Spain

国連 1988 発行
切手で綴る スペインの大航海 (Conquist Voyage)インカ帝国征服(V-8
べラルカサール
1538
コロンビア・ポパヤン建設

大航海物語
 スペイン編

ESPANA
ベラルカザール

スペイン 1961 発行

ESPANA
新大陸からスペインへお宝を運んだ
スパニッシュ・ガレオン船
Spanish Galeon


スペインから新大陸へは人と物資を輸送
スペイン 1964/7/16 発行
VENEZUELA
グラン・コロンビアの地図

大コロンビア150年記念
ヴェネズエラ 1969/12/16 発行
ECUADOR
南アメリカの地図

エクアドル 1961/2/27 発行

ベラルカザールは成人した頃に新世界に渡り、中米ニカラグア方面で活躍しました。その後、フランシコ・ピサロに従いインカ帝国征服に参加しました。1538年コロンビア征服へと赴き、ボバヤン総督になりましたが、政敵への反論のため帰国の途中で亡くなりました。

セバスチャン・ド・ベラルカサール
 Sebastian de Belalcazar(1479頃〜1551頃)
セバスチャン・ド・ベラルカザールはスペインのアンダルシア州コルドバ県ベラルカサール(Belalcazar, Cordoba, Andalusia)で生まれたといわれています。1507年12才頃イスパニョ−ラ島に渡ってきたとされていますが、この時すでに成人していたとする説も有りますので、生まれたのは1495年よりかなり前だったともいわれています。生まれが貧しく、孤児となって家を出た彼は生まれ故郷の名をとってベラルカサールと名のりました。

彼が何時新大陸に渡ったかは不明ですが、1511年にはパナマのノンブレ・デ・ディオス(Nombre de Dios, Panama)に居て同郷のよしみでかバルボアと行動を共にしたともいわれています。その後ペドラリアス・ダビラの下で中米に出かけニカラグアのレオン市の建設に加わりました。パナマに戻ってからはフランシスコ・ピサロアルマグロらのペルー征服に参加しました。カハマルカでピサロから、ペルー北部に建設されたばかりの居留地サン・ミゲル・デ・ピウラの責任者に任命されました。彼は任地のピウラへ向う途中で、インカ帝国アタワルパの本拠地キトーに財宝が沢山あると聞いてキトーへ直行し、アタワルパの将軍ルミニャウイを倒してキトーへ入城しました。ところが財宝は無く失望しました。1534年ピサロは彼をキトー総督に任命しました。1535年海岸部に港町グアヤギルを建設しましたが、まもなく捨てられ、その後オレリャ−ナによって再建されました。

1538年ピサロから独立しょうと、ベナルカサールは大部隊を編制してインカの勢力圏を越えて、さらに北方へと進みキラシンガ族、バスト族のインディオと戦って勝利し、コロンビア南部に「カリ」「ポパヤン」の2つの町を建設しました。ポパヤンから、さらに進みボカター(現ボゴタ)に着くと、ヒメネス・ド・ケサーダがすでに制圧、領有していました。次いでベネズエラ・コロからニコラス・デ・フェダーマンが到着しました。3人は話し合いましたがベナルカサールとフェダーマンは気が合ったもののフェダーマンがボゴタを独占しょとしたので、話はまとまりませんでした。そこで、3人は1539/5月スペインに帰り、国王カルロス1世の裁断を仰ぎました。ベナルカサールは1540年南コロンビアの統治権を手に入れ、ボバヤン総督として戻って来ました。

ゴンサロ・ピサロが口火を切ったペルー内乱ではペルーへ兵を進めピサロ敗戦の戦いの指揮をとったと伝えへられています。1549年には国王に「老齢にして休息の要あり」と書き送っており、その頃から政敵に「コンキスタドール」として行った事に言いがかりをつけられ色々と罪状を並べられて難儀をし、1551年この問題に反論するため、スペインへ向う途中で、コロンビアのカルタヘナ・デ・インディアスで亡くなりました。64才頃でした。

・上記はこちらの文献などを参照させてもらいました。   令和6年 2024/11/20追記
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