切手で綴る スペインの大航海 (Adventure Voyage)西回りインド大航海(1-11

★エルカノ物語

第1章
第2章
第3章

Spain

国連 1988 発行
第1章 出帆
エ ル カ ノ
1519
世界一周航海に出帆


大航海物語
  スペイン編

ESPANA
ファン・セバスチャン・エルカノ、世界1周航海

2000年紀記念のミレニアム切手 (風刺画)
スペイン 2001 発行

ESPANA
エルカノ、地球の図、ビクトリア号
エルカノ
スペイン 1976/5/1 発行
地球の紋章
地球の図に
”Primus circumdedisti me”
「我一周せし最初の者」
という文字を配した紋章

URUGUAY
マゼランとエルカノの世界一周航海地図
1520年マゼラン海峡を発見


1519 エルカノとマゼランの世界一周航海500年記念 2019
ウルグアイ 2019 発行












南アメリカ→



マゼラン海峡→
Grenadines of St.Vincent
エルカノの航海地図 ( 1519-1522年の線






←スペイン




アフリカ




希望峰
1788 アメリカ合衆国憲法200年記念 1988
グレナディーン・セント・ヴィンセント 1988/1/11 発行

エルカノはマゼランの後継者として
世界一周航海を、世界最初に成し遂げた船乗り


エルカノはマゼランの世界一周航海に同行して、南米マゼラン海峡を通過、太平洋を西へ横断してフィリピンに到着しました。そして・・・・・

ファン・セバスチャン・エルカノ (1476〜1526/8/4)
  Juan Sebastian Elcano

エルカノ船長はスペインのバスク地方ギブスコア地域ガタリア村(Guetaria, Guipuzcoa, Basque)で生れました。幼い頃のことは定かではありませんが、若い頃には冒険野郎だったようで、当時スペインと関係の深かったイタリイに行き、ゴンサロ・フェルナンデス・ド・ゴルドバ将軍(Gonzalo Fernandez de Cordoba, 1453-1515、別名エル・グラン・カピタン:El Gran Capitan、英:The Great Captain)のもとで、イタリア戦争(Italian Wars 1494-1559)を戦いました。1509年に33才でシスネロス枢機卿(Francisco Jimenez de Cisneros, 1436-1517)が組織したアルジェリア首都アルジェ遠征隊(Campaign against Mers El Kebir, Algiers:メルス・エル・ケビール)に参加。その後、セヴィリア(Seville, Andalusia, Spain)に落ち着いて、商船の船長になりました。借金のかたに船をジェノヴァ(Genoa, Liguria region, Italy)の銀行に差し押さえられて投獄されるところを、マゼランの探検隊に航海士(Navigator officer)として参加する契約をして、スペイン国王カルロス1世の恩赦を受けて許されました。

エルカノ船長はスペイン人なので、マゼランが1519/9/20に5隻の船隊と265人の乗組員を率いてスペイン・アンダルシア地方カディス州グアダルキビル川河口のサンルーカル・デ・バラメダ港(Sanlucar de Barrameda)を出帆した時に、マゼランが外国人(ポルトガル人)だったので、信頼できず反抗的であったと言われていますが、43才で下級士官で航海士の一人として契約どおり乗り組みました。

ところがマゼランへの反乱(イースター反乱)が起きてそれに加わりましたが鎮圧されてしまいました。その後、エルカノ船長はマゼランに許されて、コンセプシオン号の船長に抜擢されました。1520/9/20にマゼラン海峡を発見、トリニダード号(110t)、コンセプシオン号(90t)、ヴィクトリア号(85t)の3隻が通過し、南太平洋の横断という偉業を成し遂げ、1521/3/17にフィリピンのレイテ湾内のサマール島南のオモンオン島に上陸しました。その後一行はセブ島に向かい住民の服従策に失敗し、1521/4/27にマゼランは”マクタン島の戦い”で 「ラプ・ラプ」と交戦中に戦死しました。 マクダン島の場所地図

フィリピン 1994 発行

参考HP:〜
 ・スペインの地図
 ・バスク地方の場所地図
 ・ギブスコア地域の場所地図
 ・ガタリア村の場所地図
 ・アルジェの地図(日本語)
 ・サンルカル・デ・バラメダの場所地図
 ・ポルトガルの地図
 ・ジェノヴァの場所地図







★エルカノ物語

第1章
第2章
第3章
第2章 世界一周
エルカノ
1522
世界一周航海を達成


スペイン★

COOK ISLANDS
エルカノ船長 と ビクトリア号

Juan Sebastian de Elcano 1520
クック諸島 1975 発行
NORFOLK ISLAND
エルカノ船長、乗船ヴィクトリア号

1521年の太平洋の航海地図
Early Pacific Exploerers

ノーフォーク島 1994 発行

CISKEI ANGOLA
エルカノ船長

アンゴラ 1999 発行
世界最初のマゼラン世界一周航海
エルカノ単独の航海地図(赤線)



トリア号




マゼラン
シスカイ 1993/5/19 発行

PILIPINAS
マゼランの世界一周航海の後に描かれた世界地図
1570年の”オルテリュウス”の世界地図(古地図)


1522  マゼランの世界一周航海480年記念  2002
フィリピン 2002 発行


UGANDA
世界一周航海の前の世界地図
マルテルス世界地図の全図、1490


1492 コロンブスのアメリカ発見500年記念 1992
ウガンダ 1992/7/24 発行

REPUBLIK INDONESIA
喜望峰回り) 現在の航海地図 (スエズ運河回り) 赤丸がモルッカ諸島付近図

(Jakarta-Amsterdam Spice Race)
インドネシア 1980 発行

エルカノはマゼランが”マグダン島の戦い”で戦死した後、ヴィクトリア号の船長となり残りの生存者17人と共に1522年スペインに帰着して世界一周を成し遂げました。

エルカノ船長は主だった指揮官を失った中で、マゼランの後継者として生き残った仲間を励まし、ただ一隻残った帆船ヴィクトリア号の船長となりました。その後、香料諸島(モルッカ諸島)に向かい、1521/11/8にモルッカ島に到着、そこで香料を、あふれんばかりの満載状態に積荷したのち、フィリピンを離れ西に進みインド洋を抜け、1522/3/18に南インド洋の”ル・アムステルダム島”を発見するも名前は付けずに、喜望峰を回って、アフリカ西海岸沿いに北上、1522/7月にポルトガル領のカーボ・ヴェルデ島に水も食料もほとんど無い状態で到着しました。自分達はヌエバ・エスパーニャ(新大陸のニュースペイン、現メキシコ)から来たんだと嘘をついてごまかし、補給を受けた後、順風に乗って出帆しました。そしてスペインに直行、1522/9/6にエルカノと生存者17人だけが出発したサンルーカル・デ・バラメダ港に、モルッカ島を出帆してから、実に10ヵ月(サンルーカル港からでは約3年)もの航海の後に帰港しました。

エルカノとその一行(17人)こそが人類最初の世界周航を成し遂げた人達なのですこの世界一周航海によって地球が丸い事や日付に一日のずれがある事が実証されました。持ち帰った香料・スパイスを売って大金持ちとなりました。国王カルロス1世はエルカノの世界一周航海の功績に対して、地球の図に「Primus circumdedisti me ”ラテン語“ 我一周せし最初の者」という文字を配した紋章を与えました。上記のスペイン切手の図案に描かれています。

・寄港地:〜(Δ:望見)
日 付  メ モ
1519年
8/10 マゼラン一行がセビリアを出発 セビリアの場所地図

スペイン 1988 発行
9/20 マゼラン船隊サンルーカル・デ・バラメダ港を出帆
9/26 カナリア諸島テネリフェ島に到着
10/03 テネリフェ島を出帆
Δ 11/29 ブラジルのサント・アゴスティーニョ岬付近到達
12/13 リオ・デ・ジャネイロ湾進入、上陸
12/27 リオデジャネイロ湾を出帆
1520年
1/10 ラプラタ川(Rio de la Plata, 290km)に進入(河口部が全幅約270kmの三角江)
1/12 リオ・デ・ラ・プラタを出帆
2/27 バイーア・デ・ロス・ポラトス(Bahia de los Platos)湾に進入
3/31 サン・フリアン湾(Bahia de San Julian)のサン・フリアン港(Puerto San Julian)で越冬を開始(現アルゼンチンのサンタクルス州パタゴニアの自然港)
4/01 ビクトリア号・コンセプシオン号・サンアントニオ号で反乱(イースター反乱
4/02 反乱者メンドーサが殺害されてヴィクトリア号が奪還され、反乱鎮圧
後日、ケサーダを処刑、カルタヘナを陸地に放置
7月 パタゴニアの巨人(テウェルチェ族(Tehuelche)か?)と遭遇
7/17 サンティアゴ号が南方偵察にサン・フリアンを出帆
8/05 サンティアゴ号がサンタクルス川を発見し、投錨
8/10 頃、サンティアゴ号がサンタクルス川河口からの脱出を試みるも、嵐で難破
犠牲者一人を除き全員助かり生還者が徒歩でサン・フリアンへ帰着
8/24 船隊がサン・フリアン出帆、サンタクルス川へ マゼラン海峡の地図

チリ 1944/3/2 発行
10/18 船隊がサンタクルス川を出帆
Δ 10/21 ヴァージェネス岬(Cape Virgenes、ビルへネス岬(1万1千人の処女岬説有)到達、未知の海峡(現マゼラン海峡)へ進入
10/31 サンアントニオ号がマゼラン海峡の探索に出て艦隊に戻れなくなり、ゴメスは船長メスキータを幽閉して独断でスペインへの帰路に就き、1521/5/21スペインに帰還
11/20 ビクトリア号・トリニダード号・コンセプシオン号が
マゼラン海峡を通って太平洋へ向かう(通過)
Δ 11/28 チリ南部、太平洋岸のデシアド岬(Cabo Deseado)を望見
1521
Δ 1/21 クック諸島のシャーク島(プカ・プカ環礁、Sharks' Islands:Puka-Puka)に接近
1/28 マゼランはサンパブロ島(San Pablo Island)と命名、数日停泊
Δ 2/04 サン・パブロ島(フリント島、San Pablo Island:Vostok Island or Flint Island)出帆
3/06 ラドロネス島(Ladrones Islands、グアム島)に到達、チャモロ族と遭遇
3/16 マゼラン船隊がフィリピンに到達
スルアン島(Suluan、東サマル州(Samar)の小島)で休息のため数時間投錨
3/17 ホモンボン島(Homonhon、東サマル州)で投錨
3/28 リマサワ島でフマボン島王のコランブ王(Rajah Kolambu)船隊に見つかる
後にその招きでセブ島へと案内される(4/7)
3/31 フィリピン初のミサをリマサワ島で挙行
4/07 セブ島(Cebu)のセブ王国(Rajahnate of Cebu, 1400頃-1565)に到着
4/27 マクタン島(Mactan)の戦いでマゼランが戦死
後任の船隊司令官(共同)にセラーノバルボサが投票で選出される
5/01 セブ王ラジャ・フマボンの宴会でバルボーサ他、27人が殺される
(共同船隊司令官選出と同時にビクトリア号新船長になったアフォンソ・デ・ゴイスも)
3隻はすぐに出帆、セラーノは囚われて後に殺される
5/02 人員が減り、3隻の維持が困難で害虫による損傷が進んだコンセプシオン号を焼却してビクトリア号とトリニダード号となり、エスピノーサがビクトリア号の船長に就任、船隊司令官にはカルヴァーリョが就任
ミンダナオ島とブルネイを目指して出帆
9/21 船隊司令官がカルヴァーリョからエスピノーサに交代
エルカノがビクトリア号の船長に就任
11/08 2隻の船隊がモルッカ諸島のチドーレ島(Tidore)に到達
12/21 エルカノ指揮のビクトリア号がスペインへの帰還を目指してモルッカ諸島を出帆
喜望峰へと西へ帆走を開始、トリニダード号は修理でティドーレ島に残留
12/29 ビクトリア号がアンボン島(Ambon Island)到達
1522年
1/25 ビクトリア号がチモール島(Timor)到達、インド洋に出てインド洋横断を開始
3/18 ビクトリア号が南インド洋で”ル・アムステルダム島”を発見
4/06 トリニダード号がエスピノーサの指揮でモルッカ諸島を出帆し、スペインへの帰還を目指して東へ航海を開始、5週間後エスピノーサは嵐と飢餓でモルッカ諸島へ引き返すことを決め、モルッカ諸島に沈没寸前で着くと、アントニオ・デ・ブリト(Antonio de Brito)率いるポルトガル艦隊に救助同然に拿捕され、17人が捕虜になり、エスピノーサ船長がポルトガルに救助を要請してテルナテ島に移送され、 5ヵ月間(1923/2/5頃迄)拘留される(4人だけがヨーロッパに帰国)
Δ 5/19 ビクトリア号が喜望峰を通過、大西洋に出る
7/09 ビクトリア号がカーボ・ヴェルデ諸島のサンティアゴ島に到達
9/06 エルカノ指揮下のビクトリア号がサンルーカル・デ・バラメダ港に帰港
同港を出帆した1519/9/20からあと2週間で3年目となる長大な航海の末の帰還
9/08 ビクトリア号の乗組員がセビリアに到着して世界周航を完遂。
※日付:異説有。

・ヴィクトリア号の装備:〜
  Victoria
(Santa Maria de la Victoria)、1519年マゼラン船隊
船 型 スパニッシュ・キャラヴェル(Carrack)  エルカノ と ビクトリア号

クック諸島 1975 発行
帆 柱 3本マスト
全 長 ?m
全 幅 ?m
重 量 85屯
武 装 砲?門
乗組員 43人
進 水 スペイン、Trianaの教会に因む名
最 後 1522年、スペインに香料満載で帰港
"Triana"はセビリア(Seville)のトリアナ地区(Triana District)にある。
・なお、ヴィクトリア号は90トンだったという説も有。

<生還した18人>
※出発時には5隻の船隊に265人が乗組
※1522/9/7帰着(日付に1日の誤差有)
※サンルーカル・デ・バラメダ港には帰還者を記した記念碑(レリーフ)が有。
氏  名 出 身 地 役  職 メモ
フアン・セバスティアン・エルカノ
 (Juan Sebastian Elcano)
スペインのガタリア 船長
フランシスコ・アルボ
 (Francisco Albo)
ギリシャのヒオス島 航海士 トリニダード号甲板長
ミゲル・デ・ロダス
 (Miguel de Rodas)
イタリアのロドス島 航海士
フアン・アクリオ
 (Juan Akurio)
スペインのベルメオ 航海士 コンセプシオン号甲板長
アントニオ・ピガフェッタ
 (Antonio Pigafetta)
イタリアのヴィチェンツァ 通訳兼地図製作者
アントニオ・フェルナンデス・コルメレーロ
 (Antonio Fernandez Colmerero)
スペインのアヤメンテ 通訳
マルティン・デ・ユディシプス
 (Martin de Judicipus)
イタリアのサヴォーナ 監査官
フェルナンド・デ・ブスタマンテ
 (Fernando de Bustamante)
スペインのメリダ 理髪師
ハンス・デ・アガン
 (ハンス・デ・アガン)
ドイツのアーヘン 水夫
ニコラス・デ・ナポレス
 (Nicholas de Napoles)
ギリシャのナフプリオ 水夫
ミゲル・サンチェス・デ・ロダス
 (Miguel Sanchez de Rodas)
イタリアのロドス島 水夫
フランシスコ・ロドリゲス
 (Francisco Rodriguez)
スペインのセビリア 水夫
フアン・ロドリゲス
 (Juan Rodriguez)
スペインのウエルバ 水夫
ディエゴ・ガリェゴ
 (Diego Galliego)
スペインのバイヨーナ 水夫
フアン・デ・アラティア
 (Juan de Arratia)
スペインのビルバオ 見習い水夫 最初からビクトリア号に乗船
ヴァスコ・ゴメス・ガリェゴ
 (Vasco Gomez Galliego)
スペインのバイヨーナ 見習い水夫
ファン・デ・サンタンデル
 (Juan de Santander)
スペインのクエト 見習い水夫
フアン・デ・スビレタ
 (Juan de Zubileta)
スペインのバラカルド 見習い水夫 最初からビクトリア号に乗船
※航海士(Pilot)、甲板長(ボースン:Boatswain)、水夫(Sailor)、見習い水夫(Cabin boy)。

参考HP:〜
マゼランとエルカノの航海地図       2006/9/15、07/2/20、令和 R.2:2020/6/15






★エルカノ物語

第1章
第2章
第3章
第3章 2回目の世界一周
エルカノとカール5世
1525
2度目の世界一周航海に出帆


スペイン★

TERRES AUSTRALES ET ANTARCTIQUES FRANCAISES
ファン・セバスチャン・エルカノ
ヴィクトリア号
アムステルダム島発見457年記念
(Discovery of Amsterdam Island 1522)

フランス領南極地方 1979 発行

ESPANA
カール5世

スペイン 2000/2/24 発行
アムステルダム島を発見
アデリー南極)
アムステルダム島の場所
 
フランスが領有を主張する南極の場所地図
フランス 2001/1/1 発行

1525年スペイン王カルロス1世の命で146人が乗船した7隻の船団で組織されたロアイサ(Garcia Jofre de Loaisa)探検隊に参加して、東インドのフィリピン諸島探検に向け、1525/7/24にスペインを出帆し、エルカノは2度目の世界一周をもくろんでいました。1526年ロアイサや多くの乗組員が海上で、嵐や、栄養失調、壊血病などの病気で亡くなり,、エルカノも1526/8/4に栄養失調で亡くなりました。ウルダネータ(Andres de Urdaneta)と24人の生存者はスペインに帰港することが出来ました。

・モルッカ諸島から西へとスペインに帰る途中、エルカノは南インド洋を航海中の1522/3/22に、ル・アムステルダム島(Amsterdam Island、37°52' S, 77°32 E)を発見しましたが、”ル・アムステルダム島”はオランダのヴァン・ディーメン船長(Anthonie van Diemen, 1593-1645/4/19バタヴィア没)が1633年に再発見して”アムステルダム島”と命名しました。現在はフランス南極テリトリーになっています。

・最初に世界一周をはたしたのは本当はマゼランの通訳として乗り組んでいた奴隷のマライ人マラッカのエンリケだったという説もあり、フィリピンに着いた時にその時点で世界一周を達成していたという説です。

上記のスペイン切手には”Juan Sebastian Elcano”と印刷されていて、
 デル・カーノ(del Cano)というスペイン語の古文の綴りも有。

参考HP:〜
 ・ル・アムステルダム島の地図
 ・アムステルダム島の場所地図
 ・モルッカ諸島付近の地図

こちらで
フェルディナンド・マゼラン
スパイス (香辛料)
コーヒー (嗜好飲料)
世界遺産の
ピラミッド (エジプト)
パルテノン神殿 (ギリシャ)
姫路城 (日本)
をお楽しみください。

上記はこちらの文献などを参照させてもらいました。
  平成 H.18:2006/9/15 追記、07/2/20、12/3/15、13/7/5、17/2/27、令和 R.2:2020/6/16

スタンプ・メイツ
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