★マゼラン物語 |
第1章 第2章 第3章 第4章 |
Spain 国連 1988 発行 |
第3章 世界一周 (別紙 2)
主な乗組員 1519〜1522 マゼラン船隊 |
大航海物語 スペイン編★ |
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(トリニダード号乗組、ヴィクトリア号の後任船長、トリニダード号後任船長) エスピノーザは、1521/4/27マゼランがマクタン島の戦いで戦死後エルカノと別れ、東回りの帰国を目指してトリニダード号でパナマ地峡地帯ダリエンへと出帆するも、荒天と飢餓で航海を断念。トリニダード号がモルッカ諸島に戻り、テルナテ島のポルトガル人に救助同然に拿捕されました。拘束されたエスピノーザ船長とマフラ航海士、ベルゲン砲手は、インド経由でエルカノらに遅れること4年後、1526年に自力ではないにせよ、世界周航から帰還。リスボンでは投獄され、ベルゲン砲手は亡くなり、エスピノーザはその年に釈放されるも、マフラは7ヵ月拘留されました。 <マゼラン船隊> エスピノーザは1479年にカスティーリャ王国アンダルシア州セヴィリアで生まれました。1519/4/19に王命でマゼラン船隊の上級幹部(Senior Sheriff)に任命され、セビリア・カディス・パロス・その他の地域で、遠征船隊乗組員の募集を担当しました。スペイン人乗組員はなかなか集まらず、ポルトガル人30人など外国人を雇とって総勢237人(265人説有)で、1519/8/10にマゼラン船隊のトリニダード号に乗組んでサンルーカル・デ・バラメダを出帆しました。大西洋を南下、カナリア諸島に寄港して補給。さらに大西洋を航海して、ソドミー裁判や、11/20頃にサン・アントニオ号カルタヘナ船長の逮捕が起りました。1520/3/31にアルゼンチンのパタゴニアのサン・フリアン湾(San Julian Bay)に到着、越冬開始。1520/4/1イースター反乱が勃発。エスピノーザは密かに武装した男5〜6人を連れて反乱船ビクトリア号へマゼランの返書を届けに行き、反乱者メンドーサを殺害、応援のバルボーサと15人の武装した男たちと共にビクトリア号を制圧して取り戻しました。翌日にコンセプシオン号、サン・アントニオ号が降伏して反乱は鎮圧されました。
<セブ王の裏切り> マゼランが戦死した後、遠征船隊の生存者108人がマゼランの従兄バルボーサとセラーノを共同船隊司令官(Captain general)に選び、アフォンソ・デ・ゴイスがビクトリア号の新船長に就任。1521/5/1にセブ王がバルボーサと主だった乗組員を歓迎の大宴会に招待し、セラーノの疑いにもかかわらず、バルボーサは招待を受けました。セラーノは大砲2門を交換しようとして船に残りました。エンリケにそそのかされて裏切ったセブ王は、宴会で乗組員30人を殺害しました。 <帰路の航海> 1521/5/2に人員が減り、3隻の維持が困難となってボホール島で害虫損傷のコンセプシオン号を焼却処分。ビクトリア号とトリニダード号のみとなり、残った隊員は、エスピノーサをビクトリア号の船長に、新船隊司令官(Captain General)には、船隊の主任航海士カルヴァーリョを選任。船隊はすぐにミンダナオ島、ブルネイを目指して出帆しました。1521/9/30に遠征隊はカルヴァリョを不正行為で船隊司令官を解任し、エスピノーザを新しい船隊司令官に任命しました。ビクトリア号の船長にはエルカノを指名。1521/11/7にエスピノーザと遠征隊がモルッカ(スパイス)諸島に到着し、翌日にはハルマヘラ島の西海岸沖合10kmのティドーレ島(Tidore)に停泊。そこで彼らはスペイン人からアルマンゾール(Almanzor)と呼ばれるティドーレ島の王に取引の許可を求め、交易で商品(布、ナイフ、ガラス製品など)と引き換えに大量のクローブを手に入れました。1521/12/18、2隻の船にクローブを満載してスペインに向けて出発する準備をするも、その日にトリニダード号で水漏れが見つかり、長い修理が必要になりました。2隻は別れて、ビクトリア号はエルカノの指揮下で出帆して西周りで、1522/9/8にサンルーカルデバラメダに到達、最初の世界一周航海を成し遂げました。
(トリニダード号乗組、航海士) ジネス・デ・マフラは、ポルトガル西海岸リスボン県北部のマフラの町(スペイン・アンダルシア州カディス県ヘレス・デ・ラ・フロンテラ(Jerez de la Frontera、Cadiz Province, Spain)生説有)で生まれました。 <マゼラン船隊> 1519年にマゼラン船隊のトリニダード号に乗組みました。マゼラン船長が”マグダン島の戦い”で戦死した後、ビクトリア号のエルカノ船長と別れ、トリニダード号のエスピノーザ船長と東回りで帰国のためパナマのダリエンを目指して航海するも、一行は荒天と飢餓で航海を断念。モルッカ諸島に戻って、ベナコノーラのポルトガル人に救助同然に拿捕されました。彼はテルナテ島で5ヵ月間投獄され、バンダ諸島の刑務所に移送され、4ヵ月間留置されました。その後、インドのコーチンに連れて行かれ5ヵ月後、マラッカに移されました。2年後にポルトガル船で、エスピノーザ船長やベルゲン砲手などと一緒にインド経由で、リスボンに運ばれました。エルカノ船長らに遅れること4年後の1526年にポルトガルに到着(世界周航から帰還)すると、彼らは刑務所に投獄されました。ベルゲン砲手は刑務所で亡くなり、エスピノーザはその年に釈放されました。マフラ自身は、トリニダード号から持ち出した船隊の総航海長マルティンの航海日誌など重要な文書を所持していたために拘留されました。マフラはリスボンで7ヵ月間拘留の後に釈放されました。 <ヴィリャロボス船隊> マフラは1531年に海に戻って中南米へ渡航。1536/11/20の手紙で、グアテマラ総督ペドロ・デ・アルバラード(Pedro de Alvarado, 1485-1541)の紹介で、マゼランの航海での経験から優秀な航海士(Pilot, パイロット:水先案内人)としてスペイン艦隊でペルーへ行ったと伝えています。1542年にはヌエバ・エスパーニャ(ニュー・スペイン植民地、現メキシコ)にてヴィリャロボス遠征船隊 (1542-1546)のサン・クリストバル号(San Cristobal、サン・ファン号(San Juan)説有)に航海士として参加しました。
(トリニダード号砲手) ベルゲン砲手は、エスピノーザ船長やマフラらと共に、マゼラン船長が”マグダン島の戦い”で戦死した後、トリニダード号で東回りで帰国を目指して航海するも、荒天と飢餓で航海を断念。モルッカ諸島に戻って、テルナテ島のポルトガル人に救助同然で拿捕され、5ヵ月間投獄されてから、バンダ諸島の刑務所に移送され、4ヵ月間留置されました。その後、彼はインドのコーチンに連れて行かれ5ヵ月後、マラッカに移されました。2年後にポルトガル船で、エスピノーザ船長などと一緒にインド経由で、リスボンに運ばれました。エルカノ船長らに遅れること4年後の1526年にポルトガルに到着(世界周航から帰還)すると、刑務所に投獄され、ベルゲンはその刑務所で亡くなりました。
(トリニダード号乗組、トリニダード号の後任船長:1521/5/2〜/9/21) 1521/5/2、コンセプシオン号を焼却後、カルヴァーリョが船隊司令官(Captain General)でトリニダード号船長に就任。1521/9/21、船隊司令官がカルヴァーリョからメンドーサに、そしてトリニダード号の船長がエスピノーザに交代。その後カルヴァーリョの消息は不明で、1522/9/6にビクトリア号がスペインに到着した時の帰還者名簿に彼の名前はありませんでした。
(サン・アントニオ号乗組、船隊の総航海長) マルティンはスペインのセビリア生まれのポルトガル人で、妻アナ(Ana)とのあいだに2人の娘、ファナ(Juana)とマリア(Maria,)がいましたが、その生涯についてはほとんど知られていません。1512年にアメリゴ・ヴェスプッチが亡くなった時に、スペインの主席水先案内官に応募するも、フアン・ド・ソリスが指名されて落選。1518年にソリスが亡くなった時に、再び応募するもセバスチャン・カボットが採用されて又もや落選しました。1519年7月にスペイン王命でマゼランの水先案内官(Pilot)に採用されて、1519/7/31に生活費手当30,000マラベディス(Maravedi)と、前払い金7,500マラベディスを受け取り、1519/9/20にマゼラン船隊のサン・アントニオ号に主任航海士(船隊の総航海長)として乗組んでサンルーカル・デ・バラメダ港を出帆。1519/12月リオデジャネイロ(Santa Lucia Bay:Rio de Janeiro Bay)でサンアントニオ号からビクトリア号へ移動。 <反乱> 1520/4/1のイースター反乱に関与した疑いで、吊り刑(ストラップパド,Strappado)で拷問されるも生き延び、その後に航海士としての任務を継続することが許されました。”マグダン島の戦い”の後、1521/5/1にセブ島のラジャ・フマボン大酋長の宴会で殺害されて没。ただ、8人が生き延びたという信頼できる報告があったので、彼がそこで殺された人々の1人であったことは確かではありません。彼は天文測定を使用して2回、パタゴニアのサンフリアン湾とフィリピンのホモンホン島の2つの場所の経度を正確に測定しました。なお、マルティンはセブ島の宴会より前に、貴重な航海ノートやその他の書類をマフラに託していたので、マフラが1526/7月にリスボンに到着した時に没収されました。そして、それらはリスボンのアーカイブ館(Museu Nacional de Arte Antiga)に保管され、ポルトガルの歴史家が参照して研究した貴重な資料になりました。 参考HP:〜 ・吊り刑(Strappado)の図
(サンティァゴ号最初の船長、1519/9/20-1520/8/10難破) (コンセプシオン号の後任船長1520/8/10-1521/5/2) セラーノはスペインのエストレマドゥーラ州バダホス県フレヘナル・デ・ラ・シエラ (Fregenal de la Sierra, Badajoz provincia, Spain)生れの航海士(Pilot. パイロット, 水先案内人)で、1502年にバスコ・ダ・ガマの第4次インド遠征艦隊(1502〜1503)に航海士で乗り組みました。1505年にはアルメイダ提督の第7次インド遠征艦隊(1505〜1506)に、フランシスコ・セラン(Francisco Serrao, ?-1521)と共に参加しました。セランは彼の兄弟か従兄弟で、マゼランの航海が始まった時にスパイス諸島(モルッカ諸島)に住んでいて、マゼランが会いたいと思っていた人物でした。ところがセランもマゼランも二人共、1521年にモルク諸島(テルナテ島)とフィリピン(マクタン島)でほぼ同時に亡くなりました。 <マゼラン船隊> セラーノは、1519/9/20にマゼラン船隊のサンティァゴ号最初の船長としてスペインのサンルーカル・デ・バラメダを出帆。1520/3/31、アルゼンチンのパタゴニアのサン・フリアン湾(San Julian Bay)に到着、越冬開始。1520/4/1のイースター反乱時にセラーノはサンティァゴ号船長でマゼランと共にサン・フリアン湾の封鎖に貢献しました。1520/7/17、サンティアゴ号が南方偵察のためサン・フリアンを出帆。1520/8/5、セラーノ船長はサンタクルス川(Rio Santa Cruz, 385km)の河口湾を発見、6日間停泊。8/1 0頃、サンティァゴ号がサンタクルーズ川を出帆。翌日、船は夜間に悪化した嵐に巻き込まれ、嵐は益々激しくなって船は嵐のなすがままになって難破しました。セラーノの奴隷の他の乗組員はなんとか救かりました。セラーノは乗組員2人を上陸させて、サン・フリアンへ救助を求めに送りました。その間に、難破船からできる限りの装備品を陸揚げしました。マゼランは生存者を各船に分けて乗り組ませ、セラーノを5/7に反乱罪で処刑したケサーダ船長のコンセプシオン号の後任船長に指名。8/24に4隻がサン・フリアン湾を出帆。サン・アントニオ号が逃亡・帰国したので、1520/11/28にビクトリア号とトリニダード号、コンセプシオン号の3隻がマゼラン海峡を通過。太平洋を横断後、1521/3/16に遠征隊はマゼランが「サン・ラサロ」(San Lazaro)と呼んだフィリピンのセブ島に到着。そこでマゼランは、彼の通訳として役立つ奴隷のエンリケの助けで、3/31にフィリピン初のミサをマザウア島(Mazaua, 現(Limasawa)リマサワ島)で挙行。洗礼(Baptism, バプテスマ)を受けてスペイン国王の家臣になることに同意したセブ島支配者のセブ王ラジャ・フマボンの友情を勝ち取りました。この最初の成功に続いて、マゼランはフィリピンの他の王たちを鎮圧しようとしました。1521/4/27、マゼラン自身が率いる先住民族の戦士と共にマクタン島原住民とのマクタン島の戦いで、マクタン島民はセラーノが忠告していた強さを示し、マゼランは敗れて戦死しました。 <セブ王の裏切り> マゼランの戦死後、残った遠征隊はアフォンソ・デ・ゴイスを新しいビクトリア号船長に、セラーノとマゼランの従兄バルボーサを共同船隊司令官(Captain general)に選びました。1521/5/1にセブ王ラジャ・フマボンがバルボーサと主だった乗組員を歓迎の大宴会に招待。セラーノの疑いにもかかわらず、バルボーサは招待を受けました。新共同司令官の1人だったセラーノは大砲2門などを交換しようとして船に残りました。セブ王はエンリケにそそのかされて裏切り、宴会で乗組員30人を殺害しました。船隊はすぐに出帆して、現地人がセラーノを捕らえて町に連れ帰っているのを見た乗組員たちは、彼を殺すだろうと大声で叫んだと伝えられています。セラーノは囚われ、後に殺されました。なお、セラーノは彼と武器を交換したい現地人に救出されるも取り残されたとか、船隊主任航海士カルヴァーリョに救われたとか、宴会には参加せず生き残るも現地人に捕らわれてスペイン船が停泊している海岸に運ばれ、乗組員に現地人セブアノ族に身代金を支払うように懇願するも、その声は届かずスペイン船は港を去って殺されたと推察する説も有。
(ヴィクトリア号見習い水夫、脱走者) キャビンボーイ(Cabinboy, 見習い水夫)のアヤモンテは、ポルトガル生まれのカスティーリャ人で、同僚のキャビンボーイのバルトロメ・デ・サルダーニャ(Bartolome de Saldana)と一緒に、これ以上の航海には耐えられないと、船がティモール北岸のバタタラ港(Batatara port)沖にきた夜、船から岸まで泳いで脱走しました。最終的に2人は、東南アジア海域を支配していたポルトガル人に捕まり、彼らはポルトガル領のマラッカに連れて行かれ、そこで正式な尋問を受けました。尋問については、ポルトガル国立公文書館で見つかった4つの文書に記録されています。それによると、1521/3/28から4/4まで停泊した港マザウア(Mazaua island-port)へ、戻って1543/3月に約90人以上の仲間が約6ヵ月間も港に滞在したことが、ピガフェッタ、マフラ、マルティン、フランシスコ・アルボ(Francisco Albo)も記述していました。その後の消息は不明。マザウアの港は不明で、歴史家の間で論争になっています。
(最初のヴィクトリア号船長) メンドーサはスペインの船乗りで、1519/3/30にカルロスI世に海軍会計官(Treasurer of Navy)に任命され、マゼラン遠征船隊に参加してヴィクトリア号の船長として乗組みました。1520/3/31にパタゴニアのサン・フリアン湾に到着、越冬開始直後の、1520/4/1にイースター反乱の蜂起に参加後、4/2にビクリトア号でエスピノーザに殺害されました。 <反乱の顛末> マゼラン遠征船隊の船長と将校たちは、マゼランが喜望峰に向かっていないことをみて、パタゴニアの沖を航行するのは役に立たないとマゼランに要請することに同意して、反乱が勃発。4/1夜、ケサーダはメンドーサの支援を得て、彼のコンセプシオン号と一緒にサンアントニオ号に渡り、船長メスキータをを捕えました。こうして、カルタヘナ・ケサーダ・メンドーサは5隻の船隊のうち3隻、ビクリトア号・サン・アントニオ号・コンセプシオン号を確保し、トリニダード号・サンティアゴ号を支配していたマゼランに要求を突きつけました。マゼランは交渉のふりをして腹心の部下エスピノーザに5〜6人の武装した男達をつけて密かにビクリトア号へ送り出しました。メンドーサがマゼランのメッセージを受け取るため、エスピノサを船内へ入れると、彼の部下の1人がメンドーサに切りつけ殺害しました。その間、同じくマゼランが送ったバルボーサと15人の武装した男達が船内へ突入すると、彼らは乗組員の抵抗なしに船を占領しました。翌日、4/2反逆者たちの手中にあった2隻の船がサン・フリアン湾外へ出ようとすると、湾口に船を置いていたマゼランによって妨害されました。サン・アントニオ号はトリニダード号との短い戦闘の後に降伏し、その後コンセプシオン号は抵抗なく降伏しました。マゼランは反逆者たちを裁判にかけ、メンドーサは裏切り者と宣言され、遺体は四つ裂きにされました。ケサーダは斬首され、四つ裂きにされました。カルタヘナと宣教師ペドロ・サンチェス・デ・ラ・レイナは追放の刑を言い渡され、遠征隊がサン・フリアン湾を出発したときにパタゴニアで置き去りにされました。
(ヴィクトリア号の書記) (ポルトガルのインド出身の将校(1500-1516)、マゼランの妻の兄(義兄) バルボーサは、父親ディオゴ・バルボーサ(Diogo Barbosa)が1501年ノーヴァ船長の第3次インド遠征艦隊でインドに行ったときに同行しました。父親ディオゴが不在の間、バルボーサは叔父で、1500年にブラジルを発見したカブラル船長の遠征船隊に乗り組んでいたファクター(Factor agent, コミッションで商品を受け取って販売するトレーダー)のゴンサロ・ギル・バルボサ(Goncalo Gil Barbosa)と一緒にコーチン(Cochin, Kerala state, India)に住んでいました。1502年にバルボーサ、はカンヌール(Kannur, Kannur district, Kerala state, India)に移動した叔父ゴンサロと行を共にして、現地語マラヤーラム語(Malayalam)を学び、1503年にはポルトガルの通訳を務めました。1513年、バルボーサはカンヌールのポルトガル書記官(Clerk)の地位を得ました。1515年、アルプケルケ将軍の命によりカリカット(Kozhikode, Kerala state, India)で、新総督のもとで紅海への遠征に役立つ2隻の船の建造を監督しました。 <マゼランとの出会い> 1516年、ポルトガルに戻り、ポルトガルの旅行文学の最も初期の例の「ドゥアルテ・バルボーサの書」(Book of Duarte Barbosa)を書き上げました。バルボーサは自分の処遇に不満を抱き、スペイン南部のセビリアで幾つものポルトガル語集会に参加しました。叔父ディオゴは、ブラガンサ公フェルナンド1世の子息ブラガンツァのアルバロ(Alvaro of Braganza, c.1440-1504,Toledo)の後を追って、セビリアで亡命し、そこでアルバロは市長になり、ディエゴはセビリア城の総督になりました。1516年、マゼランはセビリアに引っ越して、ディオゴと友達になりました。まもなくマゼランはバルボーサの妹ベアトリス(Beatriz Barbosa)と結婚し、バルボーサの義理の兄弟になり、バルボーサとマゼラン家のつながりを強めました。 <マゼラン船隊> 1519/8/10、バルボーサは友人のセラーノと一緒に、マゼラン遠征船隊に参加してセビリアから出帆。彼は好奇心で航海中に数回、地元住民と一緒に遠征隊を離れたりして、マゼランの不快をこうむりました。マゼランは1520/4/1のサン・フリアン湾でのイースター反乱に立ち向かうには、バルボーサの助けが不可欠になり、反乱鎮圧後、バルボーサはビクトリアの船長になりました。マゼランが1521/4/27にマクタンの戦いで戦死した後、バルボーサは数少ない戦いの生存者の1人であり、セラーノと一緒に遠征の共同司令官になりました。 <マラッカのエンリケ> マクタン島での戦闘で負傷したエンリケが船に戻っても通訳の仕事をせずに横になっていました。そこで、マゼランの後を継いで船隊司令官になったバルボーサはエンリケに、「主人のマゼランが死んだからといって自由になったと思ったら大間違いだ。スペインに帰ったら未亡人のベアトリス様の奴隷になるのだ。今上陸しなかったら鞭を食らわすぞ!」と脅し、エンリケをセブ王ラジャ・フマボンの元に遣わしました。戻ってきたエンリケは、セブ王が船隊幹部を歓迎の大宴会に招待していると報告。 <ラジャの大宴会> 1521/5/1、ラジャが乗組員をフィリピンのセブ島のバンケット海岸(Banquet ashore)に招待。スペイン国王への贈り物を受け取るも、それは罠で、歓迎の大宴会に出席したバルボーサら船隊幹部約30人のうち27人が殺されました(バルボーサも死亡、全員の30人説有)。ピガフェッタや同行の乗組員の推測では、エンリケがセブ王と図って「マゼラン没後は自由にする」というマゼランの遺言を無視して自分の解放を認めようとしなかったバルボーサに復讐を遂げたのだとしています。
(サン・アントニオ号会計官、サン・アントニオ号の後任船長) 1519/4月までにコカがマゼラン船隊の会計官に任命されました。1519/11/20頃、カルタヘナ船長の逮捕後にサン・アントニオ号の後任船長に就任。その後、コカが解任されてサン・アントニオ号後任船長にメスキータが就任。イースター反乱でカルタヘナ一派の反乱に参加。1520/4/1の復活祭の日曜日(イースター・サンデー)の真夜中に反乱者らはまず、コカ元船長の手引により30人ほどでコンセプシオン号からサン・アントニオ号を急襲。マゼランの従兄弟メスキータ船長を捕え、抵抗した副長のフアン・デ・エロリアーガを殺してサン・アントニオ号を乗っ取りました。反乱者カルタヘナ派がコンセプシオン号、サン・アントニオ号、ビクトリア号を占拠。旗艦にいるマゼランへ交渉を求めるメッセージを通告。ところが返書を持参したエスピノーザ達にヴィクトリア号メンドーサ船長が殺害され、マゼランの義兄バルボーサ達が船内へ突入してビクトリア号が奪還されました。直ちにマゼランが3隻でサン・フリアン湾を封鎖すると、強風に煽られて突出したサン・アントニオ号が短い戦闘の後に拿捕されると、コンセプシオン号にいたカルタヘナ派は降伏。反乱に加担した40人ほどのスペイン人乗組員には死刑判決が出され、ケサーダはエロリアーガ殺害の罪で直ちに処刑。残りは鎖に繋がれて船の補修作業に従事することで免罪とされました。1520/8/24にカルタヘナがパタゴニアに置き去りにされ、コカら約40人は鎖に繋がれて船の補修作業に従事することで許され、冬の間ずっと鎖につながれて船の手入れ、船体の修理、ビルジ(Bilge:船底の湾曲部とか船底に溜まっている水やオイル等の混ざった不要液体)のこすり洗いなどさせられました。なお、反乱後にサン・アントニオ号後任船長はコカが解任されてメスキータが就任。
(サン・アントニオ号乗組) エステバン・ゴメスは、スペイン王に仕えたポルトガル人の地図製作家・航海士で、1519/9/20にマゼランの5隻の船隊の内サン・アントニオ号に乗組んでスペインのサンルーカル・デ・バラメダを出帆しました。1520/10/31にサン・アントニオ号がマゼラン海峡の探索に出て海峡を発見できずに、マゼラン砂州(Magdalen Sound)で船隊に戻れなくなり、ゴメスは船長メスキータを捕えて幽閉し、独断で船団から脱走してスペインへの帰路に就きました。サン・アントニオ号は喜望峰を回航して帰国する途中、1520年に「サン・アントン諸島」(islas de San Anton、現マルビナス諸島:英フォークランド諸島)を発見・命名しました。その後、1521/5/21スペインへ帰還すると、スペイン当局に彼ら投獄されました。1522/9/6にエルカノ指揮下で生き残った生存者18人だけがマゼラン船隊のビクトリア号でサンルーカル・デ・バラメに到着し、乗組員が彼らの恐ろしい経験を語った後、ゴメス達は許されて解放されました。こちらの ・エステバン・ゴメス船長もお楽しみください。
(コンセプシオン号最初の船長) ケサーダは、マゼラン遠征前の生い立ちについてはほとんど知られていません。1519/4月までにスペイン通商院最高責任者ファン・ロドリゲス・デ・フォンセカ大司教にマゼラン船隊のコンセプシオン号船長に任命されてマゼランの大航海に参加しました。遠征の約6ヵ月後、1520/4/1に他の2人のスペイン人船長、コンセプシオン号ケサーダ船長と、ヴィクトリア号メンドーサ船長と共に、アルゼンチンのサン・フリアン湾でイースター反乱に参加するも、反乱は失敗して処刑されました。 <イースター反乱> 1520/4/1の真夜中に彼らはまず、コカ元船長の手引で30人ほどがサン・アントニオ号を急襲。船長のマゼランの従兄弟メスキータを捕え、ケサーダは反乱に抵抗した副船長フアン・デ・エロリアーガを刺して致命傷を負わせました。ケサーダはサンアントニオ号の船長を宣言し、カルタヘナはコンセプシオン号の船長に戻りました。メンドーサがビクトリア号の船長となりました。こうして反乱者たちは5隻の船隊のうち3隻を確保したことを、旗艦トリニダード号のマゼランへ、交渉を求める通告メッセージを持たせた使者をボートで送りだしました。反乱者から交渉を求める通告のメッセージがボートで送られてきたマゼランはそのボートを確保して、エスピノーザに密かに武装した男5〜6人をつけて、反乱者メンドーサへの返書と共にビクトリア号へ送りました。メンドーサがマゼランの通告の返書を読んでいる間に、エスピノーザの部下の1人がメンドーサ船長を斬り殺しました。同時に、同じくマゼランが送った別のボートで、マゼランの義兄弟バルボーサと15人の武装した男たちが乗り込むと、ビクトリア号は抵抗することなく降伏し、制圧できました。そして直ちに、マゼランはサンティアゴ号・ビクトリア号・トリニダード号の3隻でサン・フリアン湾の出口を封鎖して、反乱船2隻の逃亡を防ぎました。
(サン・アントニオ号後任の船長) メスキータはマゼランの従弟で、1519/11/20頃カルタヘナ船長の逮捕後にコカがサン・アントニオ号の後任船長に就任。その後、コカが解任されてサン・アントニオ号後任船長にメスキータが就任。1520/4/1真夜中のイースター反乱で、コカ元船長の手引で反乱者30人ほどがサン・アントニオ号を急襲。船長のメスキータは捕えられ、副長のフアン・デ・エロリアーガは抵抗してケサーダに繰り返し突き刺されて、サン・アントニオ号は乗っ取られました。エロリアーガ副長は数ヵ月後に死亡。反乱後、再びサン・アントニオ号船長に就任したメスキータは、1520/10/31(10/21説有)サン・アントニオ号がマゼラン砂州(Magdalen Sound)の探索に出て船隊に戻れなくなり、ゴメスが船長メスキータを幽閉して、独断でスペインへの帰路に就きました。その後、サン・アントニオ号は、1521/5/21スペインへ帰還。メスキータ船長はゴメスに囚われたまま帰国し、帰国後もスペイン当局に囚われるなど、都合3度も鎖に繋がれることになりました。
(トリニダード号乗組、マゼランの奴隷で通訳) エンリケは、1511年から1521年までマゼランに奴隷として仕えたマレー語圏出身の男性で、人類初の世界一周者という説も有。また、マレー語圏で生まれたエンリケは、1513年マゼランの奴隷として、マラッカから西回りでポルトガルに渡りました。1519年からのマゼランの西回りの世界周航に同行したエンリケは、1521年フィリピンのリマサワ島で、自分の母語マレー語が通じる住人と出合いました。この時がまさに、歴史上初めて1人の人間が世界一周を成しとげた瞬間であるという説。エンリケは出生も生年も不詳で、マゼランの1519年の遺書によると、マラッカ生まれ26才であるとしているので、1494年頃にマレー語圏(マラッカもしくはスマトラ)で生まれたと考えられています。マゼランがポルトガル艦隊の一員として東洋に赴任(1505-1513)したなかで、1511年のマラッカ攻略(Siege of Malacca, 1511)の功績でマゼランに与えられた奴隷でした。エンリケは、彼を捕らえたポルトガル人によってキリスト教徒として洗礼を受けており、ポルトガル語名「Henrique」が洗礼証明書に記されています。彼の名はイタリア人ピガフェッタの著作、マゼランの遺書、及びインディアス通商院(Casa de Contratacion "House of Trade")のマゼラン遠征に関する公式文書に記録されています。エンリケという名前は、彼が捕らえられた日が7/13、神聖ローマ皇帝ハインリヒ2世(Heinrich II., 973-1024)の聖名祝日(Name day)であることを意味しています。この日付は、アルブケルケ将軍に率いられたポルトガル人たちがマラッカへの攻撃を開始してから数日のことでした。マゼランは、エンリケをマラッカの先住民であると断定しています。ただ、1519年からのマゼランの遠征船隊に同行したビガフェッタによれば、エンリケは、スマトラ出身であるとされています。ビガフェッタは、エンリケを「Henrich」と書き記しています。エンリケを直接知る者の報告は、マゼランの遺書の他には、エルカノ、ピガフェッタ、マフラ、ジェノヴァ人の航海士アントニオ・デ・ヘレーラ(Antonio de Herrera y Tordesillas, 1549-1626)、ラスカサス神父によるものがあり、またジョアン・デ・バロス(Joao de Barros, 1496-1570)、フランシスコ・ロペス・デ・ゴマラ(Francisco Lopez de Gomara, c1511-c1566)などが、エンリケを奴隷と見なしています。マゼランが1519年に遠征航海に出る前に書いた遺書では、エンリケについて、「私の死去の日以降、マラッカの町の生まれでほぼ26才になる、私の捕虜であり奴隷であるエンリケは、奴隷たるの一切の義務ないし服従から解放され、その後は彼の意のままに行動してよろしい。さらに私の遺産の中から現金で1万マラベディを生活扶助として彼に与えたいと思う。彼がキリスト教徒になったゆえに、また彼が私の魂の平安を祈ってくれるように、私はこの遺産を彼に贈ることを保証する」と書き残しています。マゼランが1521/4/27マクタン島の戦いで戦死した時、エンリケはマゼランと共に戦って負傷しました。これらのことから、マゼランの生前には、エンリケはマゼランに極めて忠実に仕えていたことがうかがえます。エンリケは、マゼランがヨーロッパに帰る時に、またマゼランが東インド諸島への西回り航路を探検する時に、マゼランに従いました。彼は、奴隷兼通訳として、スペインのために良く働きました。マフラは最初の著書で、エンリケのマレー語能力が探検の完成を決定づけるものであったと述べています。マフラは、「マゼランは部下たちに、彼らが目的地に着いたことを告げた。ヘレディアなる船員を上陸させ現地住民を捕らえさせたところ、その住民はマレー語、すなわちマレー半島の言語を解した」と記しています。その島はフィリピンの島で、エンリケの通訳で捕らえた住民はマザウアの先住民だと判りました。マフラはその場所をミンダナオ島であると記しました。ピガフェッタの記録やトランシルヴァーノの聞き取りによれば、マゼランが戦死したマクタン島での戦闘で負傷したエンリケは、船に戻って通訳の仕事を放棄して横になっていました。そこで、マゼランの後を継いだ船隊司令官のマゼラン義兄バルボーサはエンリケに、「主人のマゼランが死んだからといって自由になったと思ったら大間違いだ。スペインに帰ったら未亡人のベアトリス様の奴隷になるのだ。今上陸しなかったら鞭を食らわすぞ」と脅し、エンリケはセブ王の元に遣わされました。戻ってきたエンリケは、セブ王が船隊幹部を歓迎の大宴会に招待していると報告して、1521/5/1にセブ王がスペイン人一行を招いた宴会に参加するも、それは罠で宴会に出席したバルボーザ以下船隊幹部約30人は全員殺されることとなりました。ピガフェッタや同行の乗組員の推測では、エンリケがセブ王と図って、マゼランの死後は自由にするというマゼランの遺書を無視して自分の解放を認めようとしなかったバルボーザに復讐を遂げたのだとしています。その後、エンリケは姿を消して消息は不明。
(セブ島の大酋長、マゼランにラプラプ討伐を頼んだ大酋長) 大酋長フマボンは、最初にカトリック教に改宗した先住民の1人で、スペインのカルロス1世に敬意を表して洗礼名ドン・カルロス(Don Carlos)として、妻たちと腹心の部下のセブアノ族(Cebuano tribesmen)と共に洗礼を受けました。第一夫人ハラ・フマメイ(Hara Humamay)はカルロス1世の母のカスティーリャ王国フアナ女王(Joanna of Castile)に因んでフアナ(Juana)という洗礼名を与えられました。1521/4/14にマゼランがフィリピンに到着した時のセブ島の大酋長で、盟友の印としてマゼランと血盟(Blood compact)を結び、近くのマクタン島のラプラプ酋長の討伐を頼みました。1521/4/27にマゼラン船長が”マグダン島の戦い”で戦死した後、セブ島に戻ってきたスペイン人達を大酋長フマボンが大宴会に招待しました。ところがマラッカのエンリケの手引きで大酋長フマボンは、1521/5/1の大宴会で裏切り、スペイン人達を殺しました(毒殺説有)。1521/5/1に大酋長フマボンは上陸したスペイン人達を歓迎の大宴会に招待し、セラーノとバルボーサなど約30人が出席。食事の終わりごろ武装したセブアノ族が大宴会に入り、スペイン人達を殺害。27人が殺されました。新共同司令官の1人のセラーノは宴会には参加せず生き残るも捕らわれて、スペイン船が停泊している海岸に運ばれ、セラーノは乗組員にセブアノ族に身代金を支払うように懇願するも、スペイン船は港を去り、セラーノは殺されたと推察されました。ピガフェッタはバルボーサとセラーノ亡き後、カルバーリョが友人セラーノの代わりに船隊の指揮をとったと記録しています。
こちらで ・フェルディナンド・マゼラン ・ファン・セバスチャン・エルカノ ・スエズ運河 ・スパイス (香辛料) ・コーヒー (嗜好飲料) 世界遺産の ・ピラミッド (エジプト) ・パルテノン神殿 (ギリシャ) ・姫路城 (日本) をお楽しみください。 ・上記はこちらの文献などを参照させてもらいました。 令和 R.2:2020/6/19 |