イギリス領 アデン |
北緯 15° |
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東経 | 45°4 | |
イギリス領アデン 1963 発行 |
この切手を良く見て下さい。経度線・緯度線が表示してあります。それで、アデンがアラビア半島の南西角付近の東経45度・北緯15度付近にあることが解ります。なお、アデンを通る座標は北緯12度48分、東経45度2分となっています。
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ADENB | |||
英エリザベス 2 世 |
アデン港 |
アデン港 |
アデン港 |
イギリス領アデン 1953 発行 | アデン 1939-48 発行 |
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SOMALILAND アデン湾とソマリア北西部の地図 |
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アラビア半島→ アデン→ ジプチ→ アフリカ→ |
英ジ ョ|ジ6世 |
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←ソマリア ° |
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イギリス領ソマリランド 1960/4/5 発行 |
・アデン British Aden (東インド会社アデン:Aden、1839〜1869) (英領アデン:Aden、1869〜1874) (アデン保護領:Aden Protectorate、1874〜1963) (南アラビア保護領(南イエメン):Protectorate of South Arabia、1963〜1967) アデンは航海の入り口パブ・エル・マンディブ(Bab el Mandeb)海峡から東へ160kmの要衝にあり、古くはプトレマイオスの「地理書」にアラビア・モンポリュムとして紹介されている古い港町です。現在は人口:3.4万人(1980)の南イェ−メンの首府(港町)です。 0575、ササン朝ペルシャに属し、 0628、イスラム領となり、 十字軍戦争中はイスラムのサラディンが遠征軍を送り確保 1505、マルムークの遠征で攻撃される 1513、ポルトガルのアルブケルケ将軍が攻撃、 その後ポルトガルが占拠(1513-1538、1547-1548) 1516、マルムークの紅海作戦で攻撃されるも、ポルトガルが撃退 1538、オスマン・トルコのスレイマン大帝が占拠(1538-1547、1548-1645)、 100年以上トルコ領 1839、イギリス東インド会社(イギリス)がアデンを始めとする南イエメンを占領 以後、南イエメンはイギリスの植民地となる(1839/1/19〜1967) 1849、オスマン帝国が北イエメンを再占領。 1869、イギリスが南イエメンにアデン保護領(Aden Protectorate、1874-1963)を設置 スエズ運河開通に伴い、中継基地・軍港として、ますます重要となる 1918、オスマン帝国の第一次世界大戦敗北で、イエメン王国(1918-1962)が独立 第1次大戦(1914/7/28-1918/11/11)後、英のインド総督支配 1934、サウジ・イエメン戦争で一部(Asirがサウジアラビアに併合される 1937、直轄植民地 1945、第2次大戦(1939/9/1-1945/9/2)後、南アララビア連邦に属す 1962、軍事クーデターで、イエメン王国が崩壊 イエメン・アラブ共和国が成立するも、北イエメン内戦が勃発(〜1970) 1963、アデン保護領を南アラビア保護領(1963-1967)に改称 1965、アル=マフラ県に隣接するオマーンのドファール地方で、 南イエメンが支援するDLF(Dhofar Liberation Front)による ドファールの反乱(1962-1976)が激化 1967、英領南アラビア保護領(南イエメン)が、 南イエメン人民共和国(1967-1990)として独立(後にイエメン人民民主共和国へ 改称)してイェ−メン民主人民共和国の首都となりました。 参考HP:〜 ・アデンの地図 ・南北イェーメンの地図 ・アラビア半島南部の地図(拡大有) 2010/10/10追記、16/2/20 |
現在はイェ−メン共和国の港町になっています。
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こちらで ・イギリス領インド洋地域 ・セーシェル ・ジル・エルワニアン・セセル ・ヴァレ・ド・メ自然保護区(世界遺産) ・アルダブラ環礁(世界遺産) ・モーリシャス をお楽しみください。 ・上記はこちらの文献などを参照させてもらいました。 14/7/8追記 |
イギリス領インド洋テリトリー アルダブラ環礁 |
アルダブラ環礁はイギリス領インド洋地域の一部にあって、サンゴ礁が隆起して出来たインド洋に浮かぶセーシェルの環礁で、人の手がほとんど入っていない状況の中、アルダブラゾウガメをはじめとする独特の動物、植物の生態が保たれている地域です。ゾウガメの生息地としては世界最大級で、15万2000頭が生息。ゾウガメのほかにもアオウミガメ、タイマイなどが生息し、また多くの鳥類も観測されています。 1982年に世界自然遺産に登録されました。 面積は350ku、陸上188 ku、マングローブ林20 ku、海域142 ku。 アルダブラは1511年にポルトガルの船乗りがヨーロッパ人としての上陸を果たしましたが、すでにアラブ人たちには知られており、「アルダブラ」の名も彼らによってつけられたものでした。18世紀にはフランス領レユニオンの保護下になり、ゾウガメを捕獲するための探検隊はレユニオンを起点としていました。1810年には、モーリシャス、レユニオン、セーシェルなどとともにイギリス領となりました。現在は自然保護スタッフ以外はいない無人島です。 参考HP:〜 ・アルダブラ環礁の場所地図 09/12/30追記 |
イギリス領 セイシェル諸島 |
アデン セイシェル マダガスカル |
モーリシャス |
1502年ポルトガルのヴァスコ・ダ・ガマが南部の「アミラント諸島」を発見。その後アラブ人やポルトガル人が訪れていました。1742年フランス人が公式の探検をし70年代に定着を開始しましたが、イギリスの侵入に寄って英仏の争奪戦争が起こり、1810年イギリスが諸島を支配し、1814年のパリ条約でイギリス領となりました。19世紀にはモーリシャスの属国となりましたが、1903年「アミラント諸島」「コスモレド諸島」を加えてイギリスの直轄植民地となりました。1976年6月28日「セイシェル諸島共和国」として独立し英連邦の一員となりました。 セイシェル諸島は主島「マヘ島」の有る「セイシェル諸島」そして「アミラント諸島」「ブロビデンス諸島」「コスモレド諸島」「アルタブラ諸島」など92の小島で構成されています。32の花崗岩性の島と60のサンゴ礁性の島があり、サンゴ礁性の島には人は住んでいません。花崗岩性の島は山がちで森林に覆われています。面積280ku、年平均気温26-7℃、年間降水量3000mm、人口64000人(1983推計)黒人と欧州人との混血の「クレオール」がほとんど。公用語は英語とフランス語で他にインド系、中国系が話されている。宗教はカトリックが90%で残りは英国国教会系。1971年マヘ国際空港が開港してから観光客が急増中。1979年には年8万人が来島。観光業のほかに漁業、そしてコブラ・シナモンを輸出しています。12〜5月が暑く、6〜11月は比較的涼しい。世界に残された「最後の楽園」「インド洋の真珠」と呼ばれています。 |
セイシェルの世界自然遺産 「バレ・ドゥ・メ」 (巨人の谷) SEYSHELLES |
クロインコ | フタゴヤシ |
Black Parrot | Coco de Mer Palm |
1983年ブララン島の「バレ・ドゥ・メ(巨人の谷)渓谷・自然保護区」が世界自然遺産に登録されました。面積は非情に狭いながらも、樹齢100年以上の木が密生する原生林にセイシェルの「クロ・インコ」やセイシェル固有の「フタゴヤシ」が生育して、その価値は高く評価されています。フタゴヤシの樹は高さ30m実は直径50cmにもなり「ヤシの女王」と呼ばれています。 面積0.195kuで一番狭い世界自然遺産です。 日本の「屋久島」世界自然遺産は107kuです。1993/12に屋久島が島の中央部の宮之浦岳を含む屋久杉自生林や西部林道付近など、島の面積の約21 %にあたる107.47 km2 がユネスコの世界自然遺産に登録されました。世界遺産への登録は1993年で姫路城・法隆寺・白神山地とともに日本初でした。 2003/9/9 |
イギリス領 モーリシャス |
地図と「どーどー」(The DoDo) | |
東経 57°30′ 20°10′南緯 |
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モーリシャス 発行 | モーリシャス 1954 発行 |
モーリシャスは1598年オランダ人が漂着して発見。黒檀を産物としましたが、1710年に退去。1715年フランスがアフリカから個人奴隷を導入して、サトーキビのプランテーションを始めました。1810年イギリスの東インド会社が占領、1833年奴隷を解放して、インド人労働者を導入。1860年には全人口20万の2/3に達しました。1947年自治が認められ、1968/3独立して、英連邦の一員となりました。 面積2045ku人口約101万人(1984)マダガスカルの東方のインド洋に浮かぶ島国。 |
絶滅種の鳥の切手をお楽しみ下さい。 詳しいモーリシャスをこちらでお楽しみ下さい。 |