)インドから極東アジアへの大航海
・マラッカと東アジア地域
ピントがゴアに着いた1539年頃はガルシア・デ・ノローニャ船長がインド副王を務めていました。1539年にピントはマラッカに渡航しました。マラッカのポトガル総督ペロ・デ・ファリア( Pero de Faria)は、東方の未だポルトガルが接触していない地域と外交関係を持とうと、ピントを外交使節に任命しました。マラッカでの初期の仕事のほとんどは、スマトラ島にある小さな諸王国との交流でした。それらの諸王国は北スマトラのアシェン(Achin)のイスラム教国アチェ王国(Sultanate of Aceh)と宗教的に対立しており、これを回避しようとポルトガルと友好関係を結んだと、ピントは自伝に記述しています。ピントはこの仕事の合間に、私的な貿易を行い富を増やしましたが、仲間達が国王の利益に反する貿易を行っていましたが、ピントは国王に対しての献金は忘れませんでした。
ポ領マラッカ、1511

マカオ 1989 発行

・パタニ王国への航海
ピントはシャム(アユタヤ王国(Ayutthaya Kingdom、1351-1767)現タイ王国)に囚われているポルトガル人の解放交渉役に指名され、当時アユタヤの朝貢国であったマレー半島東岸のパタニ王国(Sultanate of Pattani 、日本語:大泥(たいに)、14世紀〜19世紀にかけてマレー半島に存在したイスラム系マレー人王朝、現在のタイ王国パッターニー県を中心に展開していた)に航海して行きました。このとき、シャム近海で貿易をしていた船乗りと一緒に出帆しましたが、途中でムスリムの海賊に襲われ、金目のものを盗まれました。この後、その海賊を追って
マレー
航海していくうちにアントニオ・デ・ファリア(Antonio de Faria、ポルトガル文学の有名なアンチ・ヒーロー)のもとで、自らも海賊働きをしました。ピントは海賊として1ヵ月過ごした後、トンキン湾(Gulf of Tonkin)や南シナ海(South China Sea)へも遠征して海賊を働きました。

中国での虜囚
ピントは、さらに北方まで達し、東シナ海(East China Sea)から黄海(Yellow Sea )を抜け山東半島(Shandong)や朝鮮半島にも航海しました。中国や李氏朝鮮に寄港し、「中国皇帝の陵墓を暴き略奪した」と自伝に記述しています。そのうちピントは難破して中国人の捕虜となり裁判にかけられ、万里長城(Great Wall of China)での強制労働を命じられました。そして、ピントは「1544年に大明帝國(Ming Empire)首都の北京(Beijing)の万里長城強制労働現場で、ポルトガル人と現地人の混血の顔
万里長城

中国 1979/6/25 発行
をした流罪のヴァスコ・カルヴォ(Vasco Calvo)に出会いました。「ヴァスコは結婚していて、2人の息子と2人の娘がおり、美しい礼拝堂を持っていて勇気づけられた」と述べています。

その後、ピント達はタルタリア(Tatars、タタール)が中国へ侵略した時に連れ去られました。ピントやその仲間は砦を攻撃する方法をタタール人に教え、代わりに自由を勝ち取り、外交使節がコーチシナに行く時に同行するように王に命ぜられました。この旅の途中でポルトガル人の一行は、ピントが「ローマ法王のような人物」と表現するヨーロッパ人が未だ見たことのない人物に会ったと記述しています。これはダライ・ラマ(Dalai Lama)のことだと言われています。コーチシナ(Cochinchina)ではカンボジア(Cambodia)やヴェトナム(Vietnam)に寄航しました。

日本への初上陸は難破
広州付近に来たとき、ピントはタタール人の旅行ののろさにあきれて、ピントと2人の仲間は広東(Canton)の小島(マカオ)で中国人の率いる海賊船(junk)に乗り込んで航海を続け、海が荒れて日本に流れ着き、1544年にイリヤ・デ・タニシュマ(種子島)に上陸しました。ピントはこれにより、最初に日本に入国したヨーロッパ人だと主張しました。その時に、ピントは日本へ、火縄銃(arquebus, Firearm)を持ち込みました。(種子島氏の鉄砲記によると鉄砲伝来は1543/8/25(旧暦9/23)とされています)。この鉄砲伝来は当時内戦状態(戦国時代)にあった日本において急速に普及し、日本の戦いに大きな影響を与えました。
東南アジア、中国、日本

昭和38年 1963/9/16 発行

・日本への大航海
ピントはこの数年後、中国の寧波沖合いの双嶼島(リャンポー Ningbo、現:寧波)に到着しましたが、その地で、ポルトガル人貿易商達に日本の話をすると、商人達は日本との貿易に関心を持ち、ピントはこの商人達と日本へ向かうこととなりました。しかし、ピント達はその航海でも難破し、レキオ・グランデ(大琉球、Ryukyu Islands、現:沖縄島)にたどり着きましたが、持っていた交易品によって海賊と思われ、処刑されそうになるも、ある身分の高い女性の取りなしで釈放されました。

1549年に鹿児島の港をを出帆する時には何らかの理由で追われていた逃亡者アンジロー(Anjiro、1511(永正8)頃〜550(天文19)頃)ともう1人の日本人をマラッカに連れて行き聖ザビエル神父に引き合わせ、キリスト教に改宗させました。(ただし、ザビエルの伝記によるとアンジローと会ったのは1547/12月)。この後ザビエルはアンジローらと共にピントの日本への航海にゴアを出帆、日本に着くとピントと分れて、鹿児島に1549/8/15に上陸、カトリックを日本に伝えました。1551年にピントはザビエルに再会し教会を建設する資金を提供しました。その後、一緒にゴアへと出帆しました。ザビエルは中国への伝道に赴きましたが1552年に亡くなりました。ピントは1554年に今までに獲得した財宝を持ってポルトガルに帰国しょうとしましたが、ゴアで生きているかのようなザビエルの遺体を目の当たりにして改心し、イエズス会(Society of Jesus)に蓄えた巨額の財産を寄付して入会し、修道士となりました。

・日本への最後の航海〜弘治2年(1556)4回目の来日で同年離日
1554年に日本の大名の大友義鎮から「洗礼を受けたいので宣教師をよこして欲しい」との手紙がゴアに届きました。ピントは1556年にフロイス神父と他の聖職者らと共に日本へ渡りました。このときの来日では豊後の大友氏との外交が樹立されましたが、大友家の諸事情により義鎮の改宗には至りませんでした。ただし、この22年後には義鎮は改宗。この日本への航海では、ピントはザビエルの後継者と共にポルトガルの正式な外交使節として豊後の大名に派遣され、日本に教会を建設しました。しかし理由は不明なるも、1557年にピントはイエズス会を脱会してゴアへと出帆し、日本を離れました。

・マルタバンへの大航海
ピントがマラッカに戻った時に総督ペロ・デ・ファリアが、マルタバン(Martaban、現ミャンマー(Myanmar)のモン州モッタマ)に外交使節として赴くように命じました。その時マルタバンはブラマ(ビルマ Burma)と戦争中で、マルタバン包囲攻撃戦の真っ最中に到着して、ピントはブラマ王のポルトガル人傭兵隊のキャンプに避難しました。包囲攻撃終了時(1542年?)に、そこでポルトガル人に裏切られ、ブラマ王の官吏(ビルマ人 Burmese)の捕虜となりカラミニャム(Calaminham、現ラオスのルアンプラパン Luang Prabang)に連れて行かれました。ビルマがサヴァディ(Sandoway、現ミャンマーのサンドウェ)を包囲攻撃した時に、どさくさに紛れて逃げ出し、ゴア行きの船に乗り込みました。

・ジャワへの大航海
ゴアに戻ったピントは、再び以前マラッカ総督をしていたペロ・デ・ファリアに出会いました。ペロはピントにジャワ(Java)での、中国に売りに行く胡椒(pepper)の買い付けを命じました。ジャワのバンタ港(Bantam、現インドネシアのバンタム)で胡椒を買い付けて、40人のポルトガル人傭兵隊に加わり、デマ王(ドゥマク王国、英: Sultanate of Demak)がパルサバン(ヒンドゥ教国マジャパヒト王国、Majapahit)を攻略するのを手伝いましたが、デマ王が小姓(page boy)に殺されたのでデマに戻りました。その後、デマでは内乱が起こったので、他のポルトガル人と共に船で逃げ出しましたが、シャム湾(Gulf
ジャワ島

インドネシア 1967 発行
of Siam)で倭寇に遭遇し、ジャワに帰らざるを得なくなりました。ジャワの近海で船が大破、乗組員同士で殺し合いが起こり、逃げるに逃げ出せず食糧不足で人肉食まで行ったと自伝に記述しています。

その後、ジャワ人に自分達をマラッカに連れて行って売ってくれと頼んで、奴隷として自らを売りました。その後、ピントはセレブレ人(Celebes、現インドネシアのスラウェシ島の原住民)に売られ、その後にカラパ(Kalapa、現インドネシアのジャカルタ)の王に売り渡され、その王によって、ジャワの元いた所(Sunda)まで送り返されました。ピントは再びジャワを発ち、パタネ(パタニ王国)とシャム行きの船に、知り合いに借金して運賃を払って乗り込みましだ。

シャムに着くと、シャムのオディア(現タイのアユタヤ)の王(チャイラーチャー Chairacha、1534-1546)がシアマイ(現タイのチエンマイ)を攻めようと、ポルトガル人を傭兵として雇いました。それで、ピントも傭兵でシアマイ攻撃に遠征し、勝って帰ってきましたが、オディア国王の王妃シースダーチャン(Si Sudachan)が夫の留守中の浮気(小姓のブンシーとの)がばれるのを恐れて国王を毒殺しました。その後にこの妃は自分の息子をも殺し、ブンシーをウォーラウォンサー(Worawongsathirat、生年不詳-1548)として王位につけましたが、この王も即位から42日後に暗殺されました。この政情不安につけ込んだブラマ王(タビンシュエーティー、Tabinshwehti、1517〜在位1531〜1551、ポルトガル人傭兵隊を持つ)はアユタヤに攻め入りました。ピントの自伝「東洋遍歴記」に書かれている、このビルマの戦争の記述はこの時代の西洋人によるビルマの一番詳細な史料となっています。

(3)インドから母国への大航海
・帰国
1558/9/22にピントは帰国しました。1555年にイエズス会との書簡が発行されたことで、ピントはすでに西洋では名を知られた人物となっていました。その後、ピントは今までの国王への奉仕に対する報償を要求しましたが、ピントが1583年に亡くなる数ヵ月前にやっと与えられました。

帰国後にピントはマリア・コレイア・デ・ボレットと結婚し、少なくとも2人の
ポルトガルの地図(色は国旗の色)

スペイン 1999/5/28 発行
娘をもうけました。1562年にアルマダの近くにあるプラガルに隠居し農場を経営しながら、1569年(60才)頃から自伝を書き始めたものと言われています。この本は生前は出版されず、1583年(74才)没後から31年を経て1614年に出版されました。

・「東洋遍歴記」 (Peregrinacao) の完全な題名:〜
「我々西洋では少ししかあるいはまったく知られていないシナ王国、タタール、通常シャムと言われるソルナウ王国、カラミニャム王国、ペグー王国、マルタバン王国、そして東洋の多くの王国とその主達について見聞きした多くの珍しいこと、そして、彼や他の人物達、双方に生じた多くの特異な出来事の記録、そして、いくつかのことやその最後には東洋の地で唯一の光であり輝きであり、かの地におけるイエズス会の総長で聖職者フランシスコ・ザビエルの死について簡単な事項について語られたフェルナン・メンデス・ピントの遍歴記」
東洋遍歴記

ポルトガル 2014 発行
「東洋遍歴記」については、大法螺話といわれてきた大冒険物語ですが、そこに書かれていることは「事実関係よりも、実際に大倭寇の世界を生きた冒険商人が語る「混沌」の現実性と言って良く、彼が記す人や街や港の実態や航海とか戦闘の描写は本当に見聞した者でなければ描けない生々しさがある」とも言われています。

タビンシュエーティーは、タウングー王朝のビルマ人王の一人です。
参考:〜
・タビンシュエーティー王
  (Tabinshwehti 、1517〜在位:1530/11/24-1550/4/30)
タビンシュエーティー王はビルマ人の王朝、タウングー王朝の王の一人。父王・ミンチーンヨーが1503年に手に入れていたチャウセーの土地がタビンシュエーティーの即位までに国土を潤わしていたため、タビンシュエーティーは即位後その力を存分に発揮し、ビルマ人の代表的な王の一人となった。即位後、タビンシュエーティーはエーヤワディー川のデルタを1535年に掌握した。1539年にはペグー王朝の首都、ハンターワディー(ペグー、ホンサーワディー)を陥落させ、ペグー王朝を滅亡させた。翌年、ポルトガル人、ホアノ・カイエイロ率いる鉄砲隊700人を傭兵(Mercenary)として雇い入れ、火薬という新兵器を導入し、ムスリム傭兵を加えて軍事力を大きくした。1541年新兵器による軍事力を得たタビンシュエーティーはモン族の都市、マルタバンを兵糧責めで攻撃(1541-42)し、一ヵ月の後に陥落させた。タビンシュエーティーは南のモン族を平定すると、1554年、シャン族のアワ王国
ビルマの地図

ビルマ 1979/12 発行
を攻撃、首都を壊滅させ、中央ビルマ全域を支配するに至った。1548年から1549年には小タイ族の王朝のアユタヤが相続争いで混乱しているのを見て攻撃を仕掛けるが、相手も同じくポルトガル人傭兵隊を抱えていたことにより、その力を発揮できず失敗に終わった。このようにポルトガル人傭兵隊がタビンシュエーティー王時代のタウングーに大きな進展をもたらした一方で、タビンシュエーティーは、ポルトガル人傭兵隊の持ち込んだアルコールにおぼれ、アルコール依存症をきたした。また晩年には、モン族の妻を娶り、モン族の習慣を積極的に導入。南ビルマの国主にビルマ人を任命せずにモン族を導入したため、国内ではモン族に対する脅威が高まった。タビンシュエーティーは1551年、シッタウンの国主に殺されるが、この後、タウングー王朝では各地で他民族の反乱が起き王朝は再び分裂。この危機を救ったのが次期国王で彼の乳母兄弟であるバインナウンだった。

・王 直 (おうちょく)
 Wang Zhi、(生年不詳 〜1559
王直は中国、明代の貿易商人(海商)で、後期倭寇の頭目。徽州歙県(きしゅう きゅうけん、現在の安徽省黄山市)に生まれの任侠の徒であったと言われ、青年の時に商を手がけるが失敗。明が海禁政策を行うなか葉宗満らと禁制品を商う密貿易に従事する。双嶼(リャンポー、浙江省寧波の沖合い)港を本拠地に活動していた許棟、李光頭の配下として東南アジアや日本の諸港と密貿易を行い、博多商人と交易
海族との戦い
して日本人との信任を得る。1548年、密貿易を取り締まった糸丸らが双嶼を攻撃すると逃れて海賊集団を組織し、浙江省舟山諸島の烈港を本拠に徽王と称し、徐海と並ぶ倭寇の頭目となる。 1540年には日本の五島に来住し、1542年に松浦隆信に招かれて平戸に移った。そして1553年に烈港が再び明軍によって攻撃されると、王直は活動拠点を五島や平戸に移したとされている。地方官憲や郷紳らと通じ、養子や甥の王汝賢らを幹部に密貿易を拡大。

1543年(日本暦天文12)ともされる日本への鉄砲伝来にも関っていたとも言われ、王直の乗るジャンク船がアユタヤを出帆し、双嶼に向かっていたところ、大嵐で遭難して種子島へ漂着、同乗していたポルトガル人が日本に鉄砲を伝えたとされる。また、豊後国の戦国大名である大友宗麟とも接触をもったと考えられている。

朱丸の死後に倭寇の取締りは一時的に弱まるが、兪大猷らが新たに赴任し、56年には胡宗憲が浙江巡撫に就任する。胡宗憲が総督に就任すると倭寇の鎮圧は本格的に開始され、57年に王直は官位をちらつかせた明の誘降に乗って舟山列島の港へ入港し、1559年12月に処刑された。

こちらで
テオドロス2世
  (Tewodros II、1818〜在位:1855〜1868/4/13)
をお楽しみください。

参考HP:〜
 ・ポルトガルの地図
 ・ゴアとディウとホルムズの場所地図
 ・エチオピア、イェーメン・モカ、イラン・ホルムス付近の地図
 ・イェーメン(モカ)の地図
 ・マレー半島の場所地図
 ・南シナ海および現在の近隣諸国の場所地図
 ・東シナ海の場所地図
 ・日本の場所地図
 ・ビルマ(ミャンマー)の場所地図

上記はこちらの文献などを参照させてもらいました。    2009/9/9、14/10/20、2017/2/26、令和6年 2024/9/24

スタンプ・メイツ
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