Netherland 国連 1989 発行 |
切手で綴る 蘭英戦争(Naval Battle Voyages)
オランダ海軍の提督 No.5
ヨハン・エバツェン提督(長兄) 1653 ポートランド沖の海戦 |
大航海物語 オランダ編★ |
NEDERLAND エヴェツェン(長兄) オランダ 1943-44 発行 |
JERSEY 英仏海峡の地図 ジャージー 1970-75 発行 |
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NEDERLAND オランダの地図 オランダ 1972 発行 |
・蘭提督ヨハン・エヴァツェン中将(長兄) (Dutch Vice Admiral Johan Evertsen, 1600/2/1-1666/8/5) ヨハン・エヴァツェン提督(長兄)はスペイン領オランダのジーランド州のフリシンゲン(Vlissingen, Zeeland province, Spanish Netherlands, 1556-1714)で、ワーテルゲーゼンというスペインの迫害に対抗していたネーデルラント貴族同盟の父ジャン艦長(Captain Jan)ことヨハン・エヴァツェン(Johan Evertsen, 1617没)の家庭に長兄で生まれました。
1637/2/25にジーランド海軍本部の中将(Vice Admiral)となり、1639年にダウンズの海戦(Battle of Downs, 1639/10/21,蘭勝利)にて、総司令官マールテン・トロンプ提督(父)麾下のオランダ艦隊で ・トロンプ提督は第1艦隊の旗艦エミリア号(Aemilia 57gn)座乗 ・ワイズ提督は第4艦隊の旗艦フレデリック・ヘンドリック号(Frederik Hendrik 36gn)座乗 ・エヴァツェン提督は第6艦隊の旗艦フリシンゲン号(Vlissingen 34gn)に座乗。 エヴァツェン提督はポルトガル艦隊の旗艦サンタ・テレサ号(Santa Teresa, 60gn)を炎上させて撃破してオランダの勝利に貢献しました。この戦いをきっかけにワイズ提督と衝突し、その後数年間は重要な命令を受けることはありませんでした。その間にオーストリアのハプスブルク帝国(Habsburg Empire, 1526-1804)オランダ総督のオラニエ公フレデリック・ヘンリー(Prince of Orange & Stadtholder of Holland, Frederick Henry, 1584-在位1625-1647)と同じくウィリアム2世(Prince of Orange & Stadtholder of Holland, William II 1626-在位1647-1650, 子供ウィリアム2世(William III, 1650-1702)はイングランド国王:在位1689-1702)と親交を深めました。 第1次蘭英戦争(1652/7/10-1654/4/5)が52才で勃発した時、エヴァツェン提督はワイズ提督に疎んじられるも、ケンティッシュノックの海戦(1652/9/28,英勝利)でワイズ提督が敗北した後、ワイズ提督は排斥されてトロンプ提督が総司令官になって、エヴァツェン提督は艦隊司令官に復帰しました。エヴァツェン提督はダンジネスの海戦(1652/11/30,蘭勝利)でオランダの勝利に貢献してイギリス艦隊の攻撃からトロンプ提督座上の旗艦ブレデロード号を救援しました。1653年のポートランド沖の海戦(1653/2/18,英勝利)とガッバードの海戦(1653/6/2,英勝利)に従軍しました。スヘフェニンゲンの海戦(1653/7/31,引分)での戦いでトロンプ提督は戦死し、エヴァツェン提督は座乗艦がひどく損傷したので撤退したためワイズ提督から臆病であると非難され、その後5年間も排斥されました。そのワイズ提督はバルチック海でのサウンドの海戦(Battle of Sound, 1658/10/29,蘭勝利)で戦死。1659/5月にエヴァツェン提督はデ・ロイテル提督麾下の艦隊で出帆し、中将ヤコブ・ファン・ワッセナー・オブダム卿(Lieutenant Admiral Jacob van Wassenaer, Lord of Obdam, 1610-1665/6/13)がデンマークの島々を再征服するのを支援しました。 第2次蘭英戦争(1665/3/4-1667/7/31)が65才で勃発した時にエヴァツェン提督は寄る年波(年齢)にもかかわらず、ローストフトの海戦(Battle of Lowestoft, 1665/6/13,英勝利)に従軍してイギリス艦隊に蘭第3艦隊の司令官として戦いました。この海戦の蘭第一艦司令官の提督ジェイコブ・ファン・ワッセナー・オブダム卿と第二艦司令官の提督エグバート・バルトロメウス・コルテナー(Egbert Bartholomeuszoon Kortenaer, 1604-1665/6/13)が戦死して、総司令官トロンプ提督の麾下でエヴァツェン提督が司令官になるもオランダ艦隊は大混乱に陥って惨敗しました。エヴァツェン提督はハーグに召喚される途中で、怒った暴徒によって馬車から引きずり出され、虐待され、手と足を縛られ、水に投げ込まれるも、係留船の船尾にしがみついて助かり、臆病者として、裁判にかけられました。艦隊の司令官がはエヴァツェン提督に有利な発言をして、エヴァツェン提督が艦隊の後退を救援することで最悪の状態を防いだことが明らかになると、釈放されました。 エヴァツェン提督の弟(五男)中将コーネリス・エヴァツェン・ザ・エルダー提督が1666/6月のノースファランド沖の海戦(四日海戦, 1666/6/1-4,蘭勝利)で戦死すると、デ・ロイテル提督艦隊に加わり、その先鋒艦隊の指揮を執って戦いました。1666/8月に英イングランド南東部ケント州海岸ブロードステアーズ白亜のノース・フォアランド岬(Chalk headland Cape North Foreland, Broadstairs, Kent, Southeast England)沖のセント・ジェームズ・デーの海戦(St. James's Day Battle, 1666/8/4, 英勝利)に中将コーネリス・エヴァツェン・ザ・ヤンガー(従弟, Lieutenant Admiral Cornelis Evertsen the Younger, 1628/4/16-1679/9/20)が旗艦オルヘレン号(Walcheren 70gn)に乗艦して従軍し、エヴァツェン提督はそのセント・ジェームズ・デーの海戦の初日に66才で戦死しました。168/9月に両提督兄弟は蘭ジーランド州ミデルブルグの大聖堂(Abbey of Middelburg)に手厚く埋葬されました。 エヴァツェン提督はマーイケン夫人と結婚して5人の子供が誕生しました。 ・夫人マーイケン・ゴーカム(Maayken Gorcum, 1600-1671)2男3女 ・長男 ヨハン・エヴァツェン (Johan Evertsen, 1624/9/15-1649, 25才頃没) ・E次男 中将コーネリス・エヴァツェン・ザ・ヤンガー(従弟) (Vice-admiral Cornelis Evertsen the Younger, 1628/4/16-1679/9/20, 51才) ・娘3人。 ・ポートランド島沖の海戦:〜<戦闘経過> (The naval Battle of Portland, 1653/2/28-1653/3/2) 別名:三日海戦(Three Day's Battle)英勝利 戦場:イギリス海峡のポートランド島沖 (Off Isle of Portland(English Channel), Dorset Cunty, South West England Region, UK) ヨハン・エヴァツェン提督(長兄)は1653年、オランダ商船250隻の船団を護衛してイギリス海峡を西から東へ通過してオランダ共和国へと向う途中、イングランド・ドーセットシャー州ポートランド沖で英ブレーク提督騎下のイギリス艦隊の攻撃を受けた”ポートランド島沖の海戦”で、マールテン・トロンプ提督、デ・ロイテル提督と共にオランダ艦隊の一方の司令官としてイギリス艦隊と戦いました。 ポートランド島沖の海戦は第1次蘭英戦争(1652-1654、52才勃発)中の1653/2/18〜2/20にポートランド島沖で、英ブレーク提督のイギリス艦隊80隻に対し、トロンプ提督のオランダ艦隊75隻が戦いました。オランダ艦隊は3隊に分けられ、開戦時にはほぼ東方向に進んでいました。オランダ艦隊はトロンプ提督が中央隊を自ら率い、左翼隊はデ・ロイテル提督、右翼隊はエヴァツェン提督が指揮しており、中央の後方に250隻の商船隊が置かれました。一方のイギリス艦隊も3隊に分かれて、オランダ艦隊の行く手を阻むため南西方向に進みました。 18日の海戦、 オランダ艦隊は、イギリス艦隊に前方をさえぎられると、急いで商船隊を風上に避難させ、トロンプ提督率いる中央隊が左舷後方からの風を満帆に受けてイギリス艦隊の先頭(ブレーク隊)に攻撃をかけます。 続いてデ・ロイテル提督が指揮するオランダ艦隊左翼隊が、ブレークのイギリス艦隊右翼隊の側面を襲いました。しかし、この時ブレーク提督の右翼隊を救援するため、イギリス艦隊の中央隊が駆けつけました。ペン提督率いるイギリス艦隊中央隊は、トロンプ提督のオランダ艦隊中央隊の右側面に襲いかかりました。イギリス艦隊の左翼隊(モンク提督指揮)は、エヴァツェン指揮のオランダ艦隊右翼隊に攻撃されたので、中央隊、右翼隊と共に戦うことが出来ませんでした。戦闘は午前8時から午後2時頃まで続きましたが、商船隊が心配なオランダ艦隊司令官トロンプ提督は、午後4時頃に艦隊を引き上げました。イギリス艦隊は、この日の戦いを優位に終らせましたが、優秀な艦長の多くを失いました。艦隊司令官のブレーク提督も腹部に重傷を負いました。対するオランダ艦隊の損害も大きく、司令官トロンプ提督は乗員の3分の2を失い、デ・ロイテル提督の旗艦は帆柱が折れて危うく敵に捕獲されるところでした。 19日の海戦、 2日目の戦闘は、商船隊を護衛して海峡を東に向かうオランダ艦隊をイギリス艦隊が追跡する形で始まります。オランダ艦隊は商船隊を守るために専ら守勢に立ちますが、昼頃にはイギリス艦隊に追いつかれてしまい、ワイト島付近で3時間の激戦が繰り広げられました。しかし、この日の戦いも双方に多くの死傷者を出しただけで勝負はつかず、さらに翌日に持ち越されました。 20日の海戦、 オランダ軍は、弾薬の残り少なくなった艦船を本国へ帰したため、わずか35隻の軍艦で商船隊を護衛しながら戦わなければなりませんでした。一方、イギリス艦隊の司令官ブレークは負傷のため指揮することが出来なくなって後方へ退きました。絶対的に不利なオランダ艦隊は、ウィリアム・ペン率いるイギリス艦隊の追跡を振り切るため、総司令官のトロンプ提督がデ・ロイテル提督と共に後衛の指揮をとりました。朝から始まった激戦の末、オランダ艦隊は2人の優秀な指揮官のもとでイギリス艦隊を撃退することに見事に成功しました。その後のオランダ艦隊はフランスのカレー沿岸で暗くなるまで仮泊したのち、夜の闇に紛れて引き潮に乗りカレー海峡を突破して故国へ帰って行きました。 海戦の結果は、 オランダ艦隊は250隻の商船の70〜80隻を失いますが残りの商船はほとんどを護送することに成功しました。一方の軍艦は約30隻が沈められました。これに対してイギリス艦隊の損害は非常に少なく、ほんの数隻の軍艦を失っただけの大勝利となりました。 参考HP:〜 ・オランダの地図(1672) ・オランダの区分地図(フランスの進撃図、1672) ・スヘフェニンゲンの場所地図(オランダ西部の地図) ・ドーセットシャー州の場所地図(ポートランド島、イギリス南部の地図) ・ポートランドの場所地図 こちらで ・蘭英戦争(1652-1674) ・第1次蘭英戦争(1652-1654) ・第2次蘭英戦争(1665-1667) ・第3次蘭英戦争(1672-1674) ・第4次蘭英戦争(1780-1784)
・上記はこちらの文献などを参照させてもらいました。 平成20年 2008/3/23追記、令和5年 2023/5/8 |