Chad 国連 1985 発行 |
切手で綴るアフリカ大陸一周航海シリーズ No.36
チャド共和国 Republic of Chad |
大航海物語 地図編★ |
フォール・ラミ砦→ (ンジャメナ) |
REPUBLIQUE DU TCHAD チャドの地図と国旗 チャド 1961 発行 |
甲虫(スカラベ?) corrizia dubiosa (insecte) |
甲虫のコガネムシ(カナブン?) oryctes boas |
トンボ hemistigma albipunctata |
チャド土漠の住居 チャド 1961 発行 |
チャド 1972 発行 |
チャド共和国 (Republique du Tchad) (英:Republic of Chad) 面積:128.4ku(日本の約3.4倍) 人口:約1,445万人(2015) 首都:ンジャメナ(N'Djamena)、GDP:96億ドル(2016) 民族:サラ族、チャド・アラブ族、マヨ・ケビ族、カネム・ボルヌ族など 言語:仏語、アラビア語(共に公用語) 宗教:イスラム教(54%)、カトリック(20%)、プロテスタント(14%)など 1番切手:1907年コンゴ(Congo)切手に”TCHAD”加刷で発行。 チャドには、700頃から約1000年間栄えたカネム・ボルヌ帝国がありました。西洋によるアフリカ分割以降はフランス植民地帝国を構成するフランス領西アフリカへ、他の西アフリカ地域の大部分と共に組み込まれました。1960年の独立後はサハラ砂漠の南にある諸国の例にもれず、北部のイスラム教徒と南部のキリスト教徒の争いが絶えず、また北に接するリビアの侵略を受けました。 ・チャドの変遷 ・カネム・ボルヌ帝国(Kanem-Bornu Empire, 700-(1380?)-1893) ・カネム帝国(Kanem Empire, 700頃-(1376?)1380) ・ドグワ朝(Duguwa Dynasty, (BC600?)700-1081) ・セフワ朝(Sayfawa dynasty, 1086-1380) ・ボルヌ帝国(Bornu Empire, 1380(1396?)-1893) ・コトコ王国(Kotoko kingdom, 15世紀半ば最盛期-19世紀ボルヌ帝国へ) ・バギルミ王国(Sultanate of Bagirmi, 1480/1522-1897) ・ワダイ王国(Wadai Empire, 1501-1912) ・ワダイ戦争(Ouaddai, 1909-1912) ・フランス領チャド(French Chad, 1900-1960) ・チャド共和国(1960-現在) ・チャド内戦 (Chadian Civil War, 1965-1979) ・チャド・リビア紛争(Chadian-Libyan conflict. 1978-1987) ・ダルフール紛争(War in Darfur, 2003-現在)スーダン西部のダルフール地方で継続中の紛争 ・チャド内戦 (Chadian Civil War, 2005-2010)。 ・チャドの略史:〜 BC600頃、イラク北部のアッシリア帝国(BC2500-BC609)がチャド湖方面に勢力を伸ばす 700頃、チャド湖近くにカネム・ボルヌ帝国が創建し、16世紀まで繁栄 9世紀頃、チャド湖沿岸にサオ族が定住して、優れた鉄器、陶芸を作る チャド湖近くにカネム王国が興る 12世紀、カネム王国はイスラム教に改宗 13世紀前半、カネム帝国がディバレミ王(mai Dunama Dabbalemi、在位1203-1243)下で版図最大になる 帝国基盤の東西南北交易路は延び、サハラ交易路を押さえ、トリポリ、エジプトにまで達する 13世紀、カネムの朝貢国だったボルヌ王国が勢力を伸ばし、カネム王国は衰退 16世紀、ボルヌ帝国スルタンのイドリス・アローマがカネムを占領、支配下に置き、 ボルヌ帝国は西隣のソンガイ帝国(Songhay、1464-1590)の朝貢国となる 同時期にボルヌ帝国の南東にはイスラム教のバギルミ王国、東にはワダイ王国が登場 3つの国は北部のオスマン領への奴隷貿易で富を築くも、互いの勢力争いで衰退 1822、イギリス人ディクスン・デンハムとヒュー・クラッパートンがチャドに到達 1853、トリポリから南下したドイツ人のハインリッヒ・バルトがチャド周囲を含めて探査 1870、トリポリからドイツ人のギュスタフ・ナハティガルがチャドを調査 1871、ナハティガルがチャド湖南西部クカワを拠点にしてチャドを探検調査 1884、ベルリン会議(1884-1885)で、 フランスがリビアより西のアフリカの大半を獲得 ドイツはチャド湖南岸からカメルーンという形で現在のチャドの一部を植民地とする 1883〜1890年にかけて、カネム・ボルヌ帝国、バギルミ王国、ワダイ王国の3ヵ国がスーダンから 進入したラビーフ・アッ=ズバイル(Rabih az-Zubayr, 1842-1900/4/22)に滅ぼされる 1891、フランスは、カネム・ボルヌ王国の保護を口実にチャドへの侵入を開始 1894、ウバンギ・シャリ(1894-1910年、現中央アフリカ共和国)がフランス領なる 1900、後のンジャメナ建設直前にクッセリの戦い(Battle of Kousseri, 1900/4/22)で戦死した 指揮官アメデ・フランソワ・ラミ(Amedee-Francois Lamy, 1858-1900/4/22)に因む フォール・ラミ(Fort-Lamy)をフランスが建設 1900/4/22、クッスリの戦い(Battle of Kousseri, 1900/4/22)勃発 ラビーフ・アッ=ズバイルとフランス間の戦いで ズバイルは戦死し、フランスhs勝利(フランス領チャド(French Chad, 1900-1960)成立) 1909、ワダイ戦争(Wadai War, 1909-1912)、フランスが勝利 1910、フランスはチャドを併合してフランス領赤道アフリカ(1910 - 1958)と改称 1920、正式にフランス領赤道アフリカへ編入され、仏領赤道アフリカ・チャド州が成立し、 現コンゴ共和国首都ブラザヴィルに置かれた総督の支配下となる 1957、自治が認められ、チャド進歩党の党首、ガブリエル・リセットが最初の政府を組織 1958、自治共和国が宣言される 1958、共和国が宣言される 1960/8/11、完全独立 1962、4月にチャド進歩党のフランソワ・トンバルバイが初代大統領に就任 トンバルバイ大統領は、野党の結成禁止と反対派の粛清を行い 同政権はフランス統治時代と同様に南部への優遇を続け、フランス依存の国家経営を続ける 1965/11/1、ゲラ州で納税者の反乱(tax revolt)勃発、死者500人を出しチャド内戦(1965-1979)勃発 1969、北部イスラム勢力はチャド民族解放戦線(FROLINAT)を結成、反政府ゲリラ活動を展開 これに対してトンバルバイ政権はフランスに対して援助を要請 1971、リビアが、FRONLINATに援軍を送り内戦に干渉を始める 1973、リビアがウラン鉱脈のある北部のアオゾウ地帯を占拠 リビアのカダフィーは、その返還要求をチャドが撤回して政治犯を釈放することを要求 要求が満たされればリビア軍の撤退をすると表明し、トンバルバイはこれを受け入れる トンバルバイの独裁政治はエスカレートし、軍人や官僚に対してブードゥー教への改宗を迫り 反発者は容赦なく処刑 1973/9/7、フォール・ラミをアラビア語で“place of rest”を意味するンジャメナと改名 1975/4/13、軍事クーデターで、トンバルバイ大統領は暗殺され すぐに、フェリックス・マルーム将軍を議長とする最高軍事評議会が政権を掌握 マルーム政権はFROLINATとの交渉を始めたものの、 FROLINAT内部はグクーニ・ウェディ派とイッセン・ハブレ派に分裂しており、交渉は進展せず 1978、8月にマルーム大統領が就任 1978、1月にハブレ派はリビア軍の援軍を受けて、戦闘を激化させてチャド北部を制圧する (チャド・リビア紛争(1978/1/29-1987/9/11) 1978、8月にマルーム将軍はハブレを首相として政権内に取り込む 1979、首都でマルーム派とハブレ派の衝突が起きる ナイジェリアなど周辺諸国の調停で、マルームは辞任 1979、11月にウェディ大統領が就任 1979、8月にロル・モハメド・シャワが大統領とする紛争当事者全員が参加した 暫定連合政府の樹立が同意されて事実上、旧FRONLINATを母体とする北部派の政権が誕生 1979、9月にグクーニが大統領に就任(グクーニ政権)、ハブレは陸軍相として政権に加わる 当初から政権内部ではグクーニ派とハブレ派との間に対立が生じる 1980、ハブレ派とグクーニ派で戦闘が始まる ハブレ陸軍相は南部民族と和解し、リビアのカダフィ大佐との距離を置くようになる 1981/11/16、リビア軍がチャドから撤退 リビアのライバルでハブレ陸軍相を擁護するザイール(モブツ大統領)のパラシュート部隊を 先陣とするインター・アフリカ軍がアフリカ統一機構の平和維持軍としてチャドに派遣される 1982/6/7、ハブレ陸軍相が大統領に就任(ハブレ政権)、ハブレ大統領は反対派を残忍なやり方で粛清 グクーニ派はリビアの後ろ盾を得てハブレ派と度々衝突 1983、リビア軍が侵入するとフランスとザイールが政府軍を支援して、リビア軍を押し戻す 1984、9月にフランスとリビアの間で休戦と互いの撤退の合意がなされる 1984年末までにフランスとザイールは撤退を終えるも、リビアはチャド北部の占領を継続 1987、チャド北部内戦のトヨタ戦争(Toyota War, 1986/12/16-1987/9/11)でチャドはリビア勢力の 排除に成功、アフリカ統一機構の調停でリビアとの休戦協定が成立 アオゾウ地帯 (Aouzou Strip) の問題は外交による解決を図ることになる(1994にチャド帰属) 1988、リビアと国交が回復 1989、4月にハブレ大統領の軍事顧問をしていたイドリス・デビの一派はスーダンに亡命 そこで党派愛国救済運動(MPS)を結成し、ハブレ派の攻撃を始める 1990、12月にデビらの軍隊が首都ンジャメナに侵攻、大統領を国外追放、ハブレはセネガルへ亡命 1991/2/28、デビは大統領に就任(デビ政権) 1992〜1993、少なくとも2回のクーデターが計画される、デビ大統領はチャド湖周囲南部の反政府 勢力を弾圧する一方で、民主化に向けて野党や軍部焼直し労働者代表との対話集会を開く 1994、国際司法裁判所がリビアとの国境地帯(幅100km)アオゾウ地帯のチャド帰属権を認める 1996、3月に新憲法を国民投票で採択 1996、7月に大統領選挙で、デビ大統領当選 1997、議会選挙実施、与党のMPSは125議席中63議席を獲得して単独過半数を得るも、 国際選挙監視団から多数の不正を指摘される 1990年代半ばから、デビ大統領は世界銀行とIMFの融資を受け入れ、 経済の再生と政府機能の回復を目指す 2000、世界銀行から融資を受けて、石油パイプラインの建設を開始する 2001、5月に行われた大統領選挙で、デビ大統領は再選を果たすも、 選挙監視団からデビ大統領の不正が多数報告される 2003、10月に南部のドバ(ドバ油田)からカメルーンのクリビ港までのパイプライン1,070Kmが完成 日量10万バーレルの石油生産が始まる 2003/2/26、スーダン西部ダルフール地方で反乱軍ダルフール解放運動がゴロ警察署を攻撃し、 スーダン政府はアラブ系住民民兵組織ジャンジャウィードの地上攻撃を空爆で支援すると、 ダルフール紛争が激化して、20万人とも推定される難民と追撃する民兵組織がチャド国内に 侵入してチャド国内側の治安が悪化(現在も継続中の紛争) 2004、5月に憲法改正で、大統領再選回数制限を撤廃 2005/12/18、チャド内戦が勃発 (2005-2010/1/15)、ダルフールに拠点を置くチャドの反政府勢力が ワダイ州アソニャ県アドレ村(Adre, Assoungha department, Ouaddai Region, Chad)を攻撃 2006/4/13、反政府勢力が首都ンジャメナに侵攻(Battle of N'Djamena (2006))するも、撃退される 2006、5月に野党がボイコットする中で総選挙を実施、デビ大統領が3選を決めるものの、 相変わらず選挙の不正行為が横行。国際監視団ばかりか国内の諸勢力の非難を受け求心力は 低下、国内各地での反政府勢力が伸長する下地を造る 2008、1月までに複数の都市が反政府勢力の支配下に入る 2008/2/2、FUCを含む反政府勢力(UFDD)が首都ンジャメナに侵攻(Battle of N'Djamena, 2008) 2011、4月に大統領選挙、デビ大統領が4選 2016、4月に大統領選挙、デビ大統領5選 2007、10月にはリビアの斡旋でチャド政府と反政府勢力4派間で和平合意が結ばれるものの 間をおかずに決裂 2018、5月に新憲法発布。 ・チャドには2012/9/4以降、首都のンジャメナ特別区と22の州が有
・2008/2/18以前の17州
<チャドの世界遺産> ・ウニアンガ湖群 (Lacs d'Ounianga)、自然遺産、2012年 ・エネディ山地(Ennedi Plateau)の自然的・文化的景観 (Ennedi Massif: Natural and Cultural Landscape) 別名:サハラのエデンの園、複合遺産、2016年。 参考HP:〜 ・チャドの地図 ・アオゾウ地帯の場所地図 (赤色) こちらで ・ブルキナファソ ・コーヒー ・ヴェーゲナー博士 世界遺産の ・ヘンダーソン島 (ピトケーン諸島) ・ヌビア遺跡 (エジプト) ・パルテノン神殿 (ギリシャ) ・法隆寺 (日本) をお楽しみください。 ・上記はこちらの文献などを参照させてもらいました。 2019/1/20 |