・マゼランの大航海の略年表 |
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1517 |
ドゥアルテ・バルボーサがマゼランをセビリアへ招待 |
サンルーカル・デ・バラメダ
スペイン 1988 発行 |
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マゼランがバルボーザの妹ベアトリス(Beatriz)と結婚 |
1519年 |
03/30 |
カルロスI世がメンドーサをマゼラン遠征船隊の会計官に任命 |
04/19 |
エスピノーザがマゼラン船隊の上級幹部に任命され、
セビリア、カディス、パロスなどで、遠征の隊員募集を担当 |
08/10 |
マゼラン隊がグアダルキビル川下りでセビリアを出発 |
09/20 |
マゼラン船隊が5隻の船隊でサンルーカル・デ・バラメダを出帆 |
09/26 |
カナリア諸島テネリフェ島に到着、補給で停泊。マゼランが義父ディオゴ・バルボサから秘密の手紙を受領。カスティーリャ人船長の一部(サンアントニオ号カルタヘナ船長の陰謀説)が反乱を計画と警告、ポルトガル国王がカラベル艦隊2隻を逮捕に派遣を知る |
10/03 |
テネリフェ島出帆 |
11/20 |
頃、サン・アントニオ号のカルタヘナ船長が逮捕され、コカが後任の船長となる |
11/29 |
ブラジルのサント・アゴスティーニョ岬(Cape St. Augustine)を望見 |
12/13 |
リオデジャネイロ湾(Santa Lucia Bay:Rio de Janeiro Bay)に進入、上陸 |
12/20 |
ソドミー裁判でサラモン甲板長が絞首刑、見習水夫ジノベス船外板上歩行刑で落下死 |
12/27 |
リオデジャネイロを出帆 |
1520年 |
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01/10 |
ラプラタ川河口(河口部が全幅約270kmの三角江)到達 |
01/12 |
リオ・デ・ラ・プラタ(Rio de la Plata, 290km)川へ進入 |
02/27 |
バイーア・デ・ロス・プラトス(Bahia de los Platos)湾へ進入 |
03/31 |
アルゼンチンパタゴニアのサン・フリアン湾に到着、プエルト・サン・フリアンで越冬準備 (現アルゼンチンのサンタクルス州パタゴニアの自然港) |
04/01 |
イースター反乱、勃発 |
04/02 |
反乱者メンドーサが殺害されてヴィクトリア号が奪還され、反乱鎮圧 |
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後任の船長に、サンアントニオ号はメスキータ、ビクトリア号はバルボーサが就任 |
04/07 |
反乱者ケサーダを処刑 |
7月 |
パタゴニアの巨人(テウェルチェ族(Tehuelche)か?)と遭遇 |
07/17 |
サンティアゴ号が南方偵察のためサン・フリアンを出帆 |
08/05 |
サンティアゴ号がサンタクルス川(Rio Santa Cruz, 385km)を発見、投錨 |
08/10 |
頃(5/3説有)、サンティアゴ号がサンタクルス川河口からの脱出を試みるも、嵐で難破、犠牲者一人を除き全員助かり生還者が徒歩でプエルト・サン・フリアンへ帰着、
サンティアゴ号船長セラーノがコンセプシオン号の船長となる |
マゼラン海峡の地図
チリ 1944/3/2 発行 |
08/11 |
反乱者カルタヘナをパタゴニア陸地に放置、置き去りの刑 |
08/24 |
4隻がサン・フリアンを出帆、
サンタクルス川を目指して太平洋への通路を探索 |
09/20 |
マゼラン海峡の発見説有 |
10/18 |
船隊がサンタクルス川を出帆 |
10/21 |
ビルへネス岬(Cape of the Eleven Thousand Virgins,「1万1千人の処女」岬)に到達、未知の海峡(現マゼラン海峡)へ進入 |
10/31 |
(10/21説有)サン・アントニオ号がマゼラン砂州(Magdalen Sound)の探索に出て船隊に戻れなくなり、ゴメスは船長メスキータを幽閉して独断でスペインへの帰路に就く
その後、サンアントニオ号は、1521/5/21スペインへ帰還 |
11/20 |
3隻ビクトリア号・トリニダード号・コンセプシオン号がマゼラン海峡を通過、太平洋へ |
11/28 |
チリ南部、太平洋岸のデシアド岬(Cabo Deseado)を望見 |
1521年 |
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01/28 |
長い航海の後、無人島に接近
マゼランはサンパブロ島と命名(クック諸島プカプカ環礁と推定)、停泊 |
02/04 |
サン・パブロ島(フリント島、San Pablo Island:Vostok Island or Flint Island)出帆 |
02/05 |
ビクトリア号の見習い水夫アヤモンテとサルダーニャがティーモール島沖で脱走 |
03/06 |
マリアナ諸島のグアム島に到達、チャモロ族と遭遇、ラドロネス(Ladrones:泥棒)諸島と命名 |
03/16 |
太平洋を横断航海してフィリピンに到達、スルアン島に向かい、休息のため数時間投錨
スルアン島は東サマル州の小島で、ホモンホン島(同州)に移動、投錨 |
03/28 |
リマサワ島でフマボン島王のコランブ王(Rajah Kolambu)船隊に見つかる
後にその招きでセブ島へと案内される(4/7) |
03/31 |
フィリピン初のミサをリマサワ島で挙行 |
04/07 |
フマボン王の招きでセブ島へと案内され、セブ王国(Rajahnate of Cebu, 1400頃-1565)に到着
そこの住民は友好的でも、マクタン島の王ラプラプは反抗的 |
04/27 |
マクタン島の戦いでマゼラン総司令官が戦死
セラーノとバルボーサが後任の共同船隊司令官に選出され、
アフォンソ・デ・ゴイスがビクトリア号の新船長に就任 |
05月 |
ポルトガル艦隊7隻がマゼランの逮捕のためティドーレ島に到着 |
05/01 |
セブ王ラジャ・フマボンの大宴会でバルボーサ他、30人が殺される(アフォンソ・デ・ゴイスも)、3隻はすぐに出帆(セラーノは囚われて後に殺される) |
05/02 |
セビリアから出帆した277人のうち108人が生存するも人員不足で、
3隻の維持が困難となり、害虫損傷のコンセプシオン号をボホール島で焼却処分後、
主任航海士カルヴァーリョがトリニダード号船長に就任して新船隊司令官となり、
エスピノーザがビクトリア号の船長に就任、船隊はミンダナオ島を目指してセブ島を出帆 |
09/21 |
カルヴァーリョの不正疑惑で船隊司令官がアントニオ・メンドーザに交代、
エスピノサがトリニダード号の船長に就任、
エルカノがビクトリア号の船長に就任 |
09/30 |
エスピノーサがスパイス諸島への航海を続けるよう手配、
ボルネオ島ブルネイを目指しミンダナオ島を出帆 |
11/7 |
両船がモルッカ諸島に到着 |
11/8 |
両船がモルッカ諸島チドール島(Tidore)に停泊
チドーレ島の王アルマンゾール(Almanzor)に交易の許可を求める |
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交易で商品(布、ナイフ、ガラス製品など)と引き換えに大量のクローブを購入 |
12/15 |
両船はクローブを積んで出発準備をする |
12/18 |
トリニダード号が水漏れし、検査で問題が深刻であることが判明、
修理のために残留後、東回りで帰国を目指す |
12/21 |
エルカノ指揮下のビクトリア号がチドール島を出帆、西回りでスペインへの帰国を目指す |
1522年 |
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01/25 |
ビクトリア号がティモール島に到達し、インド洋に出てインド洋横断を開始 |
04/06 |
トリニダード号エスピノーザ船長がクローブ50トンを積んで
東回りの帰国を目指してチドーレ島を出帆してパナマのダリエン行きを目指す |
04/16 |
トリニダード号がマリアナ諸島(グアム島?)到達、3人が行方不明となり北東に向い
嵐や壊血病などで30人が死亡、最終17人だけとなり、
5/19頃(4/16から5週間後)、ダリエン行きを断念して引き返す |
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7/15頃(引き返し後2ヵ月)、トリニダード号は嵐に巻き込まれる |
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9/5頃(出帆約5ヵ月後)トリニダード号モルッカ諸島チドーレ島に沈没寸前で到着
チドーレ島でポルトガル艦隊の武装隊は、帆船の帆もロープも無い沈没寸前の
トリニダード号と瀕死の乗組員を発見して拿捕、17人が捕虜になり
エスピノーサ船長がポルトガルに救助を要請してテルナテ島に移送され、
5ヵ月間(1923/2/5頃)拘留される(4人だけがヨーロッパに帰国) |
05/22 |
ビクトリア号が喜望峰を望見、回航 |
07/09 |
ビクトリア号で飢餓により20人目が亡くなり、
ポルトガル領カーボベルデ諸島サンティアゴ島に到着 |
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ビクトリア号の乗組員13人が食料を購入しようとしてポルトガル人に捕らえられるも
ビクトリア号は26トンのスパイス(クローブとシナモン)の貨物を積んだまま脱出 |
09/06 |
エルカノ船長ビクトリア号がサン・ルーカル・デ・バラメダに帰還、最初の世界一周 |
09/08 |
ビクトリア号の乗組員がセビリアに到着して世界周航を完遂 |
1523年 |
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02月 |
エスピノーサ船長らはバンダ諸島に移送され、4ヵ月間拘留
そこからジャワ島へ移送、その後マラッカに移送される(2年間拘留) |
1524年 |
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11月 |
エスピノーサらはインドのコーチンに移され、4ヵ月間拘留される
エスピノーサと残った少数がジョアン3世結婚の恩赦でリスボンへ移送される |
1526 |
エスピノーサら4人がリスボンに到着、7ヵ月間拘留される |
1527 |
エスピノーサがリスボンで釈放される。 |
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※日付:異説有
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