Spain 国連 1988 発行 |
切手で綴る スペインの大航海 (Adventure Voyage)西回りインド大航海(1-14)
オヘーダ 1493 コロンブスの第2回航海に参加 マラカイボ湾・キュラソー島 |
大航海物語 スペイン編★ |
CONGO オヘーダと砂時計 1492 コロンブス500年記念 1992 コンゴ 1992/10/21 発行 |
Jamaica コロンブス 第2回航海 1493〜1496 往路の航海地図 コロンブス500年記念 ジャマイカ 1992年 発行 |
UGANDA コーサの世界地図・古地図 キューバ、イスパニョーラ島付近の拡大図 ウガンダ 1992 発行 |
オヘ−ダ船長はコロンブスのインドへの第2回航海に参加して新世界へ渡り、コロンブスに従い、イスパニョ−ラ島で活躍しました。1499〜1500年には南米沿岸を探検航海し、1509年パナマの総督になりました。その後コロンビア征服を目指しましたが原住民との戦いで失敗しました。また、1510年にはキューバ島へ渡り金鉱を発見しましたが、コロンビアでの失敗で失脚、復活することなく現地で亡くなりました。また、1499年の航海ではベネズエラの名付け親になったことで知られています。 |
アロンソ・ド・オヘーダ船長 Alonzo de Ojada (1465頃〜1515) オヘーダ船長はスペイン中央の都市カスティーリャ・ラ・マンチャ州クエンカ県の県都クエンカの貴族の家に生まれました。スペインの高僧(bishop of Burgos)フォンセカ(Juan Rodriguez de Fonseca 1451-1524)に認められていました。 オヘーダの大航海:〜 ・1493〜1496:コロンブスの第2回航海に参加してインディアスへ大航海 ・1499〜1500:スリナムからベネズエラ湾へ大航海 ・1500〜1507(?):バスティダス探検隊に参加してベネズエラからパナマへ大航海 ・1509〜1515:コロンビアからパナマのウラバ湾へ大航海 オヘーダ船長は、高僧フォンセカの支援で計画されたコロンブスの第2回航海(1493/9/25出帆:17隻1,500人)に、若干28才で1隻の船を任された船長として参加しました。イスパニョ−ラ島に到着すると上陸して、植民地建設に貢献しました。イスパニョーラ島で住民の一部が「金」(Gold)を装身具にしているのを見たり、「シバオ」(Cibao)という所で「金」が採れるという話を聞いたコロンブスは、オヘーダにシバオへ「金」を探しに行くよう命じ、1494年1月出発。そこで砂金を見つけて持って帰りました。それで、コロンブスはスペイン国王へ報告書を提出するため、2/2アントニオ・デ・トレース(Antonio de Torres. ?-1502)をスペインへ向わせました。このとき第2回航海の17隻中12隻がスペインへ戻ってしまいました。3/16にはコロンブス自身がシバオに出向き「金」を採取する拠点として砦を造り「サント・トマス」(Santo Tomas)と名付けました。ペドロ・マルガリーテ(Pedro Margarite, ?)を長として56人を配置し、コロンブスは3/29イサベル市に戻りました。4/1インディオの動きに不穏なものを感じたマルガリーテはコロンブスに伝令を送りました。マルガリーテの急を聞いたコロンブスはオヘーダを救援の指揮官に任命し、4/2には70人、4/9には396人を救援に送りました。マルガリーテには島内の治安を確立するように指示しました。1495/4月トレースがスペインに着き、コロンブスの健在と食料不足を伝えました。スペイン国王は直ちに救援船の出帆を命じましたが、4隻の救援船が国王の巡察使アクアード(King's patrol Officer Aquard)の指揮のもとに出帆できたのは8月となりました。1495/10月巡察使アクアードがイスパニョ−ラ島に到着しました。1496/3/10コロンブスはアクアードと共にイスパニョ−ラ島を出帆、6/11スペイン・カディス港に帰港しました。オヘ−ダはその後、イスパニョ−ラ島でスペイン人同士の紛争が起こったので、1496年中にスペインへ帰ったと言われています。 オヘーダ船長は1499年のインディアスへの航海自由化で国王の許可を取り、1499年から1500年にかけ探検船隊を率いて、アメリゴ・ヴェスプッチやファン・デ・ラ・コーサ、ビセンテ・ピンゾンらと共にインディアスへ向かい、南アメリカ北岸地帯を現在のスリナムからベネズエラ(ベネズエラ湾)までを探検航海しました。 参考:〜 ・クエンカ (Cuenca, Cuenca province, Castilla La Mancha region, Spain) クエンカは「川の盆地」を意味する美しい古都で、フカール川(Jucar river, 509km)とその支流ウエカル川(Huecar river, 14km)の峡谷にあって、歴史的城壁都市クエンカ(Historic Walled Town of Cuenca)としてユネスコの世界遺産に1996年に登録されていています。現在はスペインの首都マドリードから列車や高速道路で日帰り旅行ができます。 ・参考HP:〜 ・クエンカ県の場所地図 09/4/4追記 |
★オヘーダ物語 |
オヘーダ 1499年 マラカイボ湾を発見 |
大航海物語★ |
EE.UU.de VENEZUERA
ヴェネズエラ 1950/12/18 発行 |
VENEZUERA マラカイボ湖の有る
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Jamaica | ||
フロリダ→ キューバ島→ ジャマイカ島→ メキシコ→ グアテマラ→ エルサルバドル→ ホンジュラス→ ニカラガ→ コスタ・リカ→ パナマ→ ダリエン湾→ ポルトベロ(赤丸)→ |
カリブ海沿岸の地図 マラカイボ湖 ジャマイカ 1992 発行 |
←イスパニョーラ島 ←プエルトリコ島 ←カルタヘナ(赤丸) ←ギヤナ ←南米大陸 |
1499年に4隻の船隊でスペインを出帆。カーボ・ヴェルデ諸島に寄航後、大西洋を横断航海して、新大陸ガイアナのエスキボ河(Boca del Esquibo, 1,014km)河口から西へ航海して、オリノコ河々口(Boca del Orinoco, 2,140km)、ベネズエラとトリニダード島に挟まれたバリア湾(Gulf of Paria)のパリア(Paria)、マルガリータ島(Margarita)、パラグアナ半島(Paraguana)、キュラソー島(望見:現オランダ領ABC諸島アルバ島(Aruba)、ベネズエラ連邦保護領ラスアベス群島(Las Aves archipelago)も)、マラカイボ湾(Maracaibo、現:ベネズエラ湾)、グアヒラ半島のコキバコア(Coquibacoa)に至るベネズエラの沿岸部を探検航海しました。 マラカイボ湾を発見し、マラカイボ湾に浮かぶ先住民の水上集落を見て、この地域をベネズエラ(小ベネチア:Little Venice)と命名しました。 1499年5月にはベネズエラから北へ向かいました。 ・オヘーダの第2回航海:〜 (1499〜1502) スペイン〜エスキボ河〜オリノコ河〜パリア〜マルガリータ島〜パラグアナ〜マラカイボ〜コキバコア〜キューバのサント・ドミンゴ。 (1509〜1510) サント・ドミンゴ〜コロンビアのタルバコ(Turbaco)〜コロンビアのサン・セバスチャン(San Sebastian)〜キューバのハグア(Jagua) 11/8/11追記 |
★オヘーダ物語 |
オヘーダ 1499/5/18 キュラソー島を発見 |
大航海物語★ |
NEDERLANDSE ANTILLEN CURACAO | |||||||
オヘーダ船長 蘭領キュラソー島 1949/7/26 発行 |
オヘーダの乗船 1499 キュラソー島発見450年記念 1949 蘭領キュラソー島 1949/7/26 発行
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ベネズエラのバリア湾から航海した後、1499/5/18にはにキュラソー島を発見して、イスパニョーラ島のサント・ドミンゴ港(Santo Domingo)に到着。その後、ほぼ1年に渡る探検航海の後に、1500/6月スペインへ帰港しました。 1500年ロドリゴ・ド・バステイダス指揮の探検船隊に参加、ベネズエラからコロンビアそしてパナマの東海岸北部にかけての沿岸地方を探検した後、現地パナマ(デイエゴ・フィルメ)で解散しました。イギリスに南下の動きがあったため、スペイン国王は1501年にオヘーダへ、到達した海岸にスペイン(カスティーリヤ王国)の領有権を表す標柱を適当な間隔で立てるように命じました。 1508年にはオヘーダは3度目の航海で、ベネズエラのコキバコア州(Coquibacoa、マラカイボ湖の原住民による呼称)へ総督として赴任しました。 バステイダスの一行の内、オヘーダとディエゴ・ド・ニクエサはバステイダスが探検した地域を植民する権利をスペイン国王から獲得して、1509年にオヘーダはヌエバ・アンダルシア(現パナマのダリエン)総督となりました。1509/11月オヘーダはコロンビアのカルタヘナに上陸し、オヘ−ダが指揮を執り、原住民と激しく戦いながら植民地を建設しました。オヘーダは1509年末頃に300人を率いてコロンビアの北部海岸地帯を目指して出発。ニクエサは700人を超える人員を率いてパナマ地峡地帯へ向かいました。しかし2、3ヵ月もたたない内に、両隊共にインデイオの襲撃や病気や食料不足のため仲間をどんどん失い、ついには双方の人員を合わせても100人に満たない有様となりました。ウラバ湾岸に居留地を造りましたが飢餓と毒矢で悩まされましたので、オヘーダはマルテイン・ド・エンシソの隊を救援隊として派遣することを約して、生き残りの一行をフランシコ・ピサロに預けてイスパニオラ島へ引き返しました。正式なオヘーダの後任者エンシソが任命され増援部隊と食料と共にカルタヘナに到着しました。エンシソはイスパニョーラ島で弁護士をしていた学究肌の人でこのような状況にはふさわしくありませんでした。救援船隊のなかにバスコ・ヌーニェス・ド・バルボアという密航者がいて、バルボアはウラバ湾の西に居留地を移し、新たに造られたダリエンの裁判官兼市長になり、エンシソをスペインに送還しました。 1509年セバスチアン・オカンポがキューバ探検を開始し、西回りでピナルデルリオを越えマタンサス周辺に至り、キューバがひとつの島であることを発見しました。 1509年にオヘーダはイスパニョーラ島サント・ドミンゴ港を探検航海にと出帆。コロンビアのツルバコ(Turubaco)から、サン・セバスチャン(San Sebastian)をへて、1510年にキューバ島のジャグア(Jagua)に到着。 同年にキューバ島シエンフエゴスに上陸、海岸沿いに踏破してマンサニーリョに到達、金鉱を発見しました。オヘーダから金鉱発見との情報を得たスペイン国王はインディアスのディエゴ総督にキューバ征服を命じました。1511/6月にインディアスのディエゴ総督が金産出量減少とインディオの減少による苦境を打開するためと、国王の命によりキューバへの遠征を計画して、インディオとの戦いで勇名をはせたイスパニョーラ島一の有力者ドン・ディエゴ・ベラスケス・デ・クエージャルを指揮官に任命しました。1511/6/28ベラスケスがキューバ南岸の入り江に上陸、国王の守護聖人の名により「サンチアゴ」と名付けました。1513年ベラスケスはカオナオで原住民を大虐殺、疫病の流行もあり30万人の原住民が抹殺されました。キューバ征服の本拠地をバラコアからサンチアゴに移設しました。この頃エルナン・コルテスはエンコミエンダとしてサンチアゴに残留していました。 その後、オヘ−ダはダリエンで部下をインディオの反攻・攻撃にさらして置き去りにしたとの不評がたち、地位を失い失脚し、貧窮の内にスペインへ帰ることも無く、現地サントドミンゴで1515年50才頃に亡くなったと伝えられています。 ・参考HP:〜 ・オヘーダのカリブ海航海地図 ・マラカイボ湾と湖の地図 ・上記はこちらの文献などを参照させてもらいました。 2011/8/1追記、令和6年 2024/10/23 |