Spain 国連 1988 発行 |
切手で綴る スペインの大航海 (Adventure Voyage)西回りインド大航海(1-12)
アントニオ・ピガフェッタ 1522 マゼランの世界一周航海で日記を記録 |
大航海物語 スペイン編★ |
ITLIA ピガフェッタとヴィクリア号 イタリア 1992 発行 |
PILIPINAS ピガフェッタとヴィクリア号 フィリピン 2002 発行 |
1570年の”オルテリュウス(Orbis Terraum)”の世界地図(古地図) |
1522 マゼランの世界一周航海480年記念 2002 フィリピン 2002 発行 |
ピガフェッタはマゼランの世界一周航海に同行して、日誌を記録し続けマゼランの戦死後はエルカノと共にスペインに帰国した18人の生存者の一人でした。この記録により日付に一日のずれがあることが実証されました。 |
アントニオ・ピガフェッタ通訳 Antonio Pigafetta (1491〜1534) ピガフェッタはイタリアのヴィチェンツァ(Vicenza)で裕福な家庭に生まれました。貴族の家庭だったともいわれています。青年時代には天文学、地理学と地図作成学を学びました。1500年代の初めにロードス騎士団のガレー船に乗組んでいました。1519年頃には、ローマ教皇のモンセニョル教皇使節(Monsignor Chieregati)とスペインへ一緒に行きました。そしてスペイン・アンダルシア州セヴィリヤ(Sevilla)滞在中に、マゼランが東洋のスパイス(香料)を求めて香料諸島へと船出しょうとして、1518/3/22に17才のカルロス1世スペイン国王から総司令官に任命されたことを知り、ピガフェッタの探究心と冒険心に火がつき、その計画に参加したいと申し込みました。マゼランはピガフェッタの熱意と高額の申込金の支払いを受けて、その世界周航に同行することを許した伝えられています。 マゼランとは最初は確執があったようですが、なんとか彼の信頼を得ることができて、ピガフェッタの翻訳者(通訳:lenguaraz:レンガラス)と地図製作者として旗艦トリニダード号(110t)に乗組むことができました。探検航海旅行の間、ピガフェッタ通訳は探検隊が訪問した場所の地理、気候、植物、動物、住民について多数の資料を収集しました。主にフィリピン・セブ島での言語データの調査・収集のための非常に注意深いメモは、その後の探検家と地図製作者へのかけがえのない資料として役立ちました。ところが、ポルトガルもマゼセランの計画を知り、それを阻止せんとスパイを送り込んできましたので、マゼランはセヴィリヤで購入調達した5隻の船隊を別の港へ回航して準備をすることとなりました。 このようにして、ピガフェッタはマゼランの探検航海に参加し、1519/9/20に5隻の船隊と260人の乗組員と共にアンダルシア州カディス県グアダルキビル川々口のサンルカル・デ・バラメダ港(Sanlucar de Barrameda)を、スパイスと金銀財宝を求めて西回りでインドへと出帆しました。ピガフェッタは乗船すると直ぐに日記を付け始め、一日も休むことなく記録を続けました。 1519/9月中にポルトガルの追跡船隊をかわしてスペイン領のカナリア諸島に寄港し、さらに、彼らは欠乏しかけていた食料と飲料水の補給のためにポルトガル領のカーボヴェルデ(ヴェルデ岬諸島)に寄港・補給しました。そしてアフリカ大陸沿いに南下し、シエラレオーネの沖合いから西へと転舵して大西洋の横断へと航海を続け、11/27に赤道を横断、12/6ブラジルを望見することができました。つらくて長く何の変哲もない航海の上に、赤道直下付近の長期間の航海で水漏れ対策に使用していた防水タールが溶け出して、水漏れを起こす船も出てきましたが、マゼランは航海を止めようとはしませんでした。12月中旬(12/13頃)に南米ブラジル南東部リオデジャネイロ沖を通過し、1520/1/10にアルゼンチンとウルグアイの間を流れるラプラタ川(Rio de la Plata, 290km)に到達し上陸しました。3/30に定住基地(settlement)を建設し”プエルト・サン・ジュリアン”(Puerto San Julian)と名づけました。その頃、コンセプシオン号とヴィクトリア号の船長が反乱を起こしました。すると、もともとポルトガル人であったマゼランに反感を持っていたスペイン人の一味とその同調者が反乱に加わりました。しかし大部分の乗組員が冷静で動かなかったので、マゼランは反乱を鎮圧することができ、上陸して首謀者4人を斬首の刑で処刑しました。ただ、反乱に加担した”エルカノ”はその優れた航海士の手腕とスペイン国王に任命された総司令官マゼランへの忠誠を誓って許され、コンセプシオン号(90t)の船長に抜擢されました。そこに上陸を続けて船隊の修理と補給をしていると原住民の娘と結婚する者もいましたが「涙の別れ」を告げて、太平洋への出口の水路を探して、さらに南アメリカ沿岸を探検しながら南下していると、1520/9/20マゼラン海峡を発見しました。サン・アントニオ号(120t)はあまりの苦難の連続の航海の上にマゼラン海峡の激しい潮流に恐れをなして逃亡し帰国してしまいました。さらにサンティァゴ号(75t)はマゼラン海峡で難破・沈没しましたが、トリニダード号、コンセプシオン号、ヴィクトリア号(85t)の3隻が荒れ狂う海峡を突破、11/28に通過しました。その時に巨人がいて足跡が4インチ(約10cm)あったということを聞いたマゼランはその付近をパタゴネス(Patagones、大きい足、パタゴニアの語源)と呼び、またマゼラン海峡を突破する時に荒れ狂う海峡の両岸で不思議な火の光を見たので、そこをティエラデルフエゴ(Tierra del Fuego、火の土地)と呼びました。 海峡を通過するとそこは穏やかな大海原が続き、その後の航海は嵐に遭わなかったために、この海を太平洋(Pacific Ocean:マール・パチフィコ(Mar Pacifico)平和の海)とマゼランが名づけました。太平洋に入ってからは不毛の無人島等は発見したものの補給が出来ず極度の飢餓と壊血病に苦しめられました。99日目に小島を発見し食料を補給することが出来ましたが、住民の盗癖にあい上陸して焼き討ちをかけて住民7人を殺害し、ラドロネス(泥棒)諸島と名付けました。そこはマリアナ諸島のグアム島だと言われています。 それは1521/3月マゼランがマリアナ諸島に補給のために短期間滞在した時の出来事でした。マゼランは大勢の原住民のチャモロ族が高速で小型の帆をかけたアウトリガーのカヌーを大変上手に操って、マゼランの探検船隊の周りを動き回るのを見て驚きました。マゼランはこの島々を三角帆諸島と呼びましだが後に、チャモロ族を友好的と誤解していたことを知り、盗賊諸島と改めました。マゼランはグアム島西南のウマタック村に逗留したとも伝えられています。 さらに西へと航海して行き、南太平洋の横断という偉業を成し遂げ、1521/3/17にフィリッピンのレイテ湾内のサマール島南のオモンオン島に上陸しました。その後一行はセブ島に向かい上陸しましたが、住民の服従策に失敗しました。 ピガフェッタはフィリピンのセブ島に到着すると原住民の生活などを観察して、フィリピンの言葉を調査・収集し詳しいメモを作成しました。それは”セブアノ語”(CEBUANO WORDS)メモと呼ばれ、フィリピン言語の民俗学的に貴重な手記を残すことになり、この言語に関する初めての文書となりました。 1521/4/27にマゼランは”マクタン島の戦い”で、ラプ・ラプと交戦中に戦死しました。ピガフェッタもこの戦いで傷つきましたが、九死に一生を得て一命は取り留めました。この戦いで多くの戦死者を出した中で、エルカノがマゼランの後継者として、ピガフェッタと共に苦労に苦労を重ねながら生き残った仲間を励まし、帆船ヴィクトリア号の船長となりました。そして生き残りの114人では3隻の船隊は維持できないため、コンセプシオン号をセブ島で乗員不足で焼き捨てました。 その後、香料諸島に向かい、1521/11/8にモルッカ島に到着、そこで香料を、トリニダート号とヴィクトリア号にあふれんばかりの満載状態に積荷しました。するとトリニダート号は香料を積み過ぎて沈没してしまいました。そののちエルカノと一行はヴィクトリア号で、1522/2/11にティモール島を出帆し、1522/3/18に南インド洋の”ル・アムステルダム島”を発見しましたが名前は付けずに、西に進みインド洋を抜け、5/6喜望峰を回って、アフリカ西海岸沿いに北上、2カ月のあいだ全く食料の補給ができず21人が死亡しました。1522/7/13ポルトガル領のカーボヴェルデ(ヴェルデ岬諸島)のサンチャゴ島に水も食料もほとんど無い状態で到着しました。自分達はヌエバ・エスパーニャ(新大陸のニュースペイン、現メキシコ)から来たんだと嘘をついてごまかし、補給を受けましたが、嘘がばれて13人が抑留されました。その後、順風に乗って出帆しました。 その時、ピガフェッタが記録していた日記で船上は水曜日だったその日が、陸上では木曜日だということを知って乗組員一同は驚きました。スペインを出て、西へ西へと向かって進んでいるうちに暦の中から1日が無くなってしまったというわけなのでした。 その後はスペインに直行して1522/9/6にサンルカル・デ・バラメダ港に、モルッカ島を出帆してから実に10ヵ月(サンルカル港からでは約3年)もの航海の後に帰港しました。生還できたのはヴィクトリア号1隻と、エルカノとピガフェッタを含む、たった18人の生存者だけでした。そして、マゼランの航海日誌は失われていましたが、ピガフェッタの日記は世界一周すると日付に一日のずれが出来ることを実証しました。 スペインに帰った一行がこの事実を報告したところ、スペインでも驚きの声があがりました。そしてスペインの歴史家のペーター・マルチルが、この理由を賢者に聞いたところ、「地球が地軸を中心に1日に1回転しているからだ」と説明されました。西へ西へとむかって3年間も航海を続けているうちに、つまり地球の回転と反対の方向に進んでいるうちに、1日を追い越してしまったということなのでした。この時にそれまでとなえられていた「天動説」はまちがいで、コペルニクスの「地動説」が正しく、また地球は丸いことが実証されました。なお、ヴェルデ岬諸島て抑留された13人はまもなくセビリヤに帰ったとも伝えられています。 その後は、西から東の方向に日付け変更線を通過するときは日付を1日戻し、逆に東から西の方向に日付け変更線を通過するときは日付を1日先に進めることになりました。なお、日付変更線は、ほぼ東(西)経180度の所にありますね。 ピガフェッタはスペインの港に着いて積荷のスパイス(香料)が高値で売却され分配が行われると、即座にその分け前の大金を持ってイタリアに帰国し、イタリア語で「航海記」を著しました。それは1525年にパリで一度出版されましたが、その後は18世紀後半までまったく出版されませんでした。その原本は失われましたが、マゼランの奴隷で通訳だった”マラッカ(マレー人)のエンリケ”の助けを借りて1521年にピガフェッタによって記録されたセブアノ(Cebuano)語の資料は現存しています。そして、ピガフェッタの日誌は地球一周の旅の記録を今日に伝える貴重な史料となりました。 ピガフェッタはイタリアに帰国後、一時は マルタ騎士団に加わっていましたが、43才でイタリアで亡くなりました。 参考HP:〜 ・ヴィチェンツァの場所地図(イタリア) ・セヴィリヤの場所地図(スペイン) ・ロードス島の場所地図 ・マルタ島の場所地図 ・サンルカル・デ・バラメダ港 上記はこちらの文献などを参照させてもらいました。 2007/2/20、08/7/7、令和6年 2024/11/23 |