United Kingdom 国連 1980 発行 |
切手で綴る 海軍大航海 (Naval Voyage)
ジョン・キリアム大尉 1805 トラファルガーの海戦 |
大航海物語 イギリス編★ |
Isle of Man トラファルガーの海戦 ”戦うヴィクトリー号” |
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キリアム大尉 ネルソン提督 マスト1本を失ったヴィクトリー号 |
戦う放列甲板 |
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ヴィクトリー号の奮戦を描く 切手小型シート 1805 トラファルガーの海戦200年記念 2005 マン島 2005 発行 |
MARSHALL ISLANDS 在りし日のヴィクトリー号の雄姿 1805 トラファルガーの海戦200年記念 2005 マーシャル 2005 発行 |
マン島生れのキリアム大尉は、ネルソン提督艦隊がスペイン無敵艦隊の先鋒の進路を遮断してこれを補足殲滅、コリングウッド提督艦隊が中央と後方のスペイン無敵艦隊を撃破したトラファルガーの海戦で、マストが折られ傷ついたヴィクトリー号を操艦して、イギリス艦隊の勝利に貢献しました。 |
・ジョン・キリアム艦長 (Captain John Quilliam RN, 1771/9/29〜1829/10/10) マン島マローン(Marown)生、同島マイケル(Michael)58才没 ミドル郡マローン区(Marown Parish, Middle Sheading, Isle of Man)生 マイケル郡バロー区カーク(Kirk, Ballaugh Parish, Michael Sheading, Isle of Man)没 配偶者(Spouse) マーガレット・スティーブンソン夫人(Margaret Stevenson) 海軍歴(Years of Service)1791(19才)〜1817(55才) 乗艦歴(Commands held & Captain) ・ヴェネラブル号(Venerable 74gn)戦列艦 ・エタリオン号(frigate HMS Ethalion, 38gn)フリゲート艦 ・アマゾン号(frigate HMS Amazon, 38gn)フリゲート艦 ・ヴィクトリー号(First Lieutenant, HMS Victory 100gn)戦列艦、先任士官、操艦長 ・イルデフォンソ号(HMS Ildefonso 74gn)戦列艦々長 ・スペンサー号(HMS Spencer 74gn)戦列艦々長 ・アレクサンドリア号(HMS Alexandria 40gn)フリゲート艦々長 ・インコンスタント号(HMS Inconstant 36gn)フリゲート艦々長 ・クレセント号(HMS Crescent 36gn)フリゲート艦々長 従軍戦歴(Battles/wars) ・第一次対仏大同盟戦争(War of the First Coalition, 1792/4/20-1797/10/17) ・キャンパーダウンの海戦(Battle of Camperdown, 1797/10/11) ・第二次対仏大同盟戦争(War of the Second Coalition, 1798/11/29-1802/3/25) ・コペンハーゲンの海戦(Battle of Copenhagen, 1801/4/2) ・第三次対仏大同盟戦争(War of the Third Coalition, 1803/5/18-1806/7/18) ・トラファルガーの海戦(Battle of Trafalgar, 1805/10/21) ・米英戦争(War of 1812, 1812/6/18-1815/2/17)別名:1812 年の戦争、など。 キリアム大尉はマン島のバラケリー(Ballakelly)の農夫の父ジョン・キリアム(John Quilliam)と母クリスチャン・クルーカス(Christian Clucas)の長男として1771 年にマン島のマローン区(Marown Parish, Middle Sheading, Isle of Man)で誕生。農業を好まず石工(stonemason)に弟子入りしました。1791年19才の時にキャッスルタウン港(Castletown harbour)で石炭船の船員(collier)として働いているところをイギリス海軍(Royal navy)に強制徴兵(Impressment:Press-ganging)されました。1797年に士官候補生(Midshipman)に昇進し、ダンカン提督艦隊の旗艦ヴェネラブル号(HMS Venerable, 74gn)に乗艦してキャンパーダウンの海戦(1797)に従軍。ダンカン提督の推薦で少尉(Lieutenant)に昇進。その後、フリゲート艦エタリオン号(HMS Ethalion, 38gn)ヤング艦長(James Young)に三等中尉(third lieutenant)で乗艦。1799/10 /7にエタリオン号はスペインの宝船テティス号(Treasure ship Thetis, 36gn) を拿捕し、拿捕に参加したことで、賞金5,000ポンド以上を受け取りました。 1801年のナポレオン戦争中のコペンハーゲンの海戦(1801/4/2)では、リオウ艦長(Edward Riou FRS, 1762-1801/4/2)フリゲート艦アマゾン号(HMS Amazon, 38gn)に乗艦。アマゾン号は浅い喫水(slight draft)で海岸砲台の沿岸砲兵(Coastal artillery)に近づいて大損害を受け、上官の将校が全てが戦死した中、キリアム中尉が指揮を執って大戦果を挙げました。キリアム中尉の勇敢さと冷静さは直ぐにネルソン提督の目にとまり、ビクトリー号がネルソン提督の旗艦として就役した時に提督が要請して、大尉(First lieutenant)に任命されてヴィクトリー号に乗艦しました。
トラファルガーの海戦後にイルデフォンソ号の艦長に昇進しました。74門スペイン戦列艦(Spanish 74gn)を修理でジブラルタルへ曳航してから、1806/5/16にイギリスに到着。その後、フリゲート艦アレクサンドリア号・インコンスタント号・クレセント号の艦長に就任。 1807年にキリアム艦長は、現役の海軍士官であったものの、キーズ議会から議員に招聘されました。1807/12/21にキャッスルタウンでマン島バラドール(Balladoole)出身の有名なマンクス家(Manx family)のマーガレット・スティーブンソン(Margaret Stevenson)と結婚しました。夫婦は「バルコニーハウス」(Balcony House)に居住後、バラケイガン(Ballakeighan)に家族の家を作りました。そしてマン島マリュー教区キャスルタウンのパレード(Parade, Castletown, Malew parish, Isle of Man)にある財産を取得しました。子供はいませんでした。1810 年に海に戻るために議員を辞任しました。 1813/9/18にはクレッセント号艦長でケープロウ沖(Cape Row)にてアメリカ私掠船スクーナー艦エルブリッジ・ゲリー号(privateer schooner Elbridge Gerry, 14gn)を乗組員66人と共に拿捕しました。1815 年にナポレオンがワーテルローの戦いで敗北するまで、英海軍ニューファンドランド基地(Newfoundland Station)で任務に就いていました。 1817年に海軍を除隊すると、マン島に戻って議員として継続するよう再び招聘されました。そして莫大な財産を数多くの資産に投資しました。キリアム艦長の主な趣味は釣りで、自分で設計して装備した小さな漁船を所有していました。1826年に男爵ヒラリー卿(Sir William Hillary, 1st Baronet, 1771-1847)と、難破船救助の王立難破船救命協会(Royal National Lifeboat Institution,1824〜)の地域協会のマン島での創立に尽力し、難破船員委員会の委員長も務めました。さらに、キャッスルタウン近郷のダービーヘイブン港防波堤( Derbyhaven Breakwater)の建設計画を提唱しました。キリアム艦長は1829 年に58才で亡くなり、カーク アーボリー(Kirk Arbory)にあるスティーブンソン家の墓地に埋葬されました。 ・王立救命艇協会 (Royal National Lifeboat Institution、略号: RNLI) 王立救命艇協会は、イギリスとアイルランド周辺の沿岸や海における救命活動を行なう、イギリスとアイルランドのボランティア組織で、1824年に国立難破船救命協会 (National Institution for the Preservation of Life from Shipwreck) として創設され、1854年に現在の名前に変更された。 参考HP:〜 ・マン島の地図(sle of Man、マン島の地図) ・マン島マイケルの場所地図(Michael, Isle of Man、マン島の地図)
・上記はこちらの文献などを参照させてもらいました。 2012/3/15、令和 R.4/11/22(2022)追記 |