Aマタンサス湾の海戦
(Battle of Matanzas Bay, 1628/9/7〜9/8)
オランダの勝利
戦場:キューバ中西部北岸マタンサス湾近郊沖(Off Bay of Matanzas, Cuba)
マタンサス湾の海戦は八十年戦争(オランダ独立戦争:Revolt of Netherlands 1568-1648)中の海戦で、オランダ艦隊がスペイン宝船団(Spanish
treasure fleet, 1492-1640)を撃破して捕獲しまた。1628年にヘイン提督は旗艦の艦長にワイズ艦長Bを迎え、アメリカ植民地の銀を積んだスペイン宝物船団を捕獲するためにオランダを出帆。スペイン艦隊の一部はオランダ艦隊の一隻がベネズエラ沖のブランキージャ島(Blanquilla Island)で艦隊からはぐれて道に迷って捕らえられたため警告を受けているも、メキシコからの残りの半分は脅威に |
キューバ付近の地図
キューバ 1971 発行 |
気付かずに航海を続けていました。1628/9月ヘイン提督R艦隊がキューバのマタンサス湾で、メキシコとペルーで採掘された貴金属をスペインへ毎年輸送していた船団の一部を襲撃。スペイン船16隻が襲撃され、ガリオン船1隻は夜間に不意に遭遇して拿捕され、小規模商船9隻が説得されて降伏。小型船2隻が海上で追い抜かれ、逃走中のガレオン船4隻がマタンサス湾のキューバ海岸に閉じ込められました。オランダのスループ船からのマスケット銃による一斉射撃の後、これらの船も降伏し、オランダ艦隊が勝利。オランダ艦隊はスぺイン船団から金・銀・藍・赤染料コチニールなどの高価な交易品を11,509,524ギルダー(guilders)の戦利品を捕獲。オランダ艦隊は捕虜を捕えず、スペイン人乗組員にキューバのハバナへ行くのに必要な十分な物資を与えました。解放されたスペイン乗組員達は、ヘイン提督が個人的に流暢なスペイン語で指示を与えたのを聞いて驚きました。ヘイン提督は1603年以降スペインの捕虜だったため、スペイン語に精通していました。ヘイン提督艦隊は1629年にオランダに戻り、そこで英雄として讃えられました。戦利品のスペイン宝物はオランダ西インド会社にとってカリブ海における最大の勝利となりました。この資金はオランダに8ヵ月間も資金を提供し、スペイン領オランダの北ブラバント州ス・ヘルトーヘンボス要塞の占領(Siege of
's-Hertogenbosch, 1629)を可能にしました。ところが、この戦利品は当時としては巨額で、現在の貨幣価値で約5億ユーロ以上にも相当するともいわれて、その分配をめぐって大騒動にまで発展しました。特にヘイン提督には6,000ギルダー・乗組員には200ギルダーがそれぞれ与えられました。すると、多くの乗組員は不当な扱いを受けているとて、アムステルダムのオランダ西インド会社(WIC:Dutch
West India Company, 1623-1792)事務所は襲撃され、ヘイン提督はWICから過大な賞金を与えられているとして分け前を寄こせと脅迫されました。なお、ヘイン提督はスペイン宝物船団の大部分を捕獲した最初の人物ともいわれて、その時に銀の捕獲量が多かった世界中で銀の価格が高騰し、スペインはほぼ破産状態に陥ったとも語り継がれています。
<マタンサス湾の海戦>〜 オランダ独立戦争(80年戦争)〜
・蘭英艦隊:〜(Dutch & Spanish fleet)
(Order of Battle at the Battle of Matanzas
Bay's Fleet)
蘭英艦隊 |
主 力 |
総司令官 |
損害 |
・オランダ艦隊 |
31隻 |
ヘイン提督 |
無 |
・スペイン艦隊 |
21隻 |
バザン提督 |
12隻捕獲 |
マタンサス湾 |
ガレオン船4隻 |
|
4隻捕獲 |
その他 |
船舶17隻 |
|
8隻捕獲 |
・オランダ艦隊
・ヘイン提督〜旗艦アムステルダム号(総司令官)
・ワイズ提督〜旗艦アムステルダム号(艦長)
・ロンク提督〜ホーランズ・トゥイン号
・エイドリアン・ファン・トラッペン・バンケルト提督〜ネプチューン号
(Vice Admiral Adriaen van Trappen Banckert,
c1615-1684/4/22没)
・コルネリス・クラーズゾーン・メルクメイト提督〜ユトレヒト号
(Rear Admiral Cornelis Claeszoon Melckmeyt)
・スペイン艦隊
・フアン・デ・バザン提督
(Juan de Benavides Bazan. ?-1634/5/18,
セビリア没)
▼オランダ艦隊の編成:〜(Dutch Squadron) |
オランダの戦列艦
スペイン 1997 発行 |
艦 名 |
(Ship) |
メモ |
・アムステルダム号 |
Amsterdam |
旗艦、ヘイン提督・ワイズ艦長 |
・ホーランズ・トゥイン号 |
Hollandse Tuin(Garden) |
ロンク提督 |
・ネプチューン号 |
Neptune |
バンケルト中将 |
・ユトレヒト号 |
Utrecht |
メルクメイト少将 |
・ホーランディア号 |
Hollandia |
|
・ヘルダーラント号 |
Gelderland |
|
・プロヴィンス・ユトレヒト号 |
Provincie Utrecht |
(ユトレヒト州号) |
・ウィッテ・レーウ号 |
Witte Leeuw |
(White Lion:白ライオン) |
・ズワルテ・レーウ号 |
Zwarte Leeuw |
(Black Lion:黒ライオン) |
・ローデ・レーウ号 |
Rode Leeuw |
(Red Lion:赤ライオン) |
・ヴェルグルデ・ヴァルク号 |
Vergulde Valk |
(Gilded Falcon:金隼) |
・ハーレム号 |
Haarlem |
|
・ピナス号 |
Pinas |
|
・タイガー号 |
Tiger |
(Tiger:虎) |
・ゴウデン・ゾン号 |
Gouden Zon |
(Golden Sun) |
・ドルドレヒト号 |
Dordrecht |
|
・モニッケンダム号 |
Monnickendam |
|
・グリフィオエン号 |
Griffioen |
(Griffin:グリフォン) |
・グーデン・レーウ号 |
Gouden Leeuw |
(Golden Lion:金ライオン) |
(ヨット) |
|
(Yachts) |
・マイデン号 |
Muiden |
|
・ナールデン号 |
Naarden |
|
・エーンホールン号 |
Eenhoorn |
(Unicorn:一角獣) |
・ズワルテ・ロイテル号 |
Zwarte Ruiter |
(Black Ruiter) |
・ロングバーク号 |
Longbark |
|
・ポスパード号 |
Postpaard |
(Post horse) |
・ウード・フリシンゲン号 |
Oud-Vlissingen |
(Old Flushingen) |
・タイガー号 |
Tiger |
|
・オイエヴァール号 |
Ooievaar |
(Stork:コウノトリ) |
・ドルフィン号 |
Dolfijn |
(Dolphin:イルカ) |
・ヴォス号 |
Vos |
(Fox:狐) |
参考HP:〜
・マタンサス湾の場所地図
・ブランキージャ島の場所地図(La Blanquilla)
・ピーテル・ウィレムシュ・フェルヘフ提督
(Pieter Willemsz Verhoeff、c1573-1609/5/22)
フェルヘフ提督は、アムステルダム海軍本部の提督で、オランダ東インド会社(VOC, 1602-1799)に所属していました。1601年に八十年戦争(オランダ独立戦争, 1568-1648)でのベルギーのオステンデ包囲戦(Siege
of Ostend, 1601/7/5-1604/9/20)に従軍するも、スペインの勝利でオステンドがスペイン領オランダに併合されました。1607年のジブラルタルの戦い(Battle
of Gibraltar, 1607/4/25)では、総司令官ジェイコブ・ファン・ヘームスケルク提督(Vice
Admiral Jacob van |
赤丸がモルッカ諸島付近図
インドネシア 1963 発行 |
Heemskerk. 1567-1607/4/25, ジブラルタル戦死)の旗艦アイオロス号(Aeolus)の艦長を務め、オランダがスペイン艦隊21隻を撃破して勝利ました。1607年にアジアへ航海して、1609年にモルッカ諸島のバンダ諸島への遠征中に、そこでフェルヘフ提督と多くの乗組員はオランダVOCのためにスパイス貿易を交渉中に地元民に待ち伏せされて殺害されました。この暗殺はオランダによるバンダ諸島征服(Banda
Islands conquest, 1609-1621)の直接の原因となりました。それは、VOCがバンダ人が自国の製品をオランダ人にのみ販売できるようにスパイス貿易を独占することを目指して交渉するも、バンダ人は異国籍の外人購入者同士を対戦させるために自由販売を好んで、そのように交渉しました。交渉は順調に進み、村の長老たちはスパイスの価格を交渉するためと称して、5/22の会合にフェルヘフ提督を誘い出しました。そして交渉のため船を降りて浜辺にいたフェルヘフ提督と他の司令官2人を森の罠に誘い込み、そこで殺害(1609/5/22)。報復として、バンダの幾つかの村が略奪されて船も破壊されました。1609/6/15にバンダのカンポン・レベタケ族(Kampong
Lebetakke)はオランダによって完全に虐殺されました。ヘイン提督は当時まだ軍務に携わっていなかったため、おそらくこの行動には関与しなかったといわれています。1609/8月にVOCに有利な和平が締結され、バンダ人はスパイス貿易におけるオランダの権威と独占を認めました。
・暗殺の経緯:〜
フェルヘフ提督は1609/4/8頃にバンダ・ネイラ島に、贈り物と砦の建設の許可を要求するマウリッツ王子(ネーデルラント連合共和国の総督マウリッツ・ファン・ナッサウ伯オラニェ公(1618-):Prince
of Orange & Count of Nassau, Maurits
van Oranje、1567-1625/4/23/ハーグ没)からの手紙を持参して到着しました。部下たちは5月に建築用地の整地を開始し、その後バンダ人は飲料水を汚染する計画を思いついた。VOCはバンダ諸島に独占権を確立したいと考えたが、バンダ人は自由販売を好み、それによって異なる国籍の購入者同士を争わせることができた。村の長老たちは、スパイスの価格を交渉するためと称して、5/22の会合にフェルヘフ提督を誘い出した。長老たちは兵士の中隊を返還するよう要求し、兵士たちは帰還しました。その後、フェルヘフ提督と2人が村に案内されると、悲鳴を聞いて中隊兵士たちは引き返すも、到着が遅すぎ、3人はすでに斬首されていました。同日、船員24人が撲殺され、船長2人 |
キーリング船長
ココス諸島 1984発行 |
も殺害されました。フェルヘフ提督が以前に送り出した人質は翌日海岸で遺体で発見されました。最終的に、オランダ評議会役員(broad
council)の一部と、約46人の乗組員と兵士が死亡。ヤン・コーエン総督はヤン・ピーテルスゾーン・クーン総督となんとか逃亡。報復として1609/6月初旬に先住民の住居などに火を放って破壊しました。バンダ島のカンポン・レベタケ族(Kampong
Lebetakke)は虐殺されました。フェルヘフ提督暗殺にはイギリスのウィリアム・キーリング船長(1577-1619)がかかわったとされていて、キーリング船長は事件後にヘクター号で、17世紀のナツメグとメイス(Mace:ナツメグの仮種皮)の貿易にとって重要だったモルッカ諸島にあるラン島(Run
Island)へ逃亡したと伝わっています。
参考HP:〜
・インドネシア付近の地図
・ジャック・スペックス商人
(Merchant Jacques Specx、1585-1652/7/22)
ジャック・スペックスはオランダの商人で、1609年に日本と朝鮮との貿易を開始しました。スペックス商人はウィリアム・アダムス(三浦按針)の支援を受けて、1609/8/24に将軍徳川家康から広範な貿易権を獲得し、1609/9/20に長崎の平戸に貿易工場を設立しました。1629年までインドネシアのバタビア(現ジャカルタ)の暫定総督(Interim
Governor, ?-1629,Batavia没)を務めました。そこで1629/6月に日本人との娘サーチェ(Saartje
Specx,12才)が男15才(斬首刑)とのスキャンダルに巻き込まれてオランダへ戻りました。 |
リーフデ号
日本 2000 発行 |
故郷に戻ったスペックス商人は画商になりました。なお、日本人から南蛮(Nanban)ではなく紅毛(Red Hair)と呼ばれていたオランダ人は、1600年にリーフデ号に乗って初めて日本に到着しました。1605年にリーフデ号の乗組員の2人、ヤコブ・マッケルナーク船長(Jacob Quaeckernaeck, c1543-1606/9/21)とサントフォールト商人(Melchior van Santvoort, c.1570-1641)が、オランダ貿易を日本に誘致するために、徳川家康によってマレーシアのパタニ(Patani)へ派遣されました。パタニのオランダ商館長(Pattani
Dutch trading post)ヴィクトル・シュプリンケル(Victor
Sprinckel)は、東南アジアにおける反対派ポルトガルへの対応に多忙であるという理由で拒否したと伝えられています。
参考HP:〜
・平戸のオランダ商館(写真集)
・商人ヤン・ピーテルスゾーン・コーエン総督
(Jan Pieterszoon Coen, 1587/1/8-1629/9/21バタビア没)
コーエン総督はオランダの商人で、第4代オランダ東インド会社総督(VOC:在任1619-1623、1627-1629)。1603年にバンテン港にオランダ商館が開かれて、それを足場にして1612年に儲かるナツメグ貿易のオランダ独占を達成。1619年にバンテンの東にあるバタヴィアに城砦を築いてバタビア交易所の設立して、オランダ東インド会社の本拠地をここに定め、そこはオランダ領東インド(現ジャカルタ)の首都に成長しました。そのため、バンテン王国はイギリスと連合してこれを攻めるも失敗しました。1623年に蘭領東インド(現インドネシア) |
奴江戸兵衛
日本 1984 発行 |
のモルッカ諸島アンボイナ島にあるイギリス東インド会社商館をオランダが襲って英商館員を全員殺害したアンボイナの虐殺(Amboyna
massacre)とも称されるアンボイナ事件(1623)でオランダの香辛料貿易、特にナツメグ、メース、クローブの貿易独占権を獲得するも、指揮官のコーエン総督はバンダ諸島での血なまぐさい暴力的な弾圧で「バンダの肉屋」(Butcher
of Banda)というあだ名が付けられて批判されて失脚するも、1627年に復帰しました。なお、この事件でイギリスの香辛料貿易は頓挫してオランダが同島の権益を独占し、東南アジアから撤退したイギリスはインドへ矛先を向けることとなりました。1628年(寛永5年)に台湾という国名の由来になった台南市安平区の当時のオランダ名「タイオワン」で長崎代官の末次平蔵(c1546-1630/7/5幕臣が斬殺)とオランダ領台湾行政長官ピーテル・ノイツ(Pieter
Nuyts、1598-1655)との間で起きた紛争のタイオワン事件(Tiowan
Incident)が起きると、事態収拾のため日本へ使節を派遣しました。1628年と1629年の二度、ジャワ島中部のジョグジャカルタ地方のマタラム王国(Sultanate
of Mataram, 1586-1755)が、バタビアを包囲。マタラム軍は武装が不十分で食糧も不十分だったためバタビアを占領できませんでしたが、マタラム軍の第二次包囲中にバタビアでコレラが発生してコーエン総督が感染して亡くなりました(戦没)。
参考HP:〜
・アンボン島の地図(アンボイナ島:Ambon)
・コルネリス・マテリーフ・デ・ヤンガー提督
(Cornelis Matelieff de Younger, 1570-1632/10/17、生没地ロッテルダム)
マテリーフ提督は、17世紀初頭に東南アジアでのオランダの勢力確立に活躍したオランダの提督で、ロッテルダムの裕福な船長の息子でした。1605/5/12に表向きには貿易任務に就いているも、その真の目的はポルトガルと戦って、その地域のポルトガル勢力を駆逐するためオランダ艦隊11隻と、ナッソー艦隊(1623)で世界一周をなして1624年にペルーの首都リマ西部カヤオ(Callao)を襲撃して亡くなったレルミット提督(Jacques
l'Hermite, c1582-1624/6/2)と兵600人を含む1,400人を率いてゼーラント州ゼーラント島(Zeeland Island)を出帆してマレーのジョホール(Johor)へ向かいました。それはVOCがポルトガル船を停船させる指示を出した2度目の大規模作戦でした。1606/1月にマテリーフ提督は |
ゴア
マカオ 1984 発行 |
モーリシャス島に到着して、同島を初めて詳しく紹介しました。その木々・果物・クマネズミ(Black
rat)・マカク(Macaque)・ドードー(Dodo)・マカクザル(Makaak aap)などについて解説。同月にそこでモルッカ諸島から帰国途中だったスティーブン・ファン・デル・ハーゲン提督(Steven
van der Hagen, 1563-1621、VOC初代提督)に出会いました。
1606/4月にポルトガル領のマラッカに到着・上陸し、数ヵ月にわたり包囲して砲撃で現地人など約6,000人が亡くなる、アンドレ・デ・メンドンサ(Andre
Furtado de Mendonca, 1558-1611/4/1)指揮下のポルトガル軍とその同盟者の朱印船できた日本の武士の部隊によって陸上で撃退されました。1606/5月にマテリーフ提督はジョホール州の統治者でマラッカ王国末裔のジョホール・スルタン国(Sultanate of
Johor)スルタン・アラウディン・リアヤット・シャー3世(Sultan
Alauddin Riayat Shah III 在位1597-1615)と、オランダがジョホールと貿易できるようにマラッカに商館を建設して、ポルトガル人を追放し、オランダ人とマレー人は互いの |
朱印船
日本 1937 発行 |
宗教を容認することにも同意する正式な協定を結び、ポルトガル人を追放しました。1606/8/14にインドのゴアからポルトガル第35代インド総督マルチン・デ・カストロ(1605-1607/1)が率いるポルトガル艦隊20隻がマラッカ海峡に現れたとき(第一次マラッカの戦い,
1st battle of Malacca, 1606/8/14)、叔父のヤコブ・マッケルナーク船長が戦死しました。ポルトガルは数ヵ月後にマラッカを去り、マテリーフ提督は再び攻撃してポルトガルに大打撃を与えることに成功しました。オランダは30年以上後、最終的にマラッカの支配権を獲得し、新たな同盟国のインドネシア・スマトラ島北端アチェ州にあったアチェ・スルタン国(Sultanate
of Aceh, 1496-1903)とも再び同盟を結びました。1606/9/21にカストロ総督がポルトガル艦隊10隻を残してマラッカを去ってゴアへと出帆したとき、マテリーフ提督がポルトガル艦隊を攻撃して第二次マラッカの戦い(2nd
Battle of Malacca, 1606/9/21)が勃発。マテリーフ提督はこれらの船を攻撃し、なんとか全ての船を沈没または燃やしましたが、マテリーフ提督は6隻の船を失いました。1608/11/10に南ホラント州ハーグ(Hague)に到着・帰国。1632年にロッテルダムで亡くなりました。
参考HP:〜
・マラッカ王国の場所地図(Malacca Sultanate)
・メルヒオール・ファン・サントフォールト商人
(Merchant Melchior van Santvoort, c1570-1641)
サントフォールト商人は、江戸時代初期のオランダ人の長崎貿易商人(Dutch
trader)で、1600年リーフデ号で日本に漂着(豊後の臼杵)し、パタニ王国(Pattani Kingdom, c1457-1902)とを行き来した後、堺を拠点に貿易を営んだ後、1615年大坂の陣(Siege of Osaka, 1615/5月:慶長20)を避けて長崎に移り、1639年の鎖国令(National Isolation
Order, 1639-1854)でバタヴィア(Batavia:現インドネシア首都ジャカルタ)に追放され、2年後に亡くなりました。 |
リーフデ号
日本 2000 発行 |
参考:〜
サントフォールト商人は、1598/6月にリーフデ号に書記(Clerk)として乗組みロッテルダムを船団5隻にて出帆。マゼラン海峡通過後の太平洋で悪天候などで離散。チリ南部沖で旗艦のホープ号と合流して日本を目指すも、航海中にホープ号は沈没、再び単独での航海となりました。出帆時は110人ほどなるも、1600(慶長5)/4/19に豊後国佐志生に漂着した時の生存者は24人。生存者の中でも立つことが出来たのは6人のみで、重傷者が多く翌日に3人が死亡。翌年中までに更に7人が死亡し、最終的な生存者は14人となりました。生存者の中には、この堺で貿易商となったサントフォールト商人の他に、江戸幕府の外交顧問になったヤン・ヨーステン(耶楊子)や、日本に初めて来たイギリス人(イングランド人)ウィリアム・アダムス(三浦按針)、船長のヤコブ・マッケルナークなどもいました。
参考HP:〜
・豊後の場所地図(現:大分県)
・ヤコブ・マッケルナーク船長
(Jacob Jansz. Quaeckernaeck, c1543-1606/9/21)
ヤコブ・マッケルナークは、オランダ人航海士で、後のリーフデ号の船長。
マッケルナーク船長は、1598/6/24に5隻の船団でロッテルダム港を出帆した時はリーフデ号の航海士でしたが、航海の途上にて南米チリ沖のモチャ島(Isla Mocha, provincia de Arauco,
Region del Biobio)で、前任の船長シモン・デ・コルデス(Simon
de Cordes, c1559-1599/11/11)が原住民インディオに殺害されたために船長となり、太平洋横断を指揮しました。1600年にリーフデ号が日本の豊後国(現大分県)に漂着した後は徳川家康に仕えました。1605(慶長10)年には家康からオランダ総督オラニエ公に宛てた親書を携えて、 |
マラッカ
マカオ 1984 発行 |
リーフデ号の乗員サントフォールト商人と共にオランダ東インド会社(VOC)の交易拠点でオランダ商館のあるマレー半島パタニ(Pattani, Malay Peninsula)へと航海。1605/12/2にオランダ商館は休業状態だったため、1606/9月帰国の途に就いたものの、マラッカ海峡でポルトガル人に殺害されました。
参考HP:〜
・マラッカ海峡の場所地図
・マラッカ海峡付近の地図
参考HP:〜
・スペイン宝物船団の航路地図(白線:西回り:マニラガレオン航路、青線:東回り)
・パンダ諸島の地図(Panda Islands)
・卓越風の地図(卓越風(Prevailing winds)の風配図:ウインドローズ、Wind
rose)
・テクセル島の場所地図
・オランダの地図(1672)
・オランダ最大版図の地図(19世紀)
・オランダの地図(現在、水面下を示す図)
・ジャワ島の場所地図(インドネシアの地図)
・ジャワ島の地図(地勢図)
・ジャワ島バンタムの場所地図(Bantem, Jakarta有)
こちらで
・蘭英戦争(1652-1674)
・第1次蘭英戦争(1652-1654)
・第2次蘭英戦争(1665-1667)
・第3次蘭英戦争(1672-1674)
・第4次蘭英戦争(1780-1784)
をお楽しみください。
・上記はこちらの文献などを参照させてもらいました。 令和5年 2023/9/20
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