Spain 国連 1988 発行 |
切手で綴る スペインの大航海 (Conquist Voyage)インカ帝国征服(V-17)
アロンゾ・ド・エルシラ 1569 チリのアラウコ戦記を発表 |
大航海物語 スペイン編★ |
アラウカ戦記(La Araucana)発行400年記念 (航空郵便切手) チリ 1972/3/20 発行 |
”ESPANA A CHILE”とは 1960年チリ地震援助でスペインから無償提供 チリ地震救済寄付金付発行 (航空郵便切手) チリ 1961/4/29 発行 |
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(航空郵便切手) チリ 1960/12/1 発行 |
Solomon Islands スパニッシュ・ガレオン船 16th Spanish Galeon ソロモン 1971/10/7 発行 |
スペインのマドリード生れのエルシラはフェリペ王子とイングランドのメアリー1世女王の結婚式に参列して、スペインの新世界征服者ジェロニモ・ド・アルデレートと出会って、1555年に新大陸へ渡航しました。1557年にチリに到着して、折から起っていた現地アラウコ族の抵抗戦争に従軍。アラウコ地方のマプチェ族長カウポリカンの串刺し火炙りの刑を目撃して帰国後に、不朽の名作の叙事詩「アラウコ戦記」(La Araucana)を発表して、戦争とチリの実情を詳しく歌い上げました。 |
アロンゾ・ド・エルシラ・イ・スニガ (1533/8/7〜1594/11/29) Alonso de Ercilla y Zuniga 生地:スペインのカスティーリャ・ラ・マンチャ州(#8)トレド県オカーニャ生 (Mesa de Ocana, Provincia de Toledo, Castilla-La Mancha, Espana) 没地:スペインのマドリード(#14, Madrid)61才没 肩書:スペインの貴族(Spanish nobleman)、 アラウコ戦争(Arauco War、1536)の叙事詩(1569)作家(epic poet)、 征服者(コンキスタドール):チリ(1557-1559)遠征 アロンゾ・ド・エルシラは、スペインのバスク地方ベルメオ(Bermeo, Basque)から首都マドリード(Madrid)へ移住してきた貴族の家で、父フォルツナ・ガルシア・ド・エルシラ(Fortuno Garcia de Ercilla)と、母親ドナ・レオノール・ド・スニガ(Dona Leonor de Zuniga)両親のもとで生まれました。1548年15才で父が亡くなり母が伝手を頼ってマドリードでスペイン王宮へ出仕し、アロンゾは後のスペイン王フェリペ王子(Felipe II、1527-在位1556-1598)に随伴して外国旅行する幸運に恵まれ、イタリアからドイツへ3年間も旅行しました。その後、母とボヘミア(Bohemia)へ行き、そこで母と別れてオーストリアからハンガリーなどを訪問しました。帰国後、再びフェリペ王子に随行してイタリアからドイツ、オランダへ旅行しました。1554年にはフェリペ王子と結婚するイングランドのメアリー1世女王(Mary I of England、1516-在位1553-1558、ヘンリー8世と最初の王妃キャサリンの娘で別名:血まみれメアリー)の結婚式(1554/7/20)に行くフェリペ王子に随行しました。 1555年ロンドンでコンキスタドール(スペイン人征服者)のジェロニモ・ド・アルデレート(Jeronimo de Alderete y Mercado 1518-1556/4/7)に新世界の血湧き肉踊る冒険物語を聞いて大いに興味を持ちました。1555/10/15にエルシラはアルデレートと共に新世界へと出帆。大西洋横断の大航海後、新世界に渡航しましたが、アルデレートは黄熱病で、間もなくパナマで亡くなり(1556/4)ました。エルシラはペルーへの旅行を続け、1557年にチリ総督(在任1557-1561)に指名されたドン・ガルシア・ウルタード・ド・メンドーサ(Don Garcia Hurtado de Mendoza 1535-1609)のチリ遠征(アラウカニア(Araucania)征服)の話を聞きつけ、参加しました。1557/1月にスペイン人500人で、総督の海路隊と別動の陸路隊と二手に別れる遠征隊で、エルシラは総督の海路隊と共に出帆。 1556年ペルーに到着して、チリ総督ドン・ガルシア・ド・メンドーサのもとで働きました。1557〜1559年の間17ヵ月チリに在留してラグリナスの戦い(1557/11/08)、ミララプエの戦い(1557/11/30)、キアポの戦い(1558/12/13)に従軍しました。そして、アラウコ地方のマプチェ(Mapuche)族長カウポリカン(1558没)の刑死をビオビオ州アラウコ県カニャーテ(Canete, Arauco Province, Biobio Region, Chile)で目撃し、叙事詩「アラウコ戦記」(La Araucana)に主人公として歌いあげました。 その旅程は、1557/4/5にチリ最北部ペルーとの国境に近いアリカ・イ・パリナコータ州の港湾都市アリカ(Arica)に到着。4/9に出帆、1557/4/23チリ中部コキンボ州(Coquimbo)のラ・セレーナ市(La Serena)に到着。コキンボの住民は甲冑を身にまとい、大砲(cannons)と鉄砲(Arquebus)、剣で武装して羽飾りを飾りたてた騎兵や銃兵など500人以上の、見たこともない馬やスペイン人大部隊に驚愕しました。 1555年 10/15、エルシラはアルデレートと共に新世界へとロンドンを出帆 ? 、パナマ到着 1556年 04/07、パナマでアルデレートが没 ? 、ペルー着 1557年 01月 、ガルシア・ド・メンドーサ総督隊とペルー出帆 04/05、アリカ・イ・パリナコーのアリカ到着 04/09、アリカ出帆 04/23、コキンボのラ・セレーナ到着、上陸して全員が下船 ? サンチャゴ着 06/21、出帆 コンセプシオン湾ビオビオ・トメ・キリキナ島(Bio Bio Tome, Quiriquina Island)に到着 暴風雨で足止めとなり、現地人と交流 10/29、コンセプシオンをラグリナスの戦いへ出発 11/08、ラグリナスの戦い、決戦・勝利 11/30、ミララプエの戦い、勝利 1558年 03/27、ヴァルデヴィア総督が手がけていたオソルノ市(Osorno)建設をガルシア・ウルタード・ド・ メンドーサ総督が完成してサン・マテオ・デ・オソルノ(San Mateo de Osorno)と命名 12/13、キアポの戦い従軍、勝利 その後、オソルノ市でエルシラはライバルの叙事詩人フアン・ド・ピネダ(Juan de Pineda 1513- 1593)と衝突して戦いになり、教会に逃げ込む。総督は懲らしめで、両人を投獄。エルシ ラは3ヵ月後に釈放され、ペルーへ亡命 1562年、エルシラがスペインへ帰国 オーストリアの宮廷に出仕していた母の所へ旅行し、イタリアへも旅行 1570年、ドナ・マリア・ド・バザン(Dona Maria de Bazan)と結婚 1571年、サンチャゴ騎士団の騎士(knight of the Order of Santiago)となる 1578年にフェリペ2世(Philip II)のスペイン北東部の都市アラゴン州の州都でサラゴサ県の県都サラコザ(Zaragoza)作戦に従軍。最晩年は不遇な時期となり、息子を亡くす不幸に遭遇して、1594年にマドリードで亡くなりました。エルシラの偉大な著作の叙事詩「アラウコ戦記」は第1部を1569年に発表し、次いで第2部を1578年に、そして第3部を1589年に発表して完結し、アラウコ戦争(Arauco War、1536)とチリの実情を3部作37章で歌い上げました。 チリの中部で、北から縦に9番目の州ラ・アラウカニア州(Region de la Araucania)は、エルシラ没後に彼の叙事詩作品(La Araucana)に因んで名付けられました。なお、ラ・アラウカニア州はインカ帝国やスペインの侵攻に対抗し続けたマプチェ人(Mapuche Peaple)の故地であり、アラウカニア制圧作戦(Occupation of the Araucania、1861-1883)後の1885年にチリに併合されました。
マプチェ族:約8,000人 1546/2/11、キラキュラの戦い (Battle of Quilacura)、スペインの勝利 スペイン軍:大砲・騎兵など60人以上と現地インカ族多数 司令官:ペドロ・ド・ヴァルディヴィア(Pedro de Valdivia) マプチェ族:約1,500〜2,000人 1550/02/06、アンダリエンの戦い (Battle of Andalien)、スペインの勝利 スペイン軍:騎兵歩兵200人以上と現地人多数 司令官:ペドロ・ド・ヴァルディヴィア マプチェ族:戦士約8,000〜20,000人 1550/03/12、ペンコの戦い (Battle of Penco)、スペインの勝利 スペイン軍:騎兵歩兵200人以上と現地人多数 司令官:ペドロ・ド・ヴァルディヴィア マプチェ族:戦士約6,000人 司令官:族長アイナヴィロ(Toqui Ainavillo) 1553/12/25、ツカペルの戦い (Battle of Tucapel)、マプチェ族の勝利 スペイン軍:騎兵歩兵55人以上と現地人2,000〜5,000人 司令官:ペドロ・ド・ヴァルディヴィア(捕虜、他は全員が戦死) マプチェ族:戦士約5,000人 司令官:族長カウポリカン(Toqui Caupolican) 1554/2/23、マリフエニュウの戦い (Battle of Marihuenu)、マプチェ族の勝利 スペイン軍:大砲・騎兵歩兵など180人以上と現地人約1,400〜2,000人 司令官:ヴィラグラ(Francisco de Villagra Velazquez 1511-156)(84人戦死) マプチェ族:戦士約5,000人 司令官:族長ラウタロ(toqui Lautaro, 1534頃-1557/4/29) 1556/6-7、ペテロアの戦い (Battle of Peteroa)スペインの勝利 スペイン軍:騎兵歩兵など40人以上と現地人400人 司令官:ペドロ・ド・ヴァルディヴィア マプチェ族:戦士約300人 司令官:族長ラウタロ 1557/04/30、マタキートの戦い (Battle of Mataquito)、スペインの勝利 スペイン軍:騎兵歩兵など120人以上と現地人多数 司令官:ヴィラグラ マプチェ族:約700人と戦士約500人 司令官:ラウタロ族長(戦死) ヴァルデヴィア総督が戦後に捕虜となり刑死 1557/11/08、ラグリナスの戦い (Battle of Lagunillas)、スペインの勝利 戦場:ビオビオ川(Rio Biobio, 380km)河口 スペイン軍:5門の大砲隊、騎兵530人、歩兵200人と現地人約4000人 司令官:ドン・ガルシア・ウルタード・ド・メンドーサ 損害:スペイン2人戦死、重傷負傷者多数 マプチェ族:約8,000〜12,000人 司令官:ツルクピチュン族長(Turcupichun) 損害:300人戦死、150人捕虜、負傷者多数 1557/11/30、ミララプエの戦い (Battle of Millarapue)、スペインの勝利 スペイン軍:騎兵歩兵など600人以上 司令官:ドン・ガルシア・ウルタード・ド・メンドーサ マプチェ族:約20,000人 司令官:族長カウポリカン(toqui Caupolican, 1558年カニャーテ没) 夫人面前で串刺し刑(Impalement)の火炙り刑(Stake)で刑死 族長ツルクピチュン、連合軍 1558/12/13、キアポの戦い (Battle of Quiapo)、スペインの勝利 スペイン軍:騎兵歩兵など200人以上と現地人多数 司令官:ドン・ガルシア・ウルタード・ド・メンドーサ マプチェ族:約7,000〜8,000人 司令官:レムカギン族長(Lemucaguin)、イラングリエン族長(Illangulienn) 1564/2/1-4/1、コンセプシオン包囲攻撃戦 (Siege of Concepcion)、スペインの勝利 スペイン軍:兵200人大砲6隊と現地市民多数 司令官:ペドロ・ド・ヴィラガ(Pedro de Villagra y Martinez 1513-1577) マプチェ族:戦士約20,000人 司令官:ロブレ族長(Loble)、ミラレルモ族長(Millalelmo) 1564/03/04、アンゴルの戦い (Battle of Angol)、スペインの勝利 スペイン軍:銃隊歩兵60人、現地人協力隊600人 司令官:ロレンソ・デル・メルカド(Lorenzo Bernal del Mercado 1530-1593) マプチェ族:戦士約4,000人 司令官:イラングリエン族長 1569/01/07、カタイライの戦い (Battle of Catirai)、マプチェ族の勝利 スペイン軍:不明 司令官:マルチン・ド・ガンボア(Martin Ruiz de Gamboa de Berriz 1533-1590) マプチェ族:不明 司令官:ランガナバル族長(Llanganabal)、ミラレルモ族長 1598/12/21、クララバの戦い (Battle of Curalaba)、マプチェ族の決定的勝利 スペイン軍:銃隊歩兵50人、現地人協力隊300人 司令官:ドン・マルチン・ガルシア (Don Martin Garcia Onez de Loyola 1549-1598/12/24)、戦死 マプチェ族:戦士約300人 司令官:族長ペランタル(toqui Pelantaru) マプチェ族のスペイン居住地七市破壊:〜 (Destruction of the Seven Cities) ビオビオ川南地域(south of the Biobio River) ・1599、コヤ(Santa Cruz de Coya) ・1599、ヴァルデヴィア(Santa Maria la Blanca de Valdivia)、1602:再占領、1604:放棄 ・1599、ロス・インファンテス(San Andres de Los Infantes) ・1600、ラ・インペリアル(La Imperial) ・1602、ヴィラ・リカ(Santa Maria Magdalena de Villa Rica) ・1603、オソルノ(San Mateo de Osorno) ・1604、アラウカン(San Felipe de Araucan) ・チリ総督略伝:〜 (Royal Governor of Chile, (Kingdom of Chile) Captaincy General of Chile, 1541-1818) ・ペドロ・ド・ヴァルデヴィア、在任1540/8-1547/12 (Pedro Gutierrez de Valdivia, 1500-1553/12/25) ・フランシスコ・ド・ヴィラガ・ヴェラスケス、在任1547/12-1549/7/20 (Don Francisco de Villagra Velazquez, 1511-1563/7/22:コンセプシオン没) ・ペドロ・ド・ヴァルデヴィア、再任1549/7/20-1553/12/25 ツカペルの戦い(Battle of Tucapel、1553/12/25) 司令官:族長カウポリカン、族長ラウタロの連合軍 ・族長ラウタロはマタキートの戦いで戦死 ・ヴァルデヴィア総督は戦後に捕虜となり刑死 ・フランシスコ・ド・ヴィラガ・ヴェラスケス、再任1553/12-1555/2 (Francisco de Villagra, 1511-1563/7/22) カビルド(Cabildos of Chile:市参事会)の期間〜1555/2-1556/5 ペルーのリマによるアウディエンシア統治(最高司法行政機関) (Real Audiencia of Lima, Peru) ・フランシスコ・ド・ヴィラガ・ヴェラスケス、再任1556/2-1557/4 (Francisco de Villagra May) ・ガルシア・ウルタード・ド・メンドーサ、在任1557/4-1561/2 (Don Garcia Hurtado de Mendoza 1535-1609) ・フランシスコ・ド・ヴィラガ・ヴェラスケス 再任1561/2-1563/6 ・ペドロ・ド・ヴィラガ、在任1563/6-1565/6 (Pedro de Villagra y Martinez 1513-1577/9/11:リマ没) ・ロドリゴ・ド・キロガ、在任1565/6-1567/8 (Rodrigo de Quiroga Lopez de Ulloa 1512-1580/2/20:サンチャゴ没) チリのサンチャゴによるアウディエンシア統治(最高司法行政機関)の期間〜1567/8-1568/8 (Royal Audiencia of Santiago, Chile) ・メルチョール・ブラヴォ・ド・サラヴィア、在任1568/8-1575/1 (Melchor Bravo de Saravia y Sotomayor 1512-1577) ・ロドリゴ・ド・キロガ、再任1575/1-1580/2 ・マルチン・ルイス・ド・ガンボア、在任1580/2-1583/7 (Martin Ruiz de Gamboa de Berriz 1533-1590:サンチャゴ没) ・アロンソ・ド・サトマヨール、在任1583/9-1592/7 (Alonso de Sotomayor y Valmediano 1545-1610) ツクマン副総督(Royal Governor of Tucuman) ・フランシスコ・ド・アギーレ、在任1553-1555 (Francisco de Aguirre 1507-1581:ラセレナ没) こちらで、 ・新世界のスペイン人征服者コンキスタドールを お楽しみください。 参考HP:〜 ・チリの地図 ・チリの地図(州名が有) ・チリの地図(日本語、首都サンチャゴ、州名が有) ・チリの地図(日本語、Google Map) ・チリ居住地の場所地図(スペインとマプチェ族の天然の境界”BioBio River”有) ・上記はこちらの文献などを参照させてもらいました。 2014/8/14、令和6年 2024/12/24追記 |