Spain 国連 1988 発行 |
切手で綴る スペインの大航海 (Adventure Voyage)アステカ帝国征服(IV-3)
フランシスコ・ド・コルドバ 1524 ニカラガ入植地を建設 |
大航海物語 スペイン編★ |
NICARAGUA コルドバ 1524 ニカラガ入植500年記念 1924 ニカラガ 大正13年 1924 発行 |
MEXICO マヤのカンペチェ・ピラミッド メキシコ 発行 |
ESPANA スペインのカラベル船 スペイン 1964/7/16 発行 |
USA CANAL ZONE コルドバ USAパナマ・カナルゾーン 明治42年 1909 発行 |
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NICARAGUA マヤの陶磁器土偶と古代都市の場所地図 |
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Apoyo |
Catanna |
ニカラグア 1972 発行 |
コルドバはスペインのコンキスタドール(征服者)で、新大陸メキシコ方面の探検航海に赴き、パナマに上陸後、ニカラグアのグラナダに入植地を建設してニカラガの創設者となりましたが、反逆罪の疑いを掛けられて処刑されました。現在のニカラグアの通貨コルドバは彼の名前に由来しています。 |
フランシコ・エルナンデス・ド・コルドバ Francisco Hernandez de Cordoba (1475頃〜1526) コルドバは若くして新大陸インディオスへ渡り、パナマ方面の探検に参加していましたが、1524年ニカラガ湖方面を探検してグラナダ(granada)に入植地を建設してニカラガの創設者となり、さらにレオンにも入植地を建設しました。 コルドバはペドロ・アリアス・ド・アビラ (Pedro Arias de Avila, 1440-1531/3/6) の部下で、バルボアの先任士官として、1513/9月のバルボアによるパナマ探検ダリエン地帯調査航海に同行しました。エルナン・コルテスはクリストバル・ド・オリード(Cristobal de Olid, 1487-1524)の反乱に対処するためにコルドバを支援しました。しかし、コルドバはアビラに裏切られて暴動扇動者、反逆者と見なされ、最終的には1526年に捕らえられて斬首されました。2000年にそれまで何処に埋葬されたか謎とされていたコルドバの遺体がニカラグアのレオンで発見されました。ニカラグアの通貨はフランシスコ・ド・コルドバに因んでコルドバと名付けられました。 ・エルナンデス・ド・コルドバ遠征隊 なお、同姓同名のフランシスコ・エルナンデス・ド・コルドバ(Francisco Hernandez de Cordoba, 1467頃スペインCordoba生-1517キューバSancti Spiritus没)なる人物が、1517/2/8にキューバのサンチャゴ港を3隻の帆船で出帆しました。水先案内人はコロンブスの探検に同行したアラマニノス(Anton de Alaminos)がコルドバの船に乗船し他の2隻にはアルバレス(Juan Alvarez)とトリアナ(Camacho de Triana)が乗船してメキシコの東海岸を探検して、ユカタン半島を発見しました。コルドバは、そこユカタン半島に上陸、現ニカラガでスペイン入植地を建設しました。その後に、メキシコのカンペチェ州チャンポストン(Champoton)近郷で多くの隊員がマヤ族との戦いで戦死し、コルドバ自身も負傷して数日後に亡くなりましたが、これこそヨーロッパ人がユカタン半島を発見した最初なのでした。部下のベルナル・ディアス・デル・カスティリョ(Bernal Diaz del Castillo)が詳しい記録を書き残しました。 その記録によると、フランシスコ・エルナンデス・ド・コルドバ(Francisco Hernandez de Cordoba ?-1517)は、スペインのコンキスタドール(征服者)として、新大陸に渡り、ヨーロッパ人による最初のユカタン半島発見の報告をもたらした1517年の遠征で知られているとなっています。コルドバのユカタン探検以前の経歴についてはほとんど知られていないとあり、1517年キューバに住んでいたコルドバは現状の生活に不満を持つ110人の開拓者と共にキューバ総督ディエゴ・ベラスケスに新しい土地と資源を得るための遠征の許可を求めました。押し問答の末に許可が下り、1517/2/8にコルドバの指揮する3隻の帆船がキューバのサンティアーゴ・ド・クーバを出発しました。遠征隊はユカタン半島への上陸を果たし、マヤ文明を発見しました。しかし、チャンポトンでマヤ人の襲撃にあい、メンバーの多数が死亡しました。コルドバ自身も負傷しましたが、何とかキューバに帰還することができました。しかし、そこで待っていたのはベラスケス総督がフアン・デ・グリハルバを次のユカタン遠征の指揮官に任命したとの知らせだったのでした。落胆したコルドバは、遠征中の負傷と極限の渇きがもとでキューバ帰還の数日後に亡くなりました。 コルドバが遭遇したのはヨーロッパ人が新世界で最初に遭遇したマヤ文明で、それは旧世界(石器時代)のものでした。マヤ文明は巨大な建築物と複雑な社会構造を備えたものでした。この遠征の報告は1518年のフアン・ド・グリハルバの遠征と、そして1519年のエルナン・コルテスの遠征を促し、最終的にスペインによるメキシコの征服につながりました。カスティリョはこの遠征隊のメンバーであり、「メキシコ征服記」にこの時の記録を残しました。 参考地図HP:〜 ・コルドバの航海地図(1517) ・上記はこちらの文献などを参照させてもらいました。 2007/12/25、令和7年 2025/7/20 |