Spain 国連 1988 発行 |
切手で綴る スペインの大航海 (Adventure Voyage)西回りインド大航海(1-1)
ファン・デ・ラ・コーサ
コーサの世界地図 |
大航海物語 スペイン編★ |
CONGO コーサ船長、カリブ海々図 (carte nautique) コンゴ 1992 発行 |
COUBA サンタ・マリア号 コロンブスの新大陸発見490年記念 キューバ 1982 発行 |
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SAINT LUCIA | ||
グレナダ島 |
コーサ1493年の航海地図 1493/11/3ドミニカ島発見 セント・ルシア 1992 発行 |
ドミニカ島 マルチニク島 セント・ルシア島 セント・ヴィンセント島 |
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カリブ海南部の地図 | ||
カリブ海 | アンティ|ル諸島 | |
ドミニカ 1978/11/1 発行 |
Jamaica | ||
フロリダ→ キューバ島→ ジャマイカ島→ メキシコ→ グアテマラ→ エルサルバドル→ ホンジュラス→ ニカラガ→ コスタ・リカ→ パナマ→ ダリエン湾→ ポルトベロ(赤丸)→ |
カリブ海沿岸の地図 マラカイボ湖 ジャマイカ 1992 発行 |
←イスパニョーラ島 ←プエルトリコ島 ←カルタヘナ(赤丸) ←ギヤナ ←南米大陸 |
コーサ船長は1499年〜1501年にかけて、7回も南アメリカ北海岸沿岸地帯を探検航海して、地図作成などに貢献しました。コーサは13回大西洋を横断し、南米コロンビアで亡くなりました。上記の切手の ”ポルト・ベロ” 付近が船長の終焉の地となりました。 |
ファン・デ・ラ・コーサ船長 Juan de La Cosa (1460〜1510/2/28) コーサ船長はスペイン・カンタブリカ地方のビスケー湾近くで生れるも、生年には諸説有。子供の頃から海に出ており、青春時代にはスペインから出帆した数多くの西アフリカ冒険航海に同行しました。 ・コーサ船長の大航海:〜 1488年バーソロミュー・ディアズの航海士(パイロット)として、喜望峰へ 1492年コロンブスの第一回航海で、サンタ・マリア号船長 1493年コロンブスの第二回航海で、マルガリータ号船長 1498年コロンブスの第三回航海で、ラ・ニーニャ号船長 1499年オヘーダの第一パイロットで、ヴェネズエラ方面へ 1500年バスティダスと共にウラバー湾(現ダリエン)方面へ 1503年ウラバー湾で、”ウラバー代執行官” 1506年ウラバー湾へ。 ・コーサ船長の業績 1500年世界地図を作成。 1502年スペインの特命全権大使としてポルトガルへ。 最初の記録は1488年にポルトガルに居て、バーソロミュー・ディアズの航海士としてリスボンを出帆し、喜望峰に到達した時からです。そしてポルトガルからスパイの嫌疑をかけられましたが、捕まる前に”その詳細な情報”をスペインに持ち出しました。 コーサ船長はクリストファー・コロンブスの航海の内の3つの航海に参加していて、 1492年のコロンブスコロンブスの第1回航海では旗艦”サンタ・マリア号”(Santa Maria)の船主で船長で、 1493年のコロンブスコロンブスの第2回航海では”マルガリータ号”(Marigalante)の”船長”兼”地図製作者”で、 1498年のコロンブスコロンブスの第3回航海では”ラニーニャ号”の船長を務めました。 |
コーサの世界地図 1500、”Mappa Mundi” 製作・発表 |
NICARAGUA ニカラグア 1992 発行 |
→アジア→ | ←ヨーロッパ 中央は ←アフリカ |
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アフリカ↑ | |||
1500 コーサの世界地図500年記念 2000 スペイン 2000 発行 |
キューバ、イスパニョーラ島付近の拡大図 ウガンダ 1992 発行 |
アフリカ付近の拡大図 ウガンダ 1992 発行 |
1499/5月にはアロンゾ・ド・オヘーダとアメリゴ・ヴェスプッチの遠征航海船隊の第1パイロット(水先案内人)となって、アンダルシア州カディス港から一緒に出帆。大西洋を横断して新大陸(南米)ガイアナ最大のエスカイボ川(Essequibo River, 1,014km)から、ベネズエラのバリア湾を経て、コロンビアのヴェラ岬(Cape Vela)までを探検航海しました。この遠征は経済的な財宝は得ることができませんでしたが、それにも勝る詳細な航海地図を書き上げることができました。1500/6月カディス港に帰港して、コーサは国王のためにアメリカ大陸を現した”96cm x 183cm”の世界地図を同年に作成しました。 1500年にはロドリゴ・ド・バステイダスが新大陸への航海許可を取り付け、コーサにどのルートを通るべきかを相談しましたので、コーサは助言し船団を準備し、同年10月にバスティダス、バスコ・ヌーニェス・ド・バルボアと一緒に大船団を組んでスペインを出帆し、ベネズエラからコロンビアのヴェラ岬を通過して、ウラバー湾(現ダリエン湾)を訪れ、コロンビアからパナマの東海岸北部にかけての沿岸地方を探検航海した後、現地ティエラ・フィルメ(Tierra Firme)で解散しました。1501年コーサはベネズエラ沿岸部の地図を作成すべく、南米海岸をパナマ地峡地帯まで探検航海して、1502年イスパニョーラ島(現ハイチ)に戻りました。この時作成された地図に、初めてベネズエラの地名が使用されました。コーサは1502年の終わり頃スペインに戻りました。ポルトガルが、スペインが発見した新しい土地に対して何度も攻撃してきたので、イサベラ女王はコーサを特命大使としてポルトガルへ派遣しました。 1503/4/3にイサヴェラ女王がコーサはを”ウラバー代執行官”に指名したので、ウラバー湾のパール(真珠)諸島の遠征に行き、1506年まで在職して現ハイチやジャマイカを訪問しました。1509年7回目で最後の航海を新大陸へと出帆しました。コーサは3隻の船に200人の移住者を乗船させ、オヘーダが100人の移住者を乗船させた1隻の船で合流し、オヘーダの指揮のもとハイチに到着しました。オヘーダとディエゴ・ド・ニクエサの間で先着の移住者の論争が起きた時、彼らはフランシスコ・ピサロの所へ行き、オヘーダの領域を侵犯してコロンビアのカルタヘナに上陸したので、コーサはより安全なウラバー湾の海岸に移住者を上陸させるように提案しました。上陸すると原住民の攻撃にあって、コーサは毒矢で打たれて50才で同地で亡くなりました。 ・参考:〜 ベネズエラのバリア湾はコロンブスの第3回航海(1498/5/31出帆)の時に発見されました。その後1500年に真珠貝採取の基地として、ベネズエラにサンティアゴ・デ・クバグア(南米最初の定住地)が創建されましたが、1541年の大地震で破壊されてしまいました。 参考HP:〜 ・ファン・デ・ラ・コーサの世界地図 ・上記はこちらの文献などを参照させてもらいました。 2007/4/30改訂、令和6年 2024/11/24 |