・第1次蘭英戦争
(First Anglo-Dutch War, 1652/7/10〜1654/4/5)
第1次蘭英戦争は、イギリスが航海条令(Navigation Act 1651, 1651/10/9)を制定して、オランダがイギリス海峡を航海するのを制限したので、オランダが航海の自由を求めてイギリスとの間で3次にわたって蘭英戦争(オランダvsイギリス)が勃発した最初の戦争。
<第1次蘭英戦争の主な海戦>
第1次蘭英戦争は、航海法をきっかけに1652〜1654年に、クロムウェル(Oliver
Cromwell 1653-1658, イギリス市民戦争:English Civil War 1642-1652)のイングランド共和国(Commonwealth
of England 1649-1660)とネーデルラント連邦共和国(オランダ:United
Provinces of Netherlands(Dutch Republic),1579-1795)の間で戦われました。それは、17世紀になるとイングランド艦隊が新大陸アメリカや東インドなどからアメリカやアジアの富を満載して帰国するオランダ船団をイギリス海峡で襲撃し、拿捕し始めました。オランダ船の輸送に対するイングランドの海軍や私掠船の行動で、1651年にオランダの商船140隻が公海上で押収されました。1652年1月にはその1ヵ月だけで他のオランダ船50隻が拿捕され、イングランドの諸港に連れ去られました。ネーデルラント連邦共和国の議会(二院制スターテン・ヘネラール:Staten-Generaal,1464/1/9-)からイングランドに向けられた抗議は無駄に終わりました。イングランド議会はこれらオランダ船舶の奪取を抑えようとする傾向を何ら示しませんでした。また、1651/10月〜1652/7月に、100隻以上の他のオランダ船がイギリスの私掠船によって捕えられました。これらが戦争の真の原因だといわれています。
そのため当初はイギリス海峡の制海権が焦点となりました。当時オランダの造船能力は世界最高水準で、オランダ製の大型軍艦はすでに輸出商品として確立されていましたが、常設の大艦隊を保有しない方針であること、小型艦中心のオランダ艦隊は大型艦中心のスペイン艦隊に常に勝利し続けたこと、通商ルートの保護のためには小型艦の数を揃えた方が便利などの理由で、ブルジョア政治家たちは大型軍艦建造を承認しませでした。デ・ウィッテ提督ら一部の進歩的政治家や現場の海軍士官たちは大型艦の必要性に気づいていましたが、対応は遅れました。また、オランダの沿岸は水深が |
英仏海峡の地図
|
浅いため、喫水が深くなる大型艦が運用しづらいという事情もありました。さらに、海軍の費用での軍の拡張を支持していたオランダ総督オラニエ公ウィレム2世(第2代オランダ国王:王太子称号1815-1840(Willem
II、Willem Frederik George Lodewijk van Oranje-Nassau、1792-在位1840/10/7-1849/3/17、ワーテルローの戦い英軍で従軍)が亡くなると、連邦の防衛政策に一大変化をもたらし、北ホラント州アムステルダムと南ホラント州ロッテルダムにかかわる巨大な取引を保護する方向に進みました。すなわち、オランダ政府は1852/3/3に敵対的なイングランドの行動に対して効果的な哨戒と護衛とを実現するため、150隻の商船を借り上げ、これらを武装して大艦隊の編成を可能にすることに決しました。1652/3/12にその決定のニュースがロンドンに到着してイングランドに対する挑発と受けとめられ、これに対してイングランド側はよく装備された大型軍艦を投入して単縦陣という戦術でオランダ海軍と拮抗して戦争に備え始めました。
1652/5/29にシェットランド諸島近海から帰港中のイギリスの@ブレイク提督の艦隊とオランダ船舶を護送していた@トロンプ提督(父)の艦隊が遭遇してドーバーの海戦で交戦(1652/5/29)した後、イギリスがオランダに宣戦布告(1652/7/10)して第1次蘭英戦争が勃発してから1654年にかけて両国艦隊が交戦しました。オランダのトロンプ提督(父)艦隊は優勢な英国海軍ブレイク提督率いるイングランド艦隊に対して奮戦したものの、スヘフェニンゲンの海戦で@トロンプ提督(父)が戦死するなどしてオランダはイギリス海峡の制海権を失い、オランダ船団はスコットランドの西北からイギリス諸島を大きく迂回してオランダ本国に帰国しなければならなくなりました。オランダはイギリスと戦争状態になると、イギリスとの衝突を避けるためにイギリス海峡を通過する近道ではなく、船団は北に向かって遠回りを航行
(当時オランダ東インド会社の船舶で一般的に行われていた北上(イギリス諸島北周り)として知られている)しました。イギリス海軍はオランダ諸港の封鎖を続け、貿易立国のオランダは大打撃を受けた、と言われているも、本当のところは大した損害は蒙っていなかったという説もあります。そしてイングランドの護国卿となっていたクロムウェルは理想主義的なプロテスタント英蘭の対等な合邦論を唱えるも、オランダは航海条令を認め、1654年に和議に応じウェストミンスター条約が成立して第1次蘭英戦争は終わりました。
(6)レグホーンの海戦
(Battle of Leghorn, 1653/3/4) 蘭勝利
戦場:リグリア海イタリアのトスカーナ地方リヴォルノ州西海岸レグホーン港沖
(Off Leghorn, Livorno Province, Tuscany
Region, Italy, Ligurian Sea)
レグホーン海戦は、第一次蘭英戦争中にイタリア西海岸トスカーナ地方の港湾都市レグホーン近くの沖合のリグリア海で、蘭艦隊と英艦隊が戦った海戦。
イギリスのヘンリー・アップルトン艦長(Captain
Henry Appleton, 在任1650-1654)率いる艦隊がリチャード・バディリー艦長(Vice-Admiral
Richard Badiley, c1616-1656)艦隊に合流しようとしていたところへ、オランダの |
イギリス戦列艦々隊
アルマダの海戦400年記念
セントビンセント 1988 発行 |
ヨハン・ヴァン・ガレン艦長(Commodore Johan
van Galen, 1604-1653/3/13致命傷で3/23没)率いる艦隊が攻撃してきて、激戦の末にオランダ艦隊が勝利しました。その後、英の援軍バディリー艦長艦隊が現場に到着するも、すでに海戦は最終局面で、蘭艦隊に圧倒されて、アップルトン艦隊の最後の船の捕獲を観察することになってしまい、イタリアのトスカーナ州リヴォルノ県エルバ島ポルトロンゴーネ港(Elba
Island, Porto Longone, Livorno Province, Tuscany
region Italy)に戻ることを余儀なくされました。
それは、1652年にイギリス(イングランド連邦政府:Commonwealth
of England)は、ケンティッシュ・ノックの戦い(1652/9/28)で敗北した後、オランダ(連合州:United
Provinces)が季節の後半に艦隊を出すことをやめると誤って信じ、艦隊を地中海と本土の海域に分割しました。この艦隊の分割は、ダンジネスの戦い(1652/11/30)で敗北をもたらし、1653 年初頭までに、地中海の状況も危機的状況になっていました。そんな中で英アップルトン艦長の艦隊6隻は、オランダ艦隊16隻の封鎖でレグホーンに閉じ込められ、バディリー艦長の艦隊8隻はエルバ島にいました。イギリス艦隊の唯一の希望は両艦隊を統合することでしたが、アップルトン艦隊の出帆が早すぎて、バディリー艦隊が支援に来る前にオランダ艦隊と交戦しました。バディリー艦隊の3隻が拿捕され、2隻が破壊され、オランダ艦隊よりも速く航行していたメアリー号だけが逃れてバディリー艦隊に合流しました。バディリー艦隊はオランダ艦隊と交戦するも、数で大きく圧倒されて撤退しました。この戦いはオランダに地中海の支配権を与え、東地中海地域レバント(Levant)とのイギリスの貿易をオランダのなすがままにしました。
<レグホーンの海戦>〜 第1次 蘭 英 戦 争〜
・蘭英艦隊:〜(Dutch & British fleet)
(Order of Battle at the Battle of Leghorn's Fleet)
蘭英艦隊 |
主 力 |
総司令官 |
戦列艦損害 |
・オランダ艦隊 |
戦列艦16隻 |
ガレン艦長 |
不明 |
・イギリス艦隊 |
戦列艦15隻 |
アップルトン艦長 |
2隻沈没、3隻捕獲 |
・ガレン艦長の旗艦フェレーニグデ・プロヴィンシアン号(40gn)
・アップルトン艦長の旗艦レオパード号(48gn)
▼オランダ艦隊の編成:〜(Dutch Squadron)
総司令官ヨハン・ファン・ガレン艦隊(Noorderkwartier Admiralty) |
オランダの戦列艦
|
艦 名 |
(Ship) |
砲 |
メモ |
・フェレーニグデ・プロヴィンシアン号 |
Vereenigde Provincien |
40 |
旗艦 |
・エーンドラハト号 |
Eendracht |
40 |
|
・マーン号 |
Maan |
40 |
A(コルネリス トロンプ提督) |
・テル・ゴース号 |
Ter Goes |
40 |
|
・ゾン号 |
Zon |
40 |
|
・ズトフェン号 |
Zutphen |
36 |
|
・マールド・ファン・エンホイセン号 |
Maagd van Enkhuysen |
34 |
|
・ジョンゲ・プリンス号 |
Jonge Prins |
28 |
|
・ジュリアス・シーザー号 |
Julius Caesar |
28 |
|
・ウィッテ・オリファント号 |
Witte Olifant |
28 |
リヴォルノ港北で座礁、救助 |
・マドンナ・デッラ・ヴィーニャ号 |
Madonna della Vigna |
28 |
|
・ズワルテ・アーレンド号 |
Zwarte Arend |
28 |
|
・スザンナ号 |
Susanna |
28 |
|
・サロモンズ・オールディール号 |
Salomons Oordeel |
28 |
|
・ルード・ヘイズ号 |
Roode Haes |
28 |
|
・スター号 |
Star |
28 |
|
・など。 |
|
|
|
※フェレーニグデ・プロヴィンシアン号が英ボナベンチャー号を爆破
※エーンドラハト号が英レオパード号を捕獲
※火船が英サムソン号を焼失
※ズワルテ・アーレンド号が英ペグレン号を捕獲
※ズワルテ・アーレンド号が英レパント・マーチャント号を捕獲
▼イギリス艦隊の編成:〜(British Fleet)
総司令官ヘンリー・アップルトン艦隊(Capt. Henry Appleton's squadron) |
イギリス戦列艦ソブリン号
イギリス 2019 発行 |
艦 名 |
(HMS) |
砲 |
メモ |
・レオパード号 |
Leopard |
48 |
旗艦、捕獲 |
・ボナベンチャー号 |
Bonaventure |
44 |
爆沈 |
・サムソン号 |
Samson |
40 |
焼失 |
・メアリー号 |
Mary |
30 |
|
・ペレグリン号 |
Peregrine |
30 |
蘭が捕獲 |
|
・レバント・マーチャント号 |
Levant Merchant |
30 |
蘭が捕獲 |
|
リチャード・バディリー艦隊(Capt. Richard
Badiley's squadron) |
|
・パラゴン号 |
Paragon |
52 |
旗艦 |
・フェニックス号 |
Phoenix |
36 |
|
|
・エリザベス36世号 |
Elizabeth |
36 |
|
|
・コンスタント・ワーウィック号 |
Constant Warwick |
32 |
破損 |
|
・メアリー・ローズ号 |
Mary Rose |
32 |
|
|
・ルイス号 |
Lewis |
30 |
|
|
・ウィリアム・トーマス号 |
William and Thomas |
30 |
|
|
・トーマス・ボナベンチャー号 |
Thomas Bonaventure |
28 |
|
|
・チャリティー号 |
Charity |
|
火船、1652/8/27沈没プリマスの海戦後 |
・など。 |
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参考HP:〜
・レグホーン港の場所地図(Livorno, Italy)
・レグホーン港の地図(Livorno, Italy)
(8)スヘフェニンゲン沖の海戦
(Naval Battle of Scheveningen, 1653/7/31)引分
別名:テル・ハイデの海戦 (Naval Battle of Ter Heijde)
戦場:北海でオランダ・ハーグのスヘフェニンゲン地区沖合の海上
(North Sea of Off Scheveningen districts, Hague, Netherlands)
スヘフェニンゲンの戦いは第一次蘭英戦争の最後の戦いでイギリスとオランダの艦隊の海戦。オランダ艦隊は多大な損失を被るも、オランダ沿岸イギリス海軍の封鎖を解除するという当面の戦略目標を達成しました。 |
イギリスの戦列艦
セントビンセント 1988 発行 |
<スヘフェニンゲンの海戦>〜 第1次 蘭 英
戦 争 〜@トロンプ提督が戦死
・蘭英艦隊:〜(Dutch & British fleet)
(Order of Battle at the Battle of Scheveningen's
Fleet)
蘭英艦隊 |
主 力 |
その他 |
総司令官 |
戦列艦損害 |
・オランダ艦隊 |
戦列艦127隻 |
輸送船団 |
トロンプ提督(父) |
14〜30隻沈没 |
・イギリス艦隊 |
戦列艦120隻 |
- - - |
モンク提督 |
2隻沈没 |
・トロンプ提督の旗艦ブレデローデ号(Tromp's
flagship, Brederode 54gn)
・Aモンク提督の旗艦(?)
1653/7/31の午前7時頃、オランダ艦隊は有利な天候と風向きで、旗艦ブレデローデ号に率いられて攻撃するも、トロンプ提督はCウィリアム・ペン卿(父)の乗艦スピーカー号の狙撃兵によって戦闘の早い段階に撃たれて戦死しました。トロンプ提督の戦死死はオランダの士気を維持するために秘密にされした。午後遅くまでに、オランダの戦列艦の12隻が沈没または拿捕され、多くが損害を受けて戦いを続けることができませんでした。結局、士気は崩壊し、船団長の指揮下にある大規模な船団は北に逃亡。ワイズ提督はテクセル島への退却の支援に専念しました。イギリス艦隊もひどく損傷し、緊急の治療が必要な多数の負傷者が出て、艦隊の修理のためにイギリスの港に戻り、封鎖を維持できませんでした。イギリス軍は戦術的優位性を理由に、オランダ軍は攻撃の戦略的目標である封鎖の解除が達成されたため、双方が勝利を主張しました。そして、和平交渉が本格的に始まり、1654年にウェストミンスター条約が結ばれて第一次蘭英戦争が終結しました。
参考HP:〜
・オランダの場所地図
・オランダのスヘフェニンゲンの場所地図(Dutch Scheveninge〜British Harwich)
・スヘフェニンゲンの場所地図(Hague近郷)
※オランダ艦隊の各海軍本部 |
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|
オランダのドロメダ号
南アフリカ 1956 発行 |
・アムステルダム海軍本部艦隊 |
A |
Admiralty of Amsterdam's ships |
・ミデルバーグ海軍本部艦隊 |
M |
Admiralty of Middelburg's ships |
・マゼ海軍本部艦隊 |
MZ |
Admiralty of Maze's ships |
・ノーオーダー・クワーティア海軍本部艦隊 |
NK |
Admiralty of Noorder Kwartier's ships |
・ロッテルダム海軍本部艦隊 |
R |
Admiralty of Rotterdam's ships |
・フリシンゲン海軍本部艦隊 |
V |
Admiralty of Vlissingen's ships |
・ジーランディア海軍本部艦隊 |
Z |
Admiralty of Zealandia's ships |
|
|
|
※オランダの海軍提督
Cロイテル提督
|
Dエヴェツェン(長兄)
|
@トロンプ(父)
|
Rヘイン提督
|
Qガント提督
|
|
|
|
|
|
Bワィズ提督
|
Fエヴァツェン(五男)
|
Pフリース提督
|
Aトロンプ(子)
|
GエバツェンF次男
|
|
ナチス・ドイツ占領(1940/5/17-1945/5/7)オランダ 1943/1/15 発行 |
|
|
@中将マールテン・トロンプ、父 |
Lieutenant Admiral General Maarten Harpertszoon
Tromp |
1598/4/23-1653/7/31 戦死 |
MZ |
A中将コルネリス・トロンプ、子 |
Lieutenant Admiral Cornelis Maartenszoon
Tromp |
1629/9/3-1691/5/29 病 |
A |
B中将ウィット・デ・ワイズ |
Vice Admiral Witte Corneliszoon de With |
1599/3/28-1658/11/8 戦死 |
A |
C中将ミヒール・デ・ロイテル |
Lieutenant Admiral General Michiel Adriaenszoon
de Ruyter |
1607/3/24-1676/4/29 戦死 |
Z |
D中将ヨハン・エヴァツェン、長兄 |
Vice Admiral Johan Evertsen |
1600/2/4-1666/8/5 戦死 |
Z |
E中将コーネリス・エヴァツェンF従弟 |
Lieutenant Admiral Cornelis Evertsen the Younger |
1628/4/16-1679/9/20 病 |
Z |
F中将コーネリス・エヴァツェン, 五男 |
Lieutenant Admiral Cornelis Evertsen the
Elder |
1610/8/4-1666/6/11 戦死 |
Z |
G中将コーネリス・エヴァツェンF次男 |
Lieutenant Admiral Cornelis Evertsen the
Youngest |
1642/11/16-1706/11/16病 |
Z |
H中将コルネリス・デ・リーフデ、兄 |
Vice Admiral Cornelis Kees Evertsen de Liefde |
c1617-1673/9/29 致命傷 |
R |
I中将ヨハン・デ・リーフデ、弟 |
Vice Admiral Johan Evertsen de Liefde |
c1619-1673/8/21 戦死 |
R |
J少将ピーター・フロリッセン, 後中将 |
Rear Admiral Pieter Florissen(Vice Admiral) |
1602頃-1658/11/18 戦死 |
NK |
K中将ジェイコブ・ファン・ワッセナー |
Lieutenant Admiral Jacob van Wassenaer, Lord
Obdam |
1610-1665/6/13 戦死 |
V |
L中将エグベルト・バルトロメウシュ・コルテナー |
Lieutenant Admiral Egbert Bartholomeusz Kortenaer |
1604-1665/6/13 戦死 |
M |
M中将オーケ・ステリングヴェルフ |
Lieutenant Admiral Auke Stellingwerf |
1635-1665/6/13 戦死 |
Z |
N中将フォルケルト・シュラム |
Vice Admiral Volckert Schram |
c1620-1673/6/7 戦死 |
N |
O大将ゲント男爵ウィレム・ジョセフ |
Admiral Willem Joseph baron van Ghent |
1626/5/14-1672/6/7戦死 |
A |
P中将ティジェルク・デ・フリース |
Lieutenant Admiral Tjerk Hiddeszoon de Vries |
1622/8/7-1666/8/6 戦死 |
V |
Q大将ドラケンバーグ男爵ガント |
Admiral Willem Joseph baron van Ghent tot Drakenburgh |
1626/5/14-1672/6/7 戦死 |
WF |
R中将 ピート・ヘイン |
Lieutenant Admiral Piet Pieterszoon Hein |
1577/11/25-1629/6/18戦死 |
WF |
S中将 エイドリアン・デ・ハーゼ |
Vice Admiral Adriaan de Haaze |
c1634-1672/3/12 戦死 |
Z |
R中将アールト・ネス |
Lieutenant-Admiral Aert Jansse van Nes |
1626-1693/9/14 病死 |
|
S蘭宰相コルネリス・デ・ウィット、兄 |
Cornelis de Witt(兄の在任1653-1672) |
1623-1672/8/20 虐殺 |
|
(21)少将ヤン・ファン・ブレーキル |
Rear Admiral Jan van Brakel. #2-7, #2-4 |
c1638-1690/7/10 戦死 |
|
|
※c=頃 |
※WF:West F |
|
※エヴァツェン家の関係者
|
|
エヴァツェン提督
・中将ヨハン・エヴァツェン提督(ヨハン)D
(Vice Admiral Johan Evertsen, 1600/2/1-1666/8/5)
・中将コーネリス・エヴァツェン提督(エルダー)F
(Lieutenant Admiral Cornelis Evertsen
the Elder, 1610/8/4-1666/6/11戦死)
・中将コーネリス・エヴァツェン提督(ヤンガー)E
(Vice-admiral Cornelis Evertsen the Younger,
1628/4/16-1679/9/20)
・中将コーネリス・エヴァツェン提督(ヤンゲスト)G
(Lieutenant Admiral Cornelis Evertsen
the Youngest, 1642/11/16-1706/11/16)
・中将ゲリン・エバツェン(十男)
(Lieutenant Admiral Geleyn Evertsen, 1655/1/22-1711/7/25) |
Fエヴァツェン提督(五男)
|
|
|
・父 ヨハン・エヴァツェン(ジャン艦長, Captain
Jan)
(Johan Evertsen, "Jan de Kapitein" c1570-1617/6/28, 47才頃没)
・D長兄 中将ヨハン・エヴァツェン
(Vice Admiral Johan Evertsen,1600/2/4-1666/8/5,
Z, 66才没)
・夫人マーイケン・ゴーカム(Maayken Gorcum, 1600-1671)2男3女
・長男 ヨハン・エヴァツェン
(Johan Evertsen, 1624/9/15-1649, 25才頃没)
・E次男 中将コーネリス・エヴァツェン・ザ・ヤンガー(従弟)
(Vice admiral Cornelis Evertsen the
Younger, 1628/4/16-1679/9/20, 51才没)
・娘3人 |
Dエヴァツェン提督(長兄)
|
・次男 エヴァート・エヴァツェン
(Evert Evertsen, 1603/9/15-1625/12/31,
22才没)
・三男 ピーター・エヴァツェン
(Pieter Evertsen, 1606/5/07-1625/5, 19才頃没)
・四男 ジェリン・エヴァツェン
(Geleyn Evertsen, 1607/10/18-1627/5/03,
19才没)
・F五男 中将コーネリス・エヴァツェン・ザ・エルダー
(Lieutenant Admiral Cornelis Evertsen
the Elder, 1610/8/4-1666/6/11, 55才戦死)
・G次男 中将コーネリス・エバツェン・ザ・ヤンゲスト
(Lieutenant Admiral Cornelis Evertsen
the Youngest, 1642/11/16-1706/11/16, 64才没)
・十男 中将ゲリン・エバツェン
(Lieutenant Admiral Geleyn Evertsen,
1655/1/22-1711/7/25, 56才没) |
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・第1次ウェストミンスター条約
(Treaty of Westminster, 1654/4/5)
第1次ウェストミンスター条約は、
1654/4/5に締結された条約で、第1次蘭英戦争を終結させた講和条約。
オランダがイギリスの航海法を承認することで、公海上でのイギリスの優位を認めると共に、賠償金を支払い、ホラント州からのオラニエ・ナッサウ家(House
of Orange-Nassau, 1544-現在)の排除を決定しました。
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ウェストミンスター寺院
イギリス 1966 発行 |
・ウェストミンスター寺院
(Westminster Abbey, Westminster City, London, England. 1066)
別名:聖ペテロ修道教会(Saint Peter's Church in Westminster)
ウェストミンスター寺院は、正式には「ウェストミンスターの聖ペテロ教会(Collegiate
Churchat of Saint Peter at Westminster)」と呼ばれるイギリス・ロンドンのウェストミンスターにあるイングランド国教会の教会で、国会議事堂(ウェストミンスター宮殿:Palace
of Westminster)が隣接しています。1066年以来、イギリス君主の戴冠式(39人)の場所で、イギリス・スコットランドの君主(18人)、政治家などの埋葬地でもあります。墓地としてはすでに満杯状態で、新たに埋葬するスペースはなくなっています。1100年以降、王室の結婚式(少なくとも16
回)がこの修道院で挙行されました。教会の起源は定かではありませんが、10
世紀半ばまでにベネディクト会の修道士を収容する修道院がこの場所で運営されていたことは確かだといわれています。ここは、1987年にウェストミンスター宮殿と聖マーガレット教会(St.
Margaret's Church)と共にユネスコの世界遺産に指定されました |
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参考HP:〜
・オランダの地図(1672)
・オランダの区分地図(フランスの進撃図、1672)
・オランダ最大版図の地図(19世紀)
・オランダの地図(現在、道路地図)
・オランダの地図(現在、水面下を示す図)
・オランダの区分地図(現在、州・準州、サバ島・シントユースタチュウス島・ボネール島など有)
こちらで
・オランダ独立戦争(80年戦争、1568-1609-1621休戦-1648)
・ジャカルタの包囲戦(1618)蘭敗北
・マタンサス湾の海戦(1628/9/7)蘭勝利
・ダウンズの海戦(1639/10/21)蘭勝利
・北方戦争(Northern Wars, 1655-1661)
・ダンツィヒ包囲戦 (1655-1660)蘭勝利
・サウンドの海戦(1658/10/29)蘭勝利
・蘭英戦争(1652-1674)
・第1次蘭英戦争(1652-1654)
(1)ドーバーの海戦(1652/5/19)引分
(2)プリマスの海戦(1652/8/16)蘭勝利
(3)ケンティッシュノックの海戦(1652/9/28)英勝利
(4)ダンジネスの海戦(1652/11/30)蘭勝利
(5)ポートランド沖の海戦(1653/2/18)英勝利
(6)レグホーンの海戦(1653/3/4)蘭勝利
(7)ガッバードの海戦(1653/6/2)英勝利
(8)スヘフェニンゲンの海戦(1653/7/31)引分
・第2次蘭英戦争(1665-1667)
※欧州戦々の海戦
(1)ローエストーフト沖の海戦 (1665/6/13)
(2)ヴォーゲンの海戦 (1665/8/2)
(3)ノースファランド沖の海戦(4日海戦) (1666/6/11-6/14)
(4)セント・ジェームス・デーの海戦 (1666/7/25)
(5)ホームズ・ボンファイアーの海戦 (1666/8/19-20)
(6)第2次ダンジネスの海戦 (1666/9/17)
(7)チャタムの海戦(メドウェイの襲撃、1667/6/9-6/14)
(8)ランドガード砦の戦い (1667/7/2)
・第3次蘭英戦争(1672-1674)
(1)ワイト島沖の海戦(1672/3/12)
(2)ソールベー沖の海戦(1672/6/7)
(3)セントヘレナ侵攻(1673/5/5)
(4)スホーネヴェルトの海戦(1673/6/7)
(5)テクセルの海戦(1673/8/21)
(6)マスリパトナムの戦い(1673/9/1)
(7)ロナス・ヴォーの海戦(1674/3/14)
・第4次蘭英戦争(1780-1784)
をお楽しみください。
・上記はこちらの文献などを参照させてもらいました。 平成23年 2011/1/23、令和5年 2023/4/20
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