Spain 国連 1988 発行 |
切手で綴る スペインの大航海 (Adventure Voyage)西回りインド大航海(1-13)
エステヴァン・ゴメス船長
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大航海物語 スペイン編★ |
PORTUGAL ポルトガルの航海者ゴメス船長 ポルトガル 1990-94 発行 |
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ESPANA ゴメス船長の乗船サン・アントニオ号の同型船 スパニッシュ・ガレオン船 スペイン 1964/7/16 発行 |
COOK ISLANDS ゴメスはマゼラン海峡を通過せず逃亡帰国
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FAKLAND ISLANDS フォークランド諸島 フォークランド諸島 1952/1/2 発行 |
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ESPANA | ||
ラ・アナンシェイド号の同型船 スパニッシュ・カラベル船 スペイン 1964/7/16 発行 |
CANADA |
←グリーンランド ←パフィン島 ←プロビジャー湾 ←ハドソン海峡 ←ラプラドル湾 ←ラプラドル半島 ←ニューファウンドランド ←ケベック |
カナダと付近の地図 カナダ 1981 発行 |
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←アマゾン河 ←ラプラタ河 |
ポルトガル生まれのエステヴァン・ゴメス船長は、1518年にスペインのセヴィリヤ貿易省から水先案内人として要請を受けて、スペインへ移住したポルトガル人の地図製作家、探検家でした。 |
エステヴァン・ゴメス船長 (1483〜1538) Estevao Gomes、(西:Estevan Gomez,葡:Estevao Gomes) エステヴァン・ゴメス船長は北部ポルトガルのポルト(Porto)で生まれました。若い頃はポルトガル船に乗組んで航海していました。 エステヴァン・ゴメス船長の大航海:〜 ・第1回航海(1519〜1521) マゼランの航海でサン・アントニオ号の船長 マゼラン海峡を通過せず帰国 帰国途中でフォークランド諸島を発見 ・第2回航海(1424〜1525) 北方航路の探検にラ・アナンシェイド号の船長 ニューファウンドランド・ラプラドル方面を探検 ・第3回航海(1535〜1538) ペドロ・メンドーザのラプラタ河遠征航海に参加。 1518年にスペインのアンダルシ州セヴィリヤ貿易省(La Casa de Contratacion (The House of Trade)、 Seville)から水先案内人(パイロット)として要請を受けたので、スペインに移り、スペイン王に仕えたポルトガル人の地図製作家、探検家です。1519年にフェルディナンド・マゼランの世界一周探検航海の五隻の遠征船隊での一隻のエル・サン・アントニオ号(El San Antonio)の船長を務めました。 ゴメス船長とマゼランは1519/9/20にマゼラン乗船の旗艦トリニダード号(110t)以下、ゴメス船長乗船サン・アントニオ号(120t)、コンセプシオン号(90t)、ビクトリア号(90t)、サンティアゴ号(75t)の5隻の船に237人の乗組員を乗せてサンルカル・デ・バラメダ港を出帆しました。マゼランは大西洋を横断した後、南アメリカ大陸に沿って南下して行き、1520/1/9ラプラタ河の河口に到着。当時はここが太平洋へと出るための海峡の入り口だと思われており、マゼランはアルゼンチンとウルグアイの間を流れるラプラタ川(Rio de la Plata, 290km)の全ての入り口に綿密な調査を行いましたが、そこは海峡ではなく川であるということがわかっただけでした。落胆したマゼラン艦隊はアルゼンチンのサンタクルス州パタゴニアの天然港サン・フリアン湾(Puerto San Julian, Patagonia, Santa Cruz Province, Argentina)で越冬することに決めましが、絶望的になった船員の間ではマゼランに対する不満が大きくなって、3隻(ケサーダ船長コンセプシオン号、コカ前船長サン・アントニオ号、メンドーサ船長ビクトリア号)が参加する大規模な反乱が起きました。 この反乱はわずか5日間で収束しました。艦隊は1520/8/24に航海を再開、さらに南下を続けましたが、それまでの調査航行中にサンティアゴ号が難破して失われてしまいました。そして1520/10/21に、ついに西の海へと抜ける道を発見しました。これは後にマゼランの名前をとってマゼラン海峡と呼ばれる海峡でした。しかしマゼラン海峡を抜ける途中で艦隊最大の船であったサン・アントニオ号(エステバン・ゴメス船長)が反乱分子の手に落ち、多くの食料を積んだまま本国に向けて逃亡しました。そして、この船は喜望峰に向かう途中でフォークランド諸島(英語名、スペイン語はマルビナス諸島)を発見し、サン・アントン諸島と名付け、1520年に一度到着した地についてはその地を地理学的にはっきりと記述しました。1521/5/6にスペインに帰国し、牢獄にぶちこまれました。その後、エルカノの一行18人だけが生還・帰国して、その航海がどんなに酷かったかを報告したので、ゴメス船長は許されて放免となりました。 後に、ゴメス船長はカルロス1世によって香料諸島へ到達する別の北方ルート、いわゆるパソ・デル・ノロエステ(北方航路)を探検するように命じられました。新造の50tのカラベル船ラ・アナンシェイド号(La Anunciada)に29人の乗組員が乗船して、他の船と船団を組んで、スペイン・ガリシア州ア・コルーニャ県の県都ラ・コルーニャ(La Coruna)港を1524年に出帆し北方航路を選んで大西洋を越え、テラノバ(ニューファンドランド島)のカボット海峡(Cabot Strait)からヌエバ・エスコシア(カナダ・ノバスコシア州、Nova Scotia)のケープブレトン島(Cape Breton Island)に1525/2月に到達し冬を迎えました。マゼラン海峡と少しもかわらぬ難儀な地域であったので、南へと航路をとろうと決心しました。ゴメスはメーン州(Maine)のペノブスコット河(Penobscot River)を航行して進み、ニューヨーク港に寄港し、ハドソン河(Hudson River)に入り、サン・アントニオ河(San Antonio River)と名付けました。そして、ついに1525/8にフロリダに達し太平洋へ抜ける北方航路を発見できませんでしたので、スペインへの帰国を決意しました。 帰国後、彼の探検航海によってもたらされた情報で、フロリダからラブラドールまでの北アメリカ沿岸を描いたほぼ正確な地図が、1529年にディオゴ・リベロ(Diego Ribero)によって「北アメリカ東海岸地図」として発表され、そこは長い間「ティエラ・デ・エステバンゴメス」(Tierra de Esteban Gomez)と呼ばれました。 1535年にゴメス船長はペドロ・メンドーザ(Pedro de Mendoza, 1487頃-1537/6/23)のラプラタ河遠征航海に参加しました。そして、1538年にブラジルのマットグロッソ州からパラグアイの首都アスンシオン南400kmでパラナ河(Rio Parana, 3998km)に合流するパラグアイ河(Paraguay River, 2621km)に上陸・調査中、原住民との小競り合いが起こり戦死しました。 参考HP:〜 ・マゼラン・エルカノ世界一周航海の地図 ・マルビナス(フォークランド)諸島の場所地図 ・ケープブレトン島の地図 ・上記はこちらの文献などを参照させてもらいました。 2008/8/8、令和6年 2024/12/22 |