Pirates of Caribbian | ||
Jolly Roger |
海賊ジョージ・ローサー船長 1723 カリブ海の海賊 |
大航海物語 ★カリブ海 |
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Turks & Caicos Islands 商船を襲うカリブの海賊船 タークスカイコス 1971/7/17 発行 |
Saint LUCIA 海賊船の襲撃 セント・ルシア 2007 発行 |
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孤島置き去りの刑 タークスカイコス 1971/7/17 発行 |
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イングランド生まれのジョージ・ローサーはイギリスの奴隷船に乗り組んでいましたが、アフリカで過酷な奴隷狩りの長期滞在中に反乱を起こして船を乗っ取り、「無慈悲なジョージ」と呼ばれてカリブ海と大西洋の北米海岸を荒し回った海賊になりました。部下の船長にレベッカ号の海賊エドワード・ロー船長がいました。イギリス軍艦に襲われた、その最期は海賊には珍しい自殺でした。 |
海賊ジョージ・ローサー Pirate George Lowther(生年不詳〜1723) 海賊ジョージ・ローサー船長はイギリスで生まれたということ以外、幼少時代のことは定かではありませんが、ロンドンのスラム街で暮らしていたローサーは、折からのイギリス海外渡航ブームに乗って、一攫千金を夢見て海に出ました。そして、英国アフリカ会社(Royal African Company 1660-1752)のアフリカ航路の船に乗り組み、幸運にも航海士見習い(Assistant Mate)になりました。 ▼奴隷船ガンビア・キャッスル号の航海:〜 ローサーは、あるとき2等航海士(2nd Mate)になり、チャールス・ラッセル船長(Captain Charles Russell)の船団で、乗組員30人の奴隷船ガンビア・キャッスル号(slave ship Gambia Castle)の航海長に抜擢されました。1721/6月にガンビア・キャッスル号が、アフリカの砦が襲撃されて失われた兵員の穴埋めのジョン・マッセイ大尉(Captain John Massey)の補充兵44人の輸送と、アフリカでの奴隷貿易にロンドンのテームス河を出帆しました。アフリカに着くと補充兵を上陸させて、奴隷狩りの獲物の奴隷を船積みしはじめました。ところが、なかなか奴隷が集まらず、数ヵ月も停泊することになりました。そのためアフリカ特有の暑熱と疫病で水夫の多くが熱帯病で次々と命を落としていきました。奴隷狩りが成功して貿易品として「黒人奴隷」を輸送すると、船主や資本家には莫大な利益をもたらしましたが、下っ端の船乗り達には過酷な労働だけで決して儲かることはありませんでした。ラッセル船長は乗組員よりも、積荷の奴隷に気を使う始末でした。 ローサーたち乗組員が長期停泊に苛立っているところに、ラッセル船長が謀反の嫌疑をかけてきたので、乗組員はローサー派と船長派の2派に分裂しました。ある夜、ラッセル船長が上陸している時に、ローサーとマッセイ大尉が反乱を起こして港から船を出帆させました。マッセイ大尉はイングランドに帰ろうとしましたが、ローサーと仲間たちとマッセイ大尉の部下の兵士でさえ反対しました。ローサーは言いました。「英国に帰っても、謀反の罪で捕えられるだけだ。カリブ海で活路を見出そうではないか!」。そしてローサーは仲間から新しい船長に選ばれ、ガンビア・キャッスル号を海賊船デリヴェリー号(Pirate Delivery)に、その名を改めました。 ▼海賊船デリヴェリー号の航海:〜
▼海賊船リヴェンジ号とレベッカ号の航海:〜 ケイマン諸島のグランド・ケイマン島(Grand Caymans)を出帆した海賊船団は、1722/1月に200屯商船グレイハウンド号(merchant Greyhound)、ベンジャミン・エドワード船長(Benjamin Edwards)の船団に出くわしました。ローサー船長はグレイハウンド号に大砲を打って停船の合図をしましたが、相手は片舷一斉射撃で答えてきましたので、戦いとなりました。1時間の追撃船の末に、ついにグレイハウンド号が降伏、海賊どもはグレイハウンド号に乗り移って略奪後、焼き捨てる前に乗組員を鞭打ち拷問し、皆殺しにして船を焼き払いました。そして数隻の船を乗っ取り略奪して捕縛しました。ローサー船長は今や多くの船を従える海賊船長になりました。ガテマラ(Guatemala)では現地人を襲い、船を襲撃。ローサー船長と部下は略奪品をリヴェンジ号(Revenge)に積み替えました。マチグエ湾(Gulf of Matigue)では大型のスループ型船レンジャー号(largest sloop, Ranger of 10 guns and 8 swivel guns)を乗っ取りました。その後、幾多の船を略奪して焼き捨て、数隻を乗っ取って海賊船団に加えました。
▼海賊船レンジャー号の航海:〜 1722年に海賊どもがブレンキラ島(Blanquilla)と呼んだ孤島へと航海し、海賊船団がその人里離れたマチグエ湾(Gulf of Matigue)に停泊して傾船修理(careen)していると、現地人が襲ってきてリヴェンジ号が焼かれました。海賊たちは別の船に逃げ込み、出帆して難を逃れました。 海賊船の襲撃
▼海賊の最後:〜 ローサー船長と手下12人は船長室の窓からこっそりと逃げ出して、島に泳ぎ着き上陸しました。ムーア艦長が25人の追っ手を差し向け、5日後に5人だけが捕縛されましたが、ローサー船長は見つかりませんでした。ムーア艦長は海賊船と捕虜の海賊を連れて出帆。総督府に海賊退治と23人の捕虜を報告しました。その後、ムーア艦長の大規模な捜索の後に、さらに4人を捕えましたが、ローサーと他の3人と小僧は未だ見つかりませんでした。 その後、ついに少しの戦闘の傷跡のあるローサー船長の遺体が発見されました。遺体のそばには短銃(pistol)が落ちていていたので、海賊には珍しくも自らの命を絶ったものとみなされました。捕虜になるよりは死を選んで、自らの頭を打ち抜いた結果でした。海賊の末路は、病死、戦死、絞首刑が当たり前だった当時としては珍しい最後で、「無慈悲なジョージ」(Ruthless George)と恐れられた海賊ローサー船長の哀れな末路でした。その他の逮捕された部下たちは海事裁判所で死刑宣告を言い渡されました。 参考HP:〜 ・カリブ海の地図 ・ホンジュラス湾の場所地図 ・上記はこちらの文献などを参照させてもらいました。 11/8/11 |