Spain

国連 1988 発行
切手で綴る スペインの大航海 (Conquest Voyage)フロリダ植民(III-2
カベサ・ド・ヴァカ
1528
フロリダ上陸

大航海物語
 スペイン編

ESPANA
カベサ・ド・ヴァカ

フロリダ400年記念
スペイン 1960/10/12 発行
新大陸からスペインへお宝を運んだ
スパニッシュ・キャラック船
Spanish Carrack


スペインから新大陸へは人と物資を輸送
スペイン 1964/7/16 発行

CUBA

メキシコのユカタン半島・キューバハイチ
ジャマイカ島

キューバ 1971 発行
St.VINCENT
アメリカ南部、メキシコ湾、カリブ海の地図

メキシコ湾
大西洋

カリブ
セントヴィンセント 1980 発行

ヌエバ・エスパーニャ古地図、1579
ニュースペイン(メキシコ)


カリフォルニア半島
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   ガレオン船




←フロリダ

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←ユカタン半島



メキシコ 1979 発行

スペインのカベサ・ド・ヴァカは黄金郷”エル・ドラド”を求めて、1527年フロリダ遠征隊に同行するも、陸に孤立し、3人の仲間と共に2ヵ年に渡る旅を続け、アメリカ合衆国南西部を横断、無事、救出されました。後年、リオ・デ・ラ・プラタ(現パラグアイ)の総督を勤めました。生涯に4回の大西洋横断航海をなし、スペインで亡くなりました。

アルバル・ヌニェス・カベサ・ド・ヴァカ
 Alvar Nunez Cabaza de Vaca (1490頃〜1557)
 アルゼンティン総督 (在任1541-1544)
カベサ・ド・ヴァカはスペイン南部アンダルシア州カディス県ヘレス・デ・ラ・フロンテラ(Jerez de la Frontera, Cadiz)の名門の家庭に生まれました。「牡牛の頭」の意があるこの姓(Cabeza de Vaca)は先祖伝来のものだそうです。カナリ−諸島の征服者の一人で総督にもなった祖父に育てられ、1511年21才頃に軍人となりイタリアやスペインのナバラ州などの各地で軍務に就きました。

1527年37才頃にカベサ・ド・ヴァカは財務官、大警視としてバンフィロ・ド・ナルバエス(Panfilo de Narvaez, 1470-1528)の率いるフロリダ遠征隊に加わりました。ナルバエスと共に5隻の船と700人の隊員と共に、スペイン南部のアンダルシア州カディス県サンルーカル・デ・バラメダ港から出帆し、嵐と荒波をくぐり抜け、フロリダの海岸に1528/4月に到着しました。生き残って上陸できたのは300人の隊員で、リオ・デ・ラス・パルマス(現在のフロリダ州中西部のタンパ湾(Tampa Bay)の近くと考えられる所)の近くの、敵対的な先住民の中に上陸したのでした。ところが、ナルバエスは黄金郷”エル・ドラド”に黄金があるとの情報で、一行を上陸組と海上組の二手に分け、8月に約束の場所で落ち合うことにしました。

そこから、ナルバエスと共に上陸前進し、強力なアパラチー・インディアンの領域に達するまで、上陸遠征隊は内陸のフロリダを通って北方に進みましたが、伝説上の黄金も財宝(黄金郷”エル・ドラド”)も発見できず、インディアンの敵対心に疲れるばかりでしたので、ナルバエスは4艘の「いかだ」で内陸から海に戻るように命令。ヴァカは船に再び乗ってメキシコへと向かうつもりでしたが、船は8月に約束の場所に着きましたが、上陸隊が現れなかったので、船隊はすでにキューバに戻った後で見つかりませんでした。食料は底をつき飢えに苦しみ、さらにインデイアンの襲撃に悩まされながらも、何とか数隻のボートを建造し、メキシコを目指して湾岸沿いに航行しました。この船旅はまさに悪夢の連続で、水にしろ食料にしろ、ほとんど何もなく、小さなボートは嵐のたびに木の葉のように舞い、ついに1528/11月にテキサス州ガルベストン島(Galveston)で難破し、多くの人は海中で行方不明となり、漂着した人も大半は寒さと野ざらしのもとで、次々と死んでゆきました。ここでナルバエスは亡くなったものと推定されています。生き残った80人の男が、はるか遠くのメキシコシティーに向けて徒歩で進みましたが、途中食べ物が不足し、カベサ・ド・ヴァカと何人かがカランカワ族インディアンに捕えられ奴隷となりました。

1534年44才頃のカベサ・ド・ヴァカとアロンソ・デル・カスティーリョ・マルドナド(Alonso del Castillo Maldonado)、アンドレス・ドランテス・デ・カレンツァ(Andres Dorantes de Carranza)、そしてエステバニコ(黒人のムーア人)という名のベルベル人の奴隷の4人は連れ立って、インディアン部落を脱出、メキシコへと進みました。以後2年間、4人は、遊牧生活をおくるインディアン種族を相手に交易をしたり、医者として評判を得たりして、その日暮しの生活を続けながら旅を続けました。それはテキサス州の海岸沿いにリオグランデ川まで進み、北から西へと転じて、テキサスからメキシコ西部を放浪し、現メキシコ北西部にあるシナロア州サンミゲル・ド・クリアカン(Culiacan)附近で、スペイン人のグループにめぐり会い、無事救出されました。ヴァカはメキシコ市へ向かい、副王アントニオ・ド・メンドーサに報告を済ませた後、1537年にいったんスペインへ帰国し、新しい地位を求めました。カベサ・ド・ヴァカはフロリダの総督としてナルバエスの愚かさによって多くの隊員が死んだあとを継ぐことを望みましたが、スペイン国王カール5世はすでにエルナンド・ド・ソトに次の遠征隊を率いるよう任命していました。

その代わり、その後、再び新大陸に戻る気になり、1540年にリオ・ド・プラタ(ラプラタ川、現在のパラグアイ、アルゼンチンとその周辺地域)の総督兼軍司令官のポストを得ました。4年間に渡る南米での生活で、ヴァカは約1,600km(1,000マイル)にわたる内陸部の踏査を実施し、新開地を開きました。イグアスの滝をその目で見た最初のヨーロッパ人になりました。1544年54才頃に政治的陰謀が起こり、部下の告発でパラグアイのアスンシオンで逮捕され、囚人として本国送還となりましたが、後日にその容疑の大半は事実無根と判明し、無罪放免となりました。

その後は、新大陸で経験した大冒険を基に「海難者達」(1542)の執筆と出版に余生を送り、67才頃に亡くなりました。難破(Naufragios)だという説も有り、また、南アメリカの広範囲におよぶレポートを書き、それはヴァカの初期の「La Relacion(報告)」と合わせて、「Comentarios (注釈書)」という名の題名で出版されたという説も有。エステバニコは今日のアメリカ合衆国である地域に入った最初のアフリカ人となりました。

参考HP:〜
サンルーカル・デ・バラメダ港
フロリダのタンパ湾の地図(Old, Middle, Lowerの3ヵ所有)
フロリダのタンパ湾の場所地図
ガルベストン島の地図(テキサス州)
ヒューストンとガルベストン島の場所地図
テキサス州の地図(ヒューストン(Houston)有)
カベサ・ド・ヴァカの探検放浪地図

・上記はこちらの文献などを参照させてもらいました。   09/3/31追記、令和7年 2025/4/20
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