Netherland 国連 1989 発行 |
切手で綴る 蘭英戦争(Naval Battle Voyages)
オランダ海軍の提督 No.19
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大航海物語 オランダ編★ |
NEDERLAND Rヘイン提督 オランダ 1943-44 発行 |
JERSEY 英仏海峡の地図 ジャージー 1970 発行 |
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NEDERLAND オランダの地図 オランダ 1972 発行 |
REPUBLICA DE GUINEA ECUATORIAL 海戦の図 赤道ギニア 1975 発行 |
ヘイン提督は20才頃にスペインの捕虜になりガレー船の漕手で4年を過ごして捕虜交換で釈放された後に船長となって巨万の富を築きました。44才頃にオランダ西インド会社の役員になり、47才頃にサンサルバドールで22隻のポルトガル船を拿捕。49才でマタンサス湾の海戦に勝利してスペイン宝物船団を捕獲。その戦利品は4百万ダカットで、これがオランダ共和国南部のスペイン領オランダ(現ベルギーとルクセンブルク)の支配をめぐってスペインとの戦いの戦費を得ることができたといわれています。その後に退役する予定なるも、1629年にオランダ中将として呼び戻されてオランダ共和国全艦隊の指揮を任されました。1629/6/18にスペインの北海ダンケルク海賊を一掃するよう命じられて海賊を撃破するも戦死しました。 |
蘭提督ピーテル・ピーテルスゾーン・ヘイン中将R(通常はピート・ヘイン提督(Piet Heyn)と呼ばれる) (Dutch Luitenant Admiral Pieter Pieterszoon Hein, 1577/11/25-1629/6/18, 仏ダンケルク近く51才戦没) ヘイン提督はオランダの南ホラント州デルフスハーフェン(Delfshaven:現ロッテルダムの一部:Rotterdam)で船長ピーテル・コルネリスゾーン・ハイン (Pieter Corneliszoon Hein, ?-1623) とニールトゲン・クラーシュ(Neeltgen Claeszdochter)の娘の息子として生まれて、オランダ独立戦争(八十年戦争, 1568-1648)と第一次蘭英戦争(1652-1654)に従軍したオランダ共和国(Dutch Republic, 1579-1795)の海軍提督でした。また、ヘイン提督は1628年のスペイン領アメリカからスペインへ大量の金銀を輸送していスペイン宝物船団(Spanish treasure fleet, 1492-1640)の大部分を捕獲した最初の人物ともいわれて、その時に銀の捕獲量が多すぎたために世界中で銀の価格が高騰してスペインはほぼ破産状態に陥ったとも語り継がれています。 ・幼少期・監禁時代(ガレー船漕手) (Childhood, Captivity time) ヘイン提督の若い頃については、読み書きを学んだことと、3人の弟ヤコブ(Jacob)・シモン(Simon)・コルネリス(Cornelis)がおり、全員商人になったこと以外はほとんど知られていません。10代で船乗りになって最初の
・モルッカ諸島へ遠征 (Expedition to the Moluccas, 1607-1612)オランダ東インド会社(VOC) 1607年末にオランダ東インド会社(Dutch East India Co., 1602-1799, VOC)に入社して、スパイス貿易のピーテル・フェルヘフ提督船団のホーランディア号(Hollandia)に航海士(Mate)として乗組んでモルッカ諸島(Moluccas)へとオランダを出帆しました。その艦隊には商人ヤン・ピーターゾーン・コーエン(後の総督)や、日本の平戸へ向かう途中だったジャック・スペックスなどと、ポルトガル船がモザンビークに入港するのを阻止し、ゴア港を封鎖し、コルネリス・マテリーフ・デ・ヤンガーが以前失敗したマラッカ征服を再度試みるために兵士約750人が乗船していました。
・ヴェネツィア遠征 (Venetian Expedition, 1612-1623) 帰国後、ヘイン船長はロッテルダムに定住し、1612年にアネケ・クラエス(Anneke Claes)の娘で、1611年にモルッカ諸島で亡くなった12才年上の同僚ヤン・デ・ウィス(Jan de With)未亡人レウス(Reus)と結婚。 ヘイン船長は倹約家で、1613年には自分の船、スファエラ・ムンディ号(Sphaera Mundi)を所有していて、1614年にルーヴェハーフェン(Leuvehaven)に大きな家を 2900ギルダーで購入するほど裕福でした。
1623/11月にヘイン船長は西インド会社(WIC, 1621-1792)に入社。ヘイン船長はブラジルのサルバドール市を攻撃するよう命じられ、スペインとポルトガルの商船を攻撃する許可をオランダ総督(States General of Netherlands)から得ていたので、敵勢力に属する船舶を拿捕して勲章を与えられました。
1624/11/21、ヘイン提督はルアンダ封鎖を断念し、コンゴ王国(Kongo Kingdom, c1400-1888)との接触を試みるも無駄に終わりました。コンゴ王国は以前、ポルトガルと同盟を結ぶ意向を示して和解していることが判明しました。ヘイン提督は1625/2/2にサンサルバドール市に向けて再び出帆するも、1625/4/18サンサルバドールを包囲していたスペインの初代バルドゥエサ侯爵ドン・ファドリック・デ・トレド(Don Fadrique de Toledo, 1st Marquess of Valdueza, 1580-1634)の艦隊の存在に驚愕。ヘイン提督は市の救援に来るには余りにも弱すぎて、再征服のことは知らずにオランダから5週間後の1625/5/26に到着したブーデワイン・ヘンドリクス提督(Admiral Boudewijn Hendricksz, 1626没)の補助艦隊を見つけることができませんでした。1625/5/5にヘイン提督はサンサルバドールが陥落したことを知り、船でオランダへと戻りました。その結果、補助艦隊もサルバドールを奪還できるだけの戦力はありませんでした(サンファンの戦い, 1625/9/29)。 サルバドルは包囲攻撃戦の末、1625/4/30にスペイン艦隊に降伏。ヘイン提督は1625/7月にオランダ到着・帰国。1625/8/9にオランダ総督オラニエ公フレデリック・ヘンドリック(States General Frederik Hendrik van Oranje, 1584/1/29-在位1625/4/23-1647/3/14)に報告して、金メダル(gold medal)付きの名誉の金鎖(Gold Chain of Honor)を拝受。同年、画家ヤン・デーメン・クール(Jan Daemen Cool, 1589-1660)に肖像画を描いてもらいました。幾つかの複製が未だにあります。
1626年にヘイン提督はウィレケンス提督(Jacob Willekens, 1564-1649)と共にブラジル南東部リオデジャネイロ(Rio de Janeiro)攻撃の成功にも参加することになるも、誰が指揮を執るかをめぐる論争の後、両者は袂を分かち、ウィレケンス提督はアムステルダムへと出帆しました。 ヘイン提督は他の艦隊と連絡がとれなかったためにブラジルのサンサルバドールへ向けて出帆しました。季節的な卓越風(Prevailing winds)のため、大きな迂回が必要となって艦隊は、まず北へ航行してアゾレス諸島に戻り、1627/1月にシエラレオネに到着。1627/1/19にそこをブラジルへと出帆。大西洋を横断し、1627/2/25にブラジル海岸が視界に入りました。9隻の艦隊ではサルバドール港を奪還するには弱すぎるも、港外に停泊して
・ヘイン提督艦隊はスペインへ向かうスペイン宝物艦隊を襲撃する。 ヘイン提艦隊の旗艦はアムステルダム号(Amsterdam, 50gn)で、艦長はワイズ艦長。他にエイドリアン・バンケルト中将(Lieutenant Admiral Adriaen van Trappen Banckert, c1615-1684/4/22)の父でWICゼーラント会議所(Zeeland Chamber, WIC)のヨースト・ファン・バンケルト中将(Vice Admiral Joost van Trappen Banckert, c1597-1647/9/12)を随伴して、1628/4/13に銀・藍・コチニール(Cochineal:赤い染料)などを積んでスペインへ向かうスペイン艦隊を襲撃するという明確な目的を持って、31隻の船と兵4,000人を率いて出帆しました。スペインの災難(scourge of Spaniards)と呼ばれていたヘイン提督・ワイズ提督・バンケルト提督のこれらの海戦は幸運に恵まれて成功しました。ペルーからスペインへ銀を運ぶ南米のテラ・ファーマ艦隊(Terra Firma fleet)はヘイン艦隊がその地域にいることが明らかになって港に留まりました。メキシコのセント・ジェームス艦隊(St James's fleet)は警告が間に合わずキューバに向かうと、そこで嵐で一部がハバナ付近で待機していて帰ろうとしていたオランダ艦隊の方へ向かってマタンサス湾の海戦(1628/9/7)が勃発し、翌9/8にヘイン提督艦隊はスペイン船15隻を戦わずして拿捕しました。遠征全体を通じてヘイン提督艦隊の損害は病気と脱走で失った150人でした。1628/9/17にヘイン艦隊はオランダへの帰国のために出帆。先頭のサロモン・ウィレムゾーン艦長(Salomon Willemszoon)のオイエヴァール号(Ooievaar)は猛スピードで航海して1628/11/15にロッテルダムに到着。翌日、艦長はオランダ総督オラニエ公に報告すると、大喜びで金メダル付の名誉金鎖(Gold Chain of Honor)を授与しました。 ヘイン提督はオランダとイングランドとの援助条約で陸揚げした皮革の積荷に対して輸入税を支払わなければならないかどうかについての外交上の論争でイングランド南西端コーンウォール州南海岸ファルマス港(Falmouth harbour)に立ち寄り、1629/1/3にファルマス港を出帆。1629/1/9に南ホラント州ゲーリース・ガット(Goereese Gat)に帰港。帰国後、彼は北ホラント州の首都アムステルダム、同州ハールレム(Haarlem)、南ホラント州ライデン(Leiden)ではライデン市庁舎の階段で熱狂的な群衆から拍手を受け、英雄として大歓迎されました。多くの宴会や公の祝賀会が開催され、花火による公の祝賀行事がさらに盛り上がりました。この勝利がどれほど偉大なものであったかを全世界に明らかにするために、すべての国境の町と大使館は祝賀することが義務付けられるほっどでした。1629/2月にはオランダ総督オラニエ公から金の名誉の鎖を受け取りました。 WICの株主は50%の配当を受け取り、株価格はさらに225%上昇しました。WICの理事エレン19人は共同で利益の1%を受け取り、オランダ総督は10%という巨額の報酬を受け取りました。ヘイン提督は月給約350ギルダーでしたが賞金6,000ギルダーを受け取りました。乗組員はわずか17ヵ月分の賞金だけでした。ヘイン提督には金銭で支払うか赤い染料コチニールで支払うかの選択が与えられて現金を選択するも、直後に彼の行動のせいで赤い染料の価格が急騰していることに気づき、結局現物で支払うよう求めました。これは拒否されました。乗組員の多くのは不当な扱いを受けていると感じて、アムステルダムのWIC事務所は襲撃され、ヘイン提督は人々が自分や妻に補償を求めて脅迫されることを恐れていました。
1629/5/29にヘイン提督はダンケルク私掠船(Dunkirk privateers)に対抗するため、フリーヘンデ・グルーネ・ドラエック号(Vliegende Groene Draeck)に座上して艦隊を率いて南ホラント州ヘレヴォエツロイス(Hellevoetsluis)を出帆するも、私掠船団は未だ出帆していないことが判明。1629/6/17にベルギーのフランドル地方ウェスト=フランデレン州西フランドル県オステンド港(Ostend, West Flemish prefecture, West Flanders province, Flemish Region, Belgium)のオーステンデ私掠船3隻を迎撃。その海戦でヘイン提督はオーステンデ私掠船2隻、ジェイコブ・ベサージュ提督(Admiral Jacob Besage)と別の中将(Vice Admiral)の私掠船船との間に自分のフリーヘンデ・グルーネ・ドラエック号を滑り込ませ、両方に同時に完全な打撃を与えるも、私掠船の8ポンド砲弾が左肩に当たって戦死するという最悪の結果に終わりました。それでもオランダ艦隊が戦いに負けずに成功したのは、提督旗艦の艦長トロンプ提督の功績でした。私掠船2隻が捕らえられ、乗組員はトロンプ提督の命令でその場で絞首刑にされました。同じ戦いで戦死したオーステンデ私掠船船長ベサージュ提督の遺体を乗せた3隻目の私掠船は、大破してオステンド港に帰還しました。ヘイン提督は1629/7/4にデルフトの旧教会に盛大に埋葬され、後の1870年にヘイン提督の像がロッテルダムのデルフスハーフェン区(Delfshaven)に設置されました。 参考HP:〜 ・スペイン宝物船団の航路地図(白線:西回り:マニラガレオン航路、青線:東回り) ・パンダ諸島の地図(Panda Islands) ・卓越風の地図(卓越風(Prevailing winds)の風配図:ウインドローズ、Wind rose) ・テクセル島の場所地図 ・オランダの地図(1672) ・オランダ最大版図の地図(19世紀) ・オランダの地図(現在、水面下を示す図) ・ジャワ島の場所地図(インドネシアの地図) ・ジャワ島の地図(地勢図) ・ジャワ島バンタムの場所地図(西部にBantem・Jakarta有) こちらで ・蘭英戦争(1652-1674) ・第1次蘭英戦争(1652-1654) ・第2次蘭英戦争(1665-1667) ・第3次蘭英戦争(1672-1674) ・第4次蘭英戦争(1780-1784)
・上記はこちらの文献などを参照させてもらいました。 令和5年 2023/9/23 |