Pirates of Caribbian
Jolly Roger

海賊ウィリアム・キッド船長
1701
海賊キャップテン・キッド、絞首刑となる

大航海物語
 ★アメリカ
GUINE-BISSAU
海賊ウィリアム・キッド船長

ギニアビサウ 2009 発行

Grenada
クェダ・マーチャント号(?)

グレナダ 1998/4/26 発行
Saint Lucia
ジョリーロジャー旗と海賊船の襲撃

セント・ルシア 2007 発行

アドベンチャー・ギャリー号(?)

グレナダ 1998/4/26 発行
Jersey
モカ・フリゲート号(?)

ジャージー 2000/5/22 発行

Nevis
海賊ウィリアム・キッドの処刑、1701


海賊キャップテン・キッドがハンギング
(絞首刑)で、テームス河に晒し者となる

ネヴィス 2000/1/4 発行
Turks & Caicos Islands
ディズニーが描く海賊の末路と宝物

The Fate of Captain William Kidd
ディズニー・アニメの一場面
1955 ディズニーランド30年記念 1985

タークス・カイコス諸島 1985/10/4 発行

ウィリアム・キッドはイギリス生まれ、5才で、アメリカに渡って、イギリス私掠船の船長となり、後に本当の海賊船の船長になりました。そして、キャプテン・キッドとしてその名を轟かせ、スチーブンソンの冒険小説「宝島」のモデルになりました。
ウィリアム・キッド船長 (1645〜1701/5/23)
 William Kidd
   別名:キャプテン・キッド (Captain Kidd)

ウィリアム・キッドはアイルランド・首都ベルファストで生まれたと言われていましたが、その後の研究で、ダンディー (Dundee、スコットランド中央東部のテイサイド州にある港湾・工業都市)で生まれたとされています。ところが、イギリス・スコットランドのグリーノック(Greenock, Scotland)で生まれたなどと言う説もある諸説紛々ですが、最初は私掠船(privateer)、そして海賊船(pirate)の船長となり、キャプテン・キッドの「あだ名」が広く知られた伝説の海賊となって、海洋冒険小説のモデルとなりました。

生い立ち:
キッドは5才の頃にスコットランド国教会大臣だった父親が亡くなると、大西洋を越えて新大陸に渡り、植民地のニューヨーク(New York)に行きました。長じてから、政治家とか有名人と親しくなりました。9年戦争(Nine Years' War 1688-97、ウィリアマイト戦争 Williamite war in Ireland 1689-1691 アイルランドで起こった戦争、ネーデルラント継承戦争 1667−1668、1672−1678)では、キッドはマサチュセッツ(Massachusetts)のニューヨーク地方軍にかりだされて海で闘いましたが、ニューイングランド(New England)海岸で敵フランスの私掠船を拿
ニューヨーク、1660
捕しました。その後、カリブ海での私掠船の活動で、£150(ポンド)を獲得しました。

1年後の1690/2に海賊カリフォード船長(Robert Culliford)に、キッドがカリブ海アンティグア(Antigua)海岸に居た時に、彼の最初のもち舟ウィリアム号(Blessed William)を分捕られました。

1695/12/11にニューヨークの新総督ベルモント伯爵リチャード・コート(Richard Coote, 1st Earl of Bellomont 1698-1701)がロードアイランド海賊(Thomas Tew ?-1695)やジョン(John Ireland)、トーマス(Thomas Wake)、ウィリアム(William Maze)などなどの海賊達をまとめて、フランス艦隊攻撃の隊長にキッドを指名し、キッドは海賊退治を含む私掠船の許可を得る機会を与えられました。必要な資金の5分の4を私掠船のスポンサーとなる貴族たちが出資しました。イングランドではオルフォード伯爵(Admiral of the Fleet Edward Russell, 1st Earl of Orford, PC 1653-1727)やシュルーズバリー公爵タルボット(Charles Talbot, 1st Duke of Shrewsbury, KG, PC (24 July 1660-1718)、ロムニー男爵、ソマーズ提督の一族ジョン・ソマーズ卿(John Somers, 1st Baron Somers, PC, FRS (4 March 1651-1716)などの著名な貴族が出資しました。残り(1/5)はキッドと知り合いだったロバート・リビングストーン大佐が自分の船であるアンティグア号を売り払って出資しました。

新しい乗船となったアドベンチャー・ギャリー号(Adventure Galley 287t 34guns 150crew)は、海賊退治に相応しく、34門の大砲と150人の乗組員を持つ強力な船で、テームズ河を出帆しました。しかし、私掠船としての収入は芳しくなく、豊かな収入を求めて乗り込んだ乗組員たちの不満を和らげ、また自分の投資に見合った利益を求めて、フランス船と海賊船のみの略奪許可しかないにもかかわらず、英国船以外の船なら誰からでも略奪する本当の海賊にになっていきました。航海が進むにつれ、キッドの活動は委任を受けた「私掠船 privateer」というより、「海賊 pirates」活動になりました。

1697/9に喜望峰を回航して、マダガスカル沖合いのモザンビーク海峡を航行中にコモロ諸島近海でコレラ(Cholera、虎列剌)が発生し、マダガスカル島北東岸にあるセント・メリー島に寄航しましたが、三分の一の乗組員を失いました。なお悪いことに新しい船が水漏れを起こしたので、マダガスカル近海航路を離れたため目ぼしい獲物には出会えませんでした。また、海賊の狩場として有名な航海入口の、アラビア半島南西部のイエメンと東アフリカのエリトリア、ジブチ国境付近の海峡で、この海峡で紅海とアデン湾を分け、その先のアラビア海へと続 く、バブ・エル・マンデブ
海峡でも獲物を見つけられませんでした。
そして、ついに、イギリス東インド会社の雇われ坊さん(Saint Ambrose (Edward) Barlow 1585-1641)が同じく襲撃された随伴船(East Indiaman)から目撃したと伝えるところによると、この海域でインド・ムガールのダウ船(Mughal convoy)を襲撃したのが、キッド最初の海賊行為となりました。その後は大した獲物も無く、乗組員の不平が高まり、1697/10/30にキッドはウィリアム・ムーア(William Moore)という砲術水夫と論争して喧嘩になり殺害してしまいました。
インドのダウ船
当時の英海軍法では水夫を船長が殺害した場合は軍法会議が待っていましたので、この事件を切っ掛けにキッドは「海賊として海で一儲けしようと決めた」と伝えられています。

1698/1/30にキッドは商船のクェダ・マーチャント号 (Quedah Merchant、400t) を発見し、相手の警戒を解くため、フランス国旗を揚げて接近し、あいて商船もフランス船であるかのように振舞ったので接舷して略奪しました。ところが、略奪がほぼ終わってからキッドはこの船がイギリス船籍のアメリカ船であることに気がつき、乗員と所有者に船を返すべく相談を持ちかけましたが、相手方乗員は提案を拒絶したので、乗っ取って2隻の船団を率いることにしました。

1698/4/1にキッドとその船団はマダガスカル島に到達。そこでキッドは初めて海賊と遭遇。かつてキッドの副長で、ウィリアム号を盗んだカリフォードが船長に成って、マダガスカル東にあるセント・メリー島(Ile Sainte-Marie)を襲撃していました。その海賊活動している船は強力なモカ・フリゲート号 (Mocha Frigate) でした。キッドは襲撃を決意しましたが、乗員は敵船に震え上がってほとんどの乗組員が謀反を起こし、カリフォード船長のモカ・フリゲート号に合流してしまいました。

わずか13人の乗組員しかキッドのもとに残らず、キッドは帰国を決意。虫食いで水漏れがひどいアドベンチャー・ギャリー号を燃やして破棄し、もう1隻のクェダ・マーチャント号で出帆して、ニューヨーク市に帰り着きましたが、その場で海賊として逮捕され、1699/6/6にストーン刑務所に放り込まれました。その後、イギリスに護送され、海賊行為とウィリアム・ムーアの殺人で起訴され、イギリスの歴史上最も悪名高いニューゲート監獄(Newgate Prison)に投獄されました。裁判(Trial)で全ての罪に対して有罪と宣告されました。
1701/5/23にロンドンで絞首刑にされ、彼の遺体はロンドン・テムズ河の上で吊るされて、海賊に対する警告として放置、晒し者にされました。キッドに出資した貴族たちは、結果的に海賊を支援したことになり、大損をした上に、大恥をかいたと伝えられています。

参考HP〜
・テームズ河(River Thames)の地図
・バブ・エル・マンデブ海峡(Strait of Bab el Mandeb)の地図
・マダガスカル島東のセント・メリー島(Ile Sainte-Marie)の地図
・カリブ海(中央アメリカ)の地図
海賊キッド・晒し者
・晒し者の木Gibbet

・上記はこちらの文献などを参照させてもらいました。        08/8/15、12/7/2、12/7/31、12/8/9

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