Spain 国連 1988 発行 |
切手で綴る スペインの大航海 (Adventure Voyage)アステカ帝国征服(IV-2)
ペドロ・ド・アルヴァラード 1524 アカジュトラの戦い |
大航海物語 スペイン編★ |
MEXICO ヌエバ・エスパーニャ古地図、1579 ニュースペイン(メキシコ) |
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カリフォルニア半島 |
←スパニッシュ ガレオン船 ←フロリダ ←キューバ ←ユカタン半島 ←ベリーズ ←グアテマラ ←ホンジュラス |
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メキシコ 1979 発行 |
メキシコ→ グアテマラ→ エルサルバドル→ |
BELIZE 中央アメリカの地図 1948 米州機構50年記念 1998 |
←ベリーズ (赤) ←ホンジュラス ←ニカラガ ←コスタリカ ←パナマ |
ベリーズ 1998 発行 |
スペイン生まれのアルバラードは新大陸ブームに沸くスペインから新大陸に渡り、コルテスの右腕となって働き、アステカ遠征でその都のテノチティトラン攻防戦を勝利して征服、コンキスタドール(征服者)の名を挙げました。その後、中央アメリカの探検と征服に従事し、グアテマラとホンデュラスの総督になり、さらに東洋のスパイスを探しに航海に出帆するも、メキシコの反乱を鎮圧中に負傷して亡くなりました。 |
ペドロ・ド・アルヴァラード・イ・コントレラス Don Pedro de Alvarado y Contreras (1485〜1541/7/4) (グアマテラ総督在任:1527〜1541、ホンデュラス総督在任:1538〜1541) アルバラードはスペインのエストレマドゥーラ州バダホスの下級貴族の家に生まれました。1510年に叔父ディエゴ(Diego de Alvarado y Mexia de Sandoval)と5人の弟達、ゴンサロ(Gonzalo, 1490頃-1541頃)、ホセ(Jorge, 1480頃-1540頃)、ゴメス(Gomez, 1482頃-1542頃)、ヘルナンド(Hernando)、フォアン(Juan)と大西洋を横断航海して、ヒスパニョーラ島に渡りました。 コンキスタドール(征服者)アルバラードの大冒険:〜 ・1510年(25才)〜新大陸のヒスパニョーラ島に渡航 ・1518年(33才)〜キューバ遠征 ・1519年(34才)〜アステカ遠征 ・1520年(35才)〜テノチティトラン攻防戦 ・1521年(36才)〜テノチティトラン征服 ・1523年(38才)〜グアテマラ遠征 ・1524年(39才)〜エルサルバドル遠征、アカジュトラの戦い、左足に重傷を負う ・1526年(41才)〜スペイン本国に一時帰国、翌年グアマテラ総督で戻る ・1530年(45才)〜夫人が没 ・1534年(49才)〜ペルー遠征 ・1537年(52才)〜スペイン本国に一時帰国、ホンデュラス総督で戻る ・1540年(55才)〜再婚 ・1541年(56才)〜メキシコのニックストン戦、グアダラハラで没 1518/4月にエルナン・コルテスの命で、フォアン・ド・グリハルハ(Juan de Grijalva 1489-1527ニカラグア没)のキューバ遠征に参加、本隊170人とペドロ・マルティル(Pedro Martir 1457-1526)の別働隊300人と共にイスパニョーラ島を出帆、キューバ島を征服しました。その後、ユカタン半島探検隊に参加し1518/5/1にグアニグアニコ岬に上陸後に、コルテスの遠征隊に合流して、モンテズマ2世(Moctezuma II 1466-1520)の素晴らしいアステカ(Azteca)帝国とその都のテノチティトラン(Tenochtitlan)を報告しました。 コルテスはアステカ征服を決意、1519/2/18にアルバラードはコルテスのアステカ征服軍の副司令官としてキューバ島ハバナ港を11隻の船でメキシコへと出帆。メキシコのユカタン半島に上陸、ついで海岸沿いに現ベラクルス付近に着いたコルテスのメキシコ遠征軍はベラクルス(Veracruz)を建設して、付近の現地人を味方につけて進軍しました。アステカと敵対していた都市国家トラスカラ王国(Tlaxcala、別名ナワトル、Nahuatl state)と戦い、コルーニャ(Cholula)とトラスカラ地方はコルテス遠征軍に降伏しました。アルバラードはコルテスから首長の娘を与えられ結婚しました。そのことによりトラスカラの人々もアステカに対抗するためにコルテスの同盟者となってアステカ遠征軍に加わりました。1519/8月のコルテス遠征軍はスペイン兵600人、騎兵15騎、大砲15門、現地人同盟者数百人の勇者(indigenous carriers)で構成されていました。アステカの帝都に平穏に到着すると、「伝説の”ケツァルコアトル”という神が海のかなたからきた」と勘違いした帝王モンテズマ2世が友好的に迎えましたが、キューバ総督ベラスケスのコルテス討伐軍ナルバエス部隊がベラクルスに到着したとの知らせを受け、1520/5月初めにコルテスはアルバラードに兵120人を託してテノチティトランに残し、自らは海岸地方のベラクルスへと向かいました。 スペインから新世界に渡ってきたパンフィロ・ド・ナルバエスは、1512年にキューバ総督ベラスケスの命令で、キューバ征服に参加。ナルバエスはバルトロメ・ド・ラス・カサスとフォアン・ド・グリハルバ(Juan de Grijalva, 1490セゴビア県Cuellar生-1527/1/21Honduras没)と共に島の東端まで遠征しました。その後に、イスパニョーラ島とキューバ島に住んだ後に、ナルバエスはエルナン・コルテスの野心を密かに妨害するため、ベラスケスの代理人としてメキシコに派遣されました。ナルバエスがベラクルスに到着した後、ナルバエスの兵士の多くはコルテスに寝返りました。残りのナルバエス部隊は、1520/5/24にセンポアラ(Cempoala, 現:ベラクルス州の都市)で戦い、ナルバエスは戦いで負傷し敗れ捕虜になりました。コルテスは、約2年間に渡りナルバエスをベラクルスで投獄しました。ナルバエスは解放された後、スペインに帰国しました。 1520/5月初めにアステカのテノチティトランに残留したアルバラード一行はテノチティトランで、まもなく始まった祭典に興じるアステカ人の蛮行を見て、恐怖に獲りつかれ、スペイン人残留部隊が大虐殺を行ってしまいました。それに激怒したアステカ人達が一斉に武装蜂起したため、アルバラード達は湖の中の島の宮殿に包囲されました。アルバラード軍の急を聞いてテノチティトランに引き返してきたコルテスとその部隊は篭城中のアルバラード一行と合流し、停戦しようとしましたが、アステカ人達は攻撃を続けました。やむなく首都撤退を決断し、1520/6/20の「悲しき夜」と後に呼ばれる惨劇は、湖の中の島からの脱出で甚大な損害を被る脱出作戦で、辛うじて追撃を振り切って逃げ延びました。その後、アルバラード一行は反撃を開始し、数ヶ月に渡るアステカ人達の抵抗で、激しい攻防戦となり、美しい都のテノチティトランは完全に破壊され廃墟と化しました。1521/8/13にコルテスとアルバラード一行がテノチティトランの征服を完了しました。アステカ征服戦に勝利したコルテスはスペイン国王カルロス1世により、1522/10/15付でヌエバ・エスパーニャ総督兼軍司令官に任命されました。これによりコルテス総督は政治的手腕を発揮し、テノチティトランの上にメキシコシティ(Mexico City)を建設し、副官を四方の地域に派遣して周辺部族の恭順を取り付け、短期間でメキシコ中部と南部の諸地方がスペインの支配下に入りました。 1523年にコルテス総督の命でアルバラード副官は南の地方を探るための遠征に出発.砲4門、騎兵135騎、歩兵300人などスペイン人420人とトラスカラ人同盟軍数百人を率いて、1523/12月にグアテマラの太平洋岸に上陸、高地へ向けて侵入を開始、現地人マヤ系のカチクエル王国(Cakchiquel nation)、マヤ・キチェ族(K'iche' (Quiche) Maya)の抗争に乗じてウタトラン、アティトランを占領、征服しながら、1524/7月にはグアテマラ全土を征服してグァテマラ市を建設しました。 1524/6月にエルサルバドルに侵入してアカジュトラ(Acajutla)近郷のアカジュアル集落(Acaxual.)に到着。ピチウアテオカン(現サンタアナ、Santa Ana)へ進み、アウアチャパン(Ahuachapan)を制圧。ソンソナテ(Sonsonate)へ進み、1525/4/1にスチトト近郊ベルムーダを建設しました。緒戦に勝利したスペイン軍はパズ川(Paz River 134km)を渡河し、「綿の鎧」を着て長い槍を持ったアトラカトル(Atlacatl ?-1528)に率いられた現地人(Pipils)と、1524/6/8にアカジュトラの戦い(Battle of Acajutla)で激戦し、アルバラードも重傷を負ってスペイン軍は敗戦し、エルサルバドルを征服できずにグアテマラに戻りましました。 アルバラードは弟ゴンサロ(Gonzalo de Alvarado)にアカジュトラへの再度の攻撃を命じました。1525年に再び攻め込んできたアルバラード遠征軍の攻撃により、ベルムーダはサンサルバドル市(Villa de San Salvador、聖救世主)と改称されました。その後1528年にはエル・サルバドルのほぼ全域が征服されされました。スペインの支配に入るとグアテマラ総督領の一部としての管理のもとにおかれ、農業や牧畜業が営まれ、エル・サルバドルは開発されてゆきました。 1526年にメキシコのアウディエンシアでライバルのフランシスコ・ド・モンテージョ(Francisco de Montejo, 1479頃-1553頃)がアルバラードのグアテマラ専断に関して批判を高まらせました。アルバラードは政界工作のため本国スペインに一時帰国し、翌年カール5世からグアマテラ総督に任命されました。グアテマラに戻ると征服直後から発生していた反乱を3年に渡り鎮圧しました。 1530年には太平洋の探検を思いたち、太平洋岸のプエルト・サンホセ港(Port San Jose)で造船を開始しましたが資材を運ぶために現地人に過酷な労働を押し付けました。1534年に豊かなペルーの話を聞き、ペルー遠征に出帆。上陸後アンデス山脈へ向かいキトー(Quito)地方の征服を企てましたが、到着すると、ピサロ一派のベラルカザールがすでに到着していました。激突寸前にアルバラードは弾薬、馬と兵士を船もろともベラルカザールに売り払って戦いを回避し、1536/6月にホンジュラスへと向かいグアテマラに戻りました。 そこから1537年にホンジュラスの利権に絡みスペイン王室に工作するため、スペインへ再び渡航しました。ホンデュラスのグアテマラ編入を認めさせ、1537年にアルバラードはホンデュラス総督(Governor of the Province of Honduras)となって帰還し、翌年から7年間(1538-1545)ホンデュラス総督の地位を勝ち取りました。アルバラードの没後、1541年にフランシスコ・ド・モンテージョはホンデュラス総督になりました。 それからまもなく、インドネシアのモルッカ諸島を目指し航海に出帆。途中立ち寄ったメキシコのアカプルコ港で、ヌエバ・ガリシアの先住民の反乱鎮圧を要請され予定を変更してメキシコのハリスコ州(Jalisco, New Spain)グアダラハラ(Guadalajara)に向かいました。 1540年、スペインのアンダルシア州ハエン県ウベダ(Ubeda)生まれの最初のドーニャ夫人(Dona Beatriz de la Cueva, 1530没)を亡くして10年間を独身で過ごしてから、ドーニャ夫人の妹ドーニャ・ベルトリズ夫人(Dona Beatriz de la Cueva, of Ubeda, 1498頃-1541/9/11)と再婚しました。 1541年にメキシコの現地人ニックストン(Mixton)とニュー・ガリシア(Nueva Galicia)でニックストン戦(Mixton War, 1540-1542)を戦い、その勢力を抑制しましたが、1541年に戦闘に敗れ、退却中にグアダラハラで落馬事故で重傷を負い、数日後の1541/7/4に亡くなり、メキシコ・ミチョアカン州の州都モレリア市(Morelia)のパツキュアルコ(Patzcuaro)に埋葬されました。 1541年のアルバラード没後にドーニャ・ベルトリズ夫人がグアテマラ総督に就任しましたが、1541/9月にグアテマラのアグア火山(Volcan de Agua、3,760m)が噴火し、土石流(Mudslide)で首都テクパンが壊滅し、数年後に現在のアンティグア・グアテマラに首都が建設されました。夫人はその地震で亡くなりました。
参考地図HP:〜 ・グアテマラの地図(日本語) ・クチャ・マヤの場所地図(グアテマラ) ・エル・サルバドルの地図 ・上記はこちらの文献などを参照させてもらいました。 2010/10/10、令和7年 2025/6/20 |