Spain 国連 1988 発行 |
切手で綴る スペインの大航海 (Adventure Voyage)西回りインド大航海(2-2)
ニコラス・ド・オヴァンド 1502 インディアス第3代総督 |
大航海物語 スペイン編★ |
ESPANA 新大陸からスペインへお宝を運んだ スパニッシュ・キャラック船 Spanish Carrack スペインから新大陸へは人と物資を輸送 スペイン 1964/7/16 発行 |
REPUBLICA DOMONICANA 初期のインディアス(イスパニョーラ島) 現在:西がハイチ、東がドミニカ ドミニカ共和国 1900 発行 |
カステリア王国生れで貴族出身のオヴァンドはアルカンタラ騎士団の騎士でスペイン軍人でしたが、国王からヌエヴァ・エスパーニャの総督に任命され、スペインから新大陸へ大航海して渡り、1502年から7年間、西インド諸島のイスパニョーラ島の第3代総督を務めました。 |
ニコラス・ド・オヴァンド総督 Fray Nicolas de Ovando y Caceres(1460〜1518/5/29) インディアス第3代総督 Governor of the Indies:Hispaniola(1502〜1509) オバンド総督はカスティーリャ王国でディエゴ・フェルナンデス・ド・カセレス・イ・オバンド(Diego Fernandez de Caceres y Ovando、?-1487)と、エルナン・コルテスの遠い親戚である第1夫人のイザベル・フローレス・デ・ラス・ヴァリーリャス(Isabel Flores de Varillas) の息子として、カスティーリャ・レオン王国カスティーリャ・イ・レオン州ヴァリャドリッド(Valladolid)の敬虔な貴族の家庭に生まれ、ディエゴ・デ・カサレス・イ・オバンド (Diego de Caceres y Ovando)と名付けられました。オバンドはテンプル騎士団(Order of Templars)と比較され、1156年に設立されたアルカンタラ騎士団(Order of Alcantara)に入隊して騎士(Knight)になり、司令官(Commander-Major)に昇進しました。指揮官として名を挙げたオバンドはスペイン国王フェルナンド2世や特に女王イザベル1世に高く評価されました。 1501/9/3にスペイン王は、西インド諸島のインディアス(Indies、イスパニョーラ島)第2代総督フランシスコ・ド・ボバディリャに対するクリストファー・コロンブスの不満と更迭要請があったので、ボバディリャ総督に代えてオバンドを西インド諸島のインディアス総督(Governor)に任命しました。 1502/2/13にオバンド総督は、新大陸へ向かう過去最大規模の30隻の船隊を組織し、スペイン社会を代表する個人資格の入植者2,500人を乗船させてスペイン各地を出帆しました。そこには、後に南米ペルーを探検してインカ帝国を征服したフランシスコ・ピサロがオバンドの船に乗船していましたし、また別の船には、後に「インディアンの保護者」として知られる18才のラス・カサス神父も乗船していました。1502年に知人であり遠い親戚であったエルナン・コルテスもオバンドと共にアメリカに行く計画でしたが、コルテスが不倫をして人妻の寝室から飛び出して怪我をしたので、その渡航は延期されたと伝えられています。 1502/4/15に、バルトロメ・コロンが1496年にイスパニョーラ島南岸に建設したサント・ドミンゴ港(Santo Domingo)に到着し、直ちに政権を確立し、西インド諸島を経済的に発展させ、スペインの政治的、宗教的、行政的な影響をこの地域に拡大する計画を実施しました。 1502/5/9にコロンブスが4隻、140人で第4回の航海にスペインを出帆し、帰路を除きイスパニョーラ島への寄港は禁じられていましたが、第2回航海とほぼ同じ航路をとって、イスパニョーラ島サント・ドミンゴ港の沖に着き、6/29にコロンブスはハリケーンが近づいているという理由で入港を求めましたが、オバンド総督はそれを断りました。オバンドが乗船してきた船隊がスペインへの帰途へと出帆しょうとしていることを知ったコロンブスは、嵐(ハリケーン)が接近しているため、出帆を1週間遅らせるように知らせました。オバンドはそれを無視して、7/1に29隻の船隊がイスパニョーラ島からスペインのカスティーリャ王国へ向け出帆しました。そしてハリケーンに襲われ大部分の船は大破・沈没し、帰国途中の前総督ボバディリャが遭難して亡くなり、約500人が海の藻屑になりました。この船隊の内でスペインに帰りついたのは、差し押さえられたコロンブスの財産を積んだアグア号だけだったと伝えられています。コロンブスの4隻の船隊(140人乗組、12才の息子フェルナンドも乗船)は、サント・ドミンゴの港には入港できず、小さな入江で嵐の接近をやり過ごしてから、西方のジャマイカ方面へ向かいました。 1502年にオバンドがイスパニョーラ島に到着した時に原住民インディオの反乱が起りましたが、軍隊を差し向けて反乱を容赦なく鎮圧しました。イスパニョーラ島におけるオバンド総督の統治時代は、インディオを最も残酷に扱った時代でもありました。1492年にスペイン人が到着した時の原住民人口は約500,000人と見積もられていますが、15年後の1507年の調査によると、戦闘やヨーロッパ人が持ち込んだ天然痘などの疫病のせいで、その人口は60,000人にまで減少していたと伝えられています。
1501年にオバンドはアフリカ訛のあるスペイン語話者の奴隷を、アメリカへ輸入することを命じました。多くのスペイン人高官達は自宅で召使として少数の奴隷を使役しました。奴隷の多くは砂糖プランテーションの労働に送られました。1509年オバンドは国王フェルナンド2世に呼び出されて、スペインに戻りました。国王はオバンドとの約束を守り、女王イザベル1世の最期を看取ることを許しました。オバンドの後任の総督はディエゴ・コロンブス(Diego Columbus)に引き継がれましたが、オバンドの全ての財産の所有継続は認められました。 1518/5/29に彼はスペインのマドリッドで亡くなり、サン・ベニート・デ・アルカンタラ(San Benito d'Alcantara)教会に埋葬されました。 参考:〜 ・インディアス総督列伝 Governor (Viceroy) Of the Indies(New Spain) ・初 代:クリストファー・コロンブス、在任:1492〜1499 (Christopher Columbus, as governor or viceroy of the Indies) ・第2代:フランシスコ・ド・ボバディリャ、在任:1499〜1502 (Francisco de Bobadilla, as governor of the Indies) ・第3代:ニコラス・ド・オヴァンド、在任:1502〜1509 (Nicolas de Ovando y Caceres, as governor of the Indies) ・第4代:ディオゴ・コロンブス、在任:1509〜1518 (Diego Columbus, as governor of the Indies until 1511, thereafter as viceroy) ・第5代:ディオゴ・ヴェラスケス・ド・クエリャー、在任:1518〜1524 (Diego Velazquez de Cuellar, as adelantado (governor-general) of Cuba)
参考HP:〜 ・ドミニカ共和国の地図(サントドミンゴ市有) ・カリブ海の地図(西インド諸島の地図) ・上記はこちらの文献などを参照させてもらいました。 2010/5/15、令和6年 2024/12/20 |