★ドイツ コンキスタドール(ドイツ人征服者)
アンブロシュウス・エヒンガー総督
1529
マラカイボ市を建設

大航海物語★
VENEZUELA
エヒンガ-総督

1569 マラカイボ市建設400年記念 1969
ヴェネズエラ 1969/9/30 発行
Correos de Colombia
コロンビアの地図

コロンビア 1959-60 発行
ヴェネズエラの地図

ヴェネズエラ 1970-71 発行
Soomon Islands
スパニッシュ・ガレオン船
16th Spanish Galeon


ソロモン 1971/10/7 発行

ESPANA
カルロス1世、1516即位
神聖ローマ帝国皇帝カール5世、1519即位
神聖ロ|マ帝国皇帝に選出される
2000年紀歴史シリーズ
スペイン 2001/10/19 発行




マラカイボ州
コロ市、ファルコン州

ドイツのババリア地方生れのエヒンガーは中世ヨーロッパの大富豪の銀行家ヴェルザー家の命で、ドイツの南米ヴェネズエラ植民地の初代総督となり、大西洋を横断する大航海の後、現地に到着。現地人との戦いに勝利してマラカイボを建設。エルドラード探しの奥地の探検に出かけて、現地人の毒矢に当たり、故国に帰ることもなく、探検の途中のコロンビア奥地で亡くなりました。

アンブロシュウス・エヒンガー (1500〜1533/5/31)
  Ambrosius Ehinger (Ambrosio Alfinger)
  別名:アンブロシオ・フォン・アルフィンヘル(Ambrose von Alfinger)
  生地:ドイツ(ババリア)のバーデン・ヴュルテンベルク州南部ウルム近郷タルフィンゲン生
  没地:コロンビアのチナコッタ、33才没
  肩書:探検家(エクスプローラー)、総督(ガヴァナー)、ドイツ人征服者(コンキスタドール)、
      居住地建設者(ファウンダー)
      (Explorer, Governor, German Cconquistador, Colonial settlement founder)
初めに
  ドイツのヴェネズエラ植民地(1527-1556)
1519年にスペイン国王カルロス1世が神聖ローマ帝国の皇帝に選出されようと、ドイツのバイエルン州南西部アウクスブルクの大富豪で商人のヴェルザー家(Welser family of Augsburg)に資金援助をしてもらって、神聖ローマ帝国皇帝カール5世(Karl V, Holy Roman Emperor:在位1519/6/28選出-1556/8/27)になりました(戴冠式は1520/10/26)。1528年に選挙を応援したヴェルザー家バルトロメウス(Bartholomeus VI. Welser 1475-(在任1518-1546)-1559)の命で、負債の返済交渉に来たアンブロシュウス・エヒンガーとヒエロニムス・ザイラーが、負債を免除する代わりに、1527年にスペイン人が入植して初期の植民地になっていたベネズエラ殖民の権利をあたえる(30年間の期限付)という条件をのんで、ベネズエラの北西部からコロンビア北部一帯(New Granada)の開拓権をあたえました。そこでドイツ人によるベネズエラ殖民が計画され、1528/2月にヴェルザー家はアンブロシュース・エヒンガーを初代総督(Captain General)に指名しました。ヴェルザー家はスペイン人入植地の現ベネズエラの北西部でカラカスの西約180kmにあるファルコン州々都サンタ・アナ・デ・コロ(Santa Ana de Coro)にエヒンガー総督隊を派遣してマラカイボ方面を探検させ、ドイツの南アメリカ植民地クライン・ヴェネーディヒ(Klein-Venedig 1528-1546)が建設されました。

エヒンガー総督の船出
アンブロシュウス・エヒンガーはババリア(Bavaria、現:ドイツのバーデン・ヴュルテンベルク州)南部ウルム(Ulm)近郷タルフィンゲン(Thalfingen)で生まれ、ドイツの大富豪でアウクスブルクの銀行家一族ヴェルザー家のスペイン・マドリード商館長を務めていました。ヴェルザー家の命を受けたエヒンガーは副官ゲオルグ・デ・スペイエル(Georg von Speyer 1500-1540/6/11コロ没)と共に、1528/10/7にスペイン人のガルシア・デ・レルマ(Garcia de Lerma 、サンタ・マルタのスペイン総督が殺された後でのスペイン支配を再確立する任務を帯びていた) と281人の開拓者と共に、スペインのセビリア港を出帆しました。

・エヒンガー総督の大航海:〜
1528/2月、ヴェルザー家が初代総督に指名
1528/10/7、スペインのセビリアを出帆
        大西洋の横断大航海
1529年、イスパニョーラ島サント・ドミンゴに寄港
1529/2/24、サンタ・アナ・デ・コロに到着、上陸
1529/8月、第1回エルドラード探検、コロから西のマラカイボ湖方面へ
1529/9/8、血みどろの現地人との戦いの後、居住地マラカイボを建設
       ニュー・ニュールンベルグへドイツ人が入植を開始
1530年、ドイツ人フェダーマンが入植者を連れてコロに到着、2回
1530/7/30、病気療養でイスパニョーラ島サント・ドミンゴへ
1531/3/17、オリノコ河方面からフェダーマンが略奪した財宝を持参して戻ってくると、
        追放処分となり、フェダーマンは帰国
1531/9/01、第2回エルドラード探検、コロを出発
        コロ〜西行〜マラカイボ湖〜セサール川〜バジェドゥパル〜南行〜サパトサ湿地帯
        〜南行〜レブリハ川〜チカモチャ川(?)〜タチラ〜チナコッタ
1533/5/31、チナコッタで毒矢の傷が悪化して亡くなる

1529年にイスパニョーラ島サント・ドミンゴに到着。レルマはコロンビアのサンタ・マルタでの任務を果たすために50人の仲間と共に隊を離れ、エヒンガー総督と開拓者はベネズエラ海岸へと出帆。1529/2/24にコロに到着・上陸。コロはヴェネズエラの北西部でカラカス(Caracas)の西約180kmにある町の現:ファルコン州の州都コロで、1527年にスペイン人が入植し初期のスペイン植民地となっていました。1529/8月にエヒンガー総督はコロから西のマラカイボ湖(Lake Maracaibo)方面へ伝説の黄金の都エル・ドラードを探索しに内陸へと最初の探検を始めました。グアヒラ半島ヴェネズエラ湾コキバコア(Coquibacoa)で現地人と血みどろの戦いに勝利して、1529/9/8に居住地マラカイボ・イ・ロス・プエルトス・デ・アルタグラシア(Maracaibo y Los Puertos de Altagracia)を建設しました。そして現在の南米北部コロンビアからヴェネズエラに渡る一帯のリトルヴェネツィア(小ヴェニス:Little Venice)と呼ばれていた所をドイツ人がクライン・ヴェネディッグ(後のニューグラナダ:New Granada)と呼んで入植を開始すると、マラカイボはニュー・ニュールンベルグ(独:Neu Nurnberg、英:New Nuremberg)と呼ばれるようになりました。1530年にドイツ人ニコラス・デ・フェダーマンが入植者(settlers)や山師(miners)を連れてコロに到着すると、フェダーマンをエヒンガー総督が総督代理に任命しました。その後にもフェダーマンが移住者と山師を連れてスペインのセヴィリヤから、コロへ渡航してきました。1530/7/30にエヒンガー総督が病気(マラリア)を理由にイスパニョーラ島サント・ドミンゴで静養するために引き上げたので、フェダーマンがドイツ植民地クライン・ヴェネディッグの責任者になりました。フェダーマンはエルドラード探しに熱中して、総督の許可無しで、オリノコ河(Orinoco 2,140km)北部流域を南の海(太平洋)を探す探検に出発しました。そして、1531/3/17に略奪した財宝を持参して戻ってきましたが、エヒンガー総督は彼を追放処分にしたので、フェダーマンは帰国しました。

1531/9/1に、マラカイボに戻ったエヒンガー総督はエルドラードを求めて2度目の探検に騎兵40騎、歩兵130人、多数の現地人諸部族からなる探検隊で、ベネズエラのコロを西へと出発。アンデス山脈を越えてコロンビアのセサール県を流れるマグダレーナ河(Rio Magdalena 1,540km)支流セサール川(Rio Cesar 280km)沿いに探検してバジェドゥパル(Valledupar、現:県都)から、遂にサパトサ湿地帯(Zapatosa marsh)に到着。住民からザリーナ(Xerira)という豊かな地方の存在を知らされました。それは現ジェリダス(Jeridas, Colombia)高原で、当時はチブチャ王国(Chibchas:Muisca people)の北端(コロンビアのアンデス地方のボヤカ県:Boyaca)を形成しグアネ(Guane)族が居住していました。3ヵ月の休養後、南へ出発。マグダレーナ河を逆上り、エルドラードを目指すも、強力な現地人の抵抗・襲撃にあい、レブリハ川(Rio Lebrija)沿いに東へ回って進みました。その探検で、連れていた馬や犬までも食べ、山越えで現地人部族の多くを失いました。帰途についてチカモチャ川(Rio Chicamocha)方面(?)へ迷い込んでから、ヴェネズエラのタチラ州(Tachira)に入って、1533/5/27にチタレロス族(Chitareros)に襲撃され、エヒンガー総督とエステバン・マルチン大尉(Captain Esteban Martin)は谷間の低地に逃げ込むも、弓矢の攻撃を受け、エヒンガー総督は毒矢で首を撃たれ重傷をおいました。アウグスチヌス神父(Augustine father Vicente de Requejada)の介抱のかいもなく、1533/5/31にコロンビア北部アンデスのノルテ・デ・サンタンデール県(Norte de Santander)県都ククタ(Cucuta)とパンプロラ(Pamplona, Colombia)の間にあるチナコッタ(Chinacota Valley, Colombia)で亡くなりました。残りの探検隊はコロに戻りました。

エヒンガー総督が亡くなると、フェダーマンが臨時総督になるも、許可なくスペイン領への探検をしたかどで帰国すると、1535年にゲオルグ・フォン・スペイエル(別名:ホルヘ・デ・エスピラ(Jorge de Espira (独Georg von Speyer 1500-1540/6/11 コロ没:ヴェネズエラ総督在任1535-1540:独:Georg Hoemuth)がウェルザー家の総督になり、7年後(1542)に亡くなる迄ベネズエラの現地人から収奪を続けました。スペイエル総督はエル・ドラードの第一報告者としても有名になり、コロンビアのクンディナマルカ県グアヤビータ湖(Lake Guatavita, Cundinamarca)付近でのインディオの神事(金粉を全身に塗る)に関するエルドラード伝説が、欧州人の間に広がりました。

マラカイボ略史:〜
1499年、オヘーダとアメリゴ・ヴェスプッチが来航し
      て、マラカイボ湖付近をリトル・ベニスと
      呼び、ヴェネズエラ(Venezuela)と命名
1501年、オヘーダがコキバコア(現:グアヒラ半島)
      を発見・命名
1527/3/27、 ヴェルザー家がスペイン国王から
      ヴェネズエラの開拓権を取得
1529年、エヒンガー総督がマラカイボ(Maracaibo y
      Los Puertos de Altagracia)を建設するも
      1535年現地人の攻撃で放棄される
1556年、ドイツのヴェネズエラ支配が消滅
1569年、スペインのアロンゾ・パチェコ(Alonso
      Pacheco)がマラカイボ(Rodrigo de
      Maracaibo)を再度建設するも、1573年、
パチェコ
エヒンガ| マルドナ|ド
1569 マラカイボ市建設400年記念 1969
ヴェネズエラ 1969/9/30 発行
      現地人の攻撃で放棄される
1574年、スペインのペドロ・マルドナード(Pedro Maldonado)がスペイン領ヴェネズエラ州
      (Provincia de Venezuela)首都ヌエヴァ・サモラ・デ・マラカイボ(Nueva Zamora de
      Maracaibo)を建設。ティアラ・フィルメにヴェネズエラ州(Provincia de Venezuela)が成立

ドイツ(ヴェルザー家)ヴェネズエラ総督(Capitan general)列伝:〜
1528-1533、アンブロシュウス・エヒンガー(1500〜1533/5/31)
1533-1535、ニコラス・デ・フェダーマン(1505〜1542/2)
1535-1540、ゲオルグ・フォン・スペイエル(1500-1540/6/11)
1540-1546、フィリップ・フォン・フッテン(Philipp von Hutten 1505-1546/5/17)
        フッテン総督の頃には、移住者が熱病などで多数亡くなり、鉱山や砂糖プランテー
        ション労働に黒人奴隷4,000人がアフリカから移入されました。ドイツ人は黄金探しに
        熱中して、多くの現地人を虐殺したと言われています。フッテン総督は奥地の黄金探
        しから、コロに戻ると、其処は既に1545年からスペイン人総督カラバハールのものと
        なっていました。その後のフッテン総督の消息は解らず、現地で亡くなったと推定。

・ヴェネズエラ植民地州(Venezuela Province, Spain)で記録されている総督:〜
1527-1529、ファン・マルチネス・ド・アンピス(Juan Martinez de Ampies 1533没)
         1527/7/26、サンタ・アナ・デ・コロ建設、サントドミゴ副総督説有
1529-1531、アンブロシュウス・エヒンガー
1531-1533、バルトロメ・ド・サンチラナ(Bartolome de Santillana)
1534-1535、ロドリゴ・ド・バスチダス(Rodrigo de Bastidas)
1535-1540、ゲオルグ・フォン・スペイエル(Jorge de la Espira)
1540-1542、ロドリゴ・ド・バスティダス
1542-1544、エンリケ・レンボルド(Enrique Rembold)
1545-1546、ファン・ド・カルバハール(Juan de Carvajal)、
         1545年ララ州エル・トクヨ(El Tocuyo)建設、
         1546/4、フッテン総督に殺害された説有
1546-1549、(Juan Perez de Tolosa)
1549-1553、(Juan de Villegas Maldonado)
1553-1557、(Alonso Arias de Villasinda)
1557-1559、(Gutierrez de la Pena Langayo)
1559-1561、(Pablo Collado)
1562-1563、(Alonso Perez de Manzanedo)
1564-1566、(Alonso Bernaldez de Quiros)
1566-1569、(Pedro Ponce de Leon y Riquelme)
1569-1570、(Francisco Hernandez de Chaves)

なお、ドイツの南アメリカ植民地クライン・ヴェネディッグは中世ヨーロッパの大富豪のヴェルザー家で、1518年からの後継者バルトロメウスが有名なベネズエラ植民計画を企てるも、20年後に開拓は挫折して失敗し、1556年にはヴェルザー家の租借期限も終了して、ドイツの南米植民地は失われました。

参考HP:〜
リトル・ベニスの場所地図、ケルン・ヴェネーディヒ(Klein-Venedig)
コロの場所地図(日本語)
スリア州の区分地図、(Los Puertos de Altagracia)の場所有
マラカイボ湖付近の地図、(ヴェネズエラ湾、マラカイボ湖、コロ(Coro)有)
ヴェネズエラの区分地図(州都有)
グラン・コロンビアの地図(植民地時代の地名有)
オヘーダの航海地図(赤:1499-1501、Coquibacoa有)

・上記はこちらの文献などを参照させてもらいました。     13/6/30、13/7/10、2017/2/23
スタンプ・メイツ
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