Spain

国連 1988 発行
切手で綴る スペインの大航海 (Conquist Voyage)インカ帝国征服(V-10
ヴァルディヴィア
1541
チリ・サンチャゴ市建設

大航海物語
 スペイン編

ESPANA
ヴァルディヴィア

新世界の功労者シリーズ
スペイン 1963/10/12 発行

Correos de Chile
サンチャゴの建設者ヴァルディヴィア

サンチャゴ建設400年記念
チリ 1941/1/23 発行
BULUGARIA
ペドロ・ド・ヴァルディヴィア

ブルガリア 1992/4/22 発行
Correos de Chile

”ESPANA A CHILE”とは
1960年チリ地震援助でスペインから無償提供
チリ地震救済寄付金付として発行

チリ 1961/4/29 発行

ESPANA
新大陸からスペインへお宝を運んだ
スパニッシュ・ガレオン船
Spanish Galeon


スペインから新大陸へは人と物資を輸送
スペイン 1964/7/16 発行
Correo Aereo CHILE
チリの場所地図

ロータリークラブのサンチャゴ会議記念
(チリの航空郵便切手)

チリ 1960/12/1 発行

ヴァルディヴィアはフランシスコ・ピサロのインカ帝国征服に参加しました。その後、ピサロの許可によりチリ征服をなし、サンチャゴ市を建設しチリ総督になりましたが、原住民の抵抗にあって亡くなりました。

ペドロ・ド・ヴァルディヴィア総督
  Pedro de Valdivia (1500頃〜1554/1/1 総督在位1540−1553)
  生地:スペインのエストレマドゥーラ地方バダホス県ビジャヌエバ・デ・ラ・セレーナ生
     (Villanueva de la Serena, Badajoz、Extremadura, Espana)
  没地:チリ共和国ビオビオ州(#8)ビオビオ県トゥカペル砦、52才頃拷問没
     (Fort Tucapel, Bio Bio Province, Bio Bio Region, Chile)
  肩書: 探検家(エクスプローラー)、征服者(コンキスタドール)、
      チリ・サンチャゴ市 (サンティアゴ・デ・ヌエバ・エクストレマドゥーラ)の建設者
 (Explorer, Cconquistador, Colonial settlement founder of Santiago de Nueva Extremadura)
ヴァルディヴィアはスペインのエストレマド−ラ地方で生まれ、1520年兵役に服し、翌年ベルギーのフランダースでカルロス5世の軍団の一員として戦いました。1522年から1525年までイタリイで軍務につき結婚しましたが、1535年その妻を残して、新大陸のヴェネズエラへと渡ってゆきました。

1537年頃、ヴァルディヴィアは同郷であったフランシスコ・ピサロのもとでペルー征服(インカ帝国征服)に参加しました。その後、ディエゴ・ド・アルマグロの遠征がチリ中部のコキンボまでだったので、ペルー南部のヌエバ・トレド(Nuevo Toledo)と呼ばれていた地方全体の征服を目指しての遠征をペルー総督のピサロに願い出て許可をとりつけ、チリ中部(ウォールマプ(Walmaple)北部)を確保するため13年間(1540-1553)のチリ征服遠征を行いました。

1540年クスコを出発してチリ方面征服の旅へと出かけました。1540年頃のペルーにはスペイン人は少数しか居ませんでしたし、ボリヴィア高知方面への遠征に失敗していましたが、150人のスペイン人が征服者(コンキスタドール)として遠征に参加しました。ヴァルディヴィアはアルマグロが遠征の帰路にたどったアタカマ砂漠を進みました。チリのコピアノ谷(Copiapo valley)に到着した時、彼はスペイン王の名において領有を宣言しました。その後もさらに南へと進んで、首都サンティアゴを2つに分けているマポチョ川(Rio Mapocho, 110km)の谷に1540/12月に到着し、恒久的な居住地を建設しようと決めました。

1541/2/12にチリの現首都のサンチャゴ(Santiago)市の前身の”サンチャゴ・デ・ラ・ヌエバ・エストレマド−ラ”市を建設し、盛大な祝賀式典を執り行いました。その時、捕らえた原住民の酋長ロンコ(Michima Lonco)からマルガ(Marga)金鉱脈の話を聞いてそれを探すべく、ペルーに支援依頼の急使を出していると、1541/9/11に原住民の攻撃にあい、サンチャゴの町は破壊され、町の建設は新しい支援物資の到着後の1543年まで滞りました。なお、1541年のサンチャゴ市建設後、すぐに100km離れた所にヴァルパライソ港(Valparaiso)を建設しました。

1543/9月にサンチャギロ号(Santiaguillo)で武器その他の支援物資が届きました。ヴァルディヴィアはフアン・ボウン(Juan Bohon)に命じて北部への遠征をさせ、チリ北部砂漠の高原でアンデス山脈の西にある長さ1,600kmの土地に広がるアタカマ砂漠中部のコキンボ谷(Coquimbo valley, Atacama Desert)付近コキンボ盆地にラ・セレナ市(La Serena)を1544/9/4に建設しました。

1546/2月ヴァルディヴィアは60人の騎手と現地のガイドやポーターを連れて南へと遠征し、イタタ川(Rio Itata, 140km)を渡り、ビオビオ川(Rio Bio-Bio, 380km)に着いて新しい町を建設しようとしましたが、原住民の攻撃を受けました。マプチェ族の戦士たちとキラクラの戦い(Battle of Quilacura, 1546/2/11)を戦うも敗れました。限られた兵力でそれ以上の敵対的な戦士との戦いは不可能だと悟ったバルディビアは、賢明にもその後すぐにサンティアゴに戻ることにし、1547/3月やむなくサンチャゴへと帰り、マプチェ族は領土を守り抜きました。

1536年から続くアラウコ戦争(Arauco War ,1536-1883, 1546-17世紀の終わりまで(1550-1662, 112年), (1550-1656, 106年)散発的に18世紀)のため、1547年から1548年にかけてペルーで人数を集め、1548/4/9にサクサワナの戦い(battle of Xaquixahuana, 1548/4/9)に勝利してチリ総督に任じられました。

1549年から1553年にかけてヴァルディヴィアはチリのさらに南部地方の征服をしました。原住民の激しい抵抗にあいましたがビオビオ川地方を1550年に征圧し、コンセプシオン(Concepcion)の町を建設しました。その後さらに南部に進出して数々の町を建設しました。サンチャゴに少しの間留まってから1552/12月に再びチリ南部へと戻りました。コンセプシオンと海岸部の砦と連携をとっていましたが、ツカペル(Tucapel)砦でスペイン人の圧政に苦しんでいた原住民のアラウカノ族(現在は忌避語でマプチェ族を使用, 2025/1/20)の反乱が起こり、援軍が来る前の1554年(53才)にヴァルディヴィアはラウタロ酋長に捕えられて、捕虜となり、「溶ける金を彼の財宝に飢えた喉に注ぐ」という刑罰で処刑されて亡くなりました。
   
(※)1552年にマプチェ族(Mapuche)の酋長ラウタロ(Lautaro, 1534?-1557/4/29, マタキートの戦い没)がトゥカペルの戦い(Battle of Tucapel, 1553/12/25)でバルディビアを打ち破って捕虜にして拷問の末に殺害しました。

参考:〜
・チリ地震
  1960 Valdivia earthquake, Great Chilean Earthquake
こちらでチリ大地震をお楽しみください。

・上記はこちらの文献などを参照させてもらいました。   2010/1/23追記、14/7/5、令和7年2025/1/20
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