蘭提督ドラケンバーグ男爵ウィレム・ヴァン・ガント大将Q
ウィレム・ジョゼフ・バロン・ファン・ガント・トット・ドラケンバーグ提督
(Admiral Willem Joseph baron van Ghent tot
Drakenburgh 1626/5/14-1672/6/7, 46才戦没)
(ドラケンバーグ男爵ウィレム・ヴァン・ガント提督:Willem
van Ghent)
(オランダ海兵隊(Dutch marines)初代司令官)
・幼少期・陸軍時代
(Childhood, Army Hoorne Regiment)
ガント提督はオランダのヘルダーランド州でワール川(Waal rivier 82km)河畔ヴィンセン村(Winssen)で生まれました。貴族出身のガント提督は1642年にヘルダーラント州エルスト村(Elst,
現:オーバーベトゥウェ(Overbetuwe)併合2001)エルス代官(Elst
Provoost:プロヴォスト)に就任しました。1645年に、ベルギーのホールン伯爵フィリップ・ド・モンモランシー(Philip
de Montmorency, Count of Horn, c1524-1568)が創設したスペイン陸軍ホーン伯爵連隊(Count
of Hoorne Regiment, Spanish Army)へ入隊。1648年に大尉(Captain)になりました。 |
ワール川を行き交う帆船
画像はブレダ
スリナム 1967 発行 |
1659年にスウェーデン(Sweden)との第2次北方戦争(2nd
Northern War, 1655-1660)中に少佐(Major:無給)でワロン連隊(Walloons
(Guards) Army Regiment)を率いてCデ・ロイテル提督指揮下にてナイボルグの戦い(Battle of Nyborg,
1659/11/14)に従軍してデンマークの中央部でユトランド半島の東にあるフュン島(Fyn Island)に上陸して勝利しました。その後、水陸両用作戦の開発に大きく貢献し、オランダ海兵隊(Dutch
marines)が創設されると初代司令官になりました。 |
デ・ロイテル提督
オランダ 1943 発行 |
・第二次蘭英戦争
(2nd Anglo Dutch War, 1665/3/4〜1667/7/31)
1665/3/4にイギリス(チャールズ2世、在位1660-1680)がオランダへ宣戦布告して第二次蘭英戦争が勃発。1663/3/6にガント少佐は正式な有給少佐に就任。1664/12/3に中佐(Lieutenant
Colonel)に昇進して、蘭英戦争でオランダの主要軍港に創設された海軍基地で、オランダ西部の南ホラント州フォールネ・プッテン島ヘレヴォエツルイス基地 |
オランダの財宝艦隊
南アフリカ 1952 発行 |
(Hellevoetsluis, Voorne-Putten, South Holland)司令官に任命されました。オランダ勝利のヴォーゲンの海戦(1665/8/2)後、1665/8月にはオランダ財宝艦隊(Dutch
Treasure fleet)を救援するためノルウェー西岸ヴェストラン地方ヴェストラン県ベルゲン(Bergen,
Vestland County, Vestland Region, Norway)にてデ・ロイテル艦隊と共に駐留しました。1665年にオランダ共和国(Dutch
Republic, 1579-1795)全体の政治指導者シュタットホルダー(Stadtholder)のオランダ総督(Governor-general
of Dutch(7 Province)Republic)不在時の最高指導者のS宰相ヨハン・デ・ウィット(在任1653-1672)に助言して、1665/12/10に海兵隊が創設され、ガント大佐が初代司令官に就任しました。その海兵隊が真価を発揮したのは、チャタムの海戦(1667/6/9)で、イギリスのチャタムへ水陸両用作戦専門の部隊17,500人が敵前上陸して勝利した時でした。
オランダで独立した北部7州以外の南軍艦隊(Dutch confederate fleet)がノースファランド沖の海戦(四日海戦、1666/6/1)でイギリス軍を迎え撃つために南へ向かったとき、ヘルダーラント号(Gelderland,
艦長ガント大佐)は戦闘が始まる前に、突然のうねりで激しい揺れにて前檣が折れる被害を受け、船は港まで牽引されなければなりませんでした。海兵隊の指揮を継続できるようにするため、ガント大佐はデ・ロイテル提督の旗艦デ・ゼーベン・プロヴィンシエン号(De Zeven Provincien)の援護船の |
オランダの地図
オランダ 1981 発行 |
ユトレヒト号(Utrecht)に移動しました。確かにこの戦いでイギリス艦隊は大きな損害を受け撤退を余儀なくされるも、オランダ艦隊は追撃を続ける状態ではなく、海戦後に豊富な水陸両用作戦の経験を持つシュタウナー少将(Rear-Admiral
Frederick Stachouwer, 1628-1666)とシュラム中将(Vice-Admiral
Volckert Schram, c1620-1673/6/7)が戦死して複雑な上陸作戦は実行できませんでした。6週間後(1666/7/12)に四日海戦での戦闘後に修理中でまだ埠頭にいたイギリス艦隊を襲撃するため、オランダ艦隊は海兵隊を乗せた10隻のフリュート艦(Flute)を率いて再び出帆しました。ガント大佐はヘルダーラント号に乗艦しているも、悪天候のため上陸は不可能となり、イギリス艦隊はテムズ川(river
Thames, 346km)から出帆してしまいました。無力で、ある意味で余計なものとなった輸送船団10隻は仏フランドルの海岸近くに取り残されました。オランダ艦隊は積極的にイギリス艦隊との戦闘を模索して、続くセント・ジェームス・デイの海戦(1666/7/25)では、ヘルダーラント号はオランダ艦隊の旗艦デ・ゼーベン・プロヴィンシエン号の援護船となって、その旗艦を攻撃した英ロイヤル・チャールズ号(Royal Charles)の艤装を撃ち落としました。そしてヘルダーラント号が、帆がボロボロになって投錨していてイギリスの火船から攻撃をうけるも、たまたま自分の火船ランメルチェ・クウィーク号が帆走できずに乗組員とともにスループ艦(Sloop)に曳航されて漕ぎ戻って、通りかかった(21)ヤン・ファン・ブレーキル艦長の介入で、接近してくるイギリスの火船から間一髪救出されました。1666/8/24にガント大佐は階級が2つ上がって中将(Lieutenant
Admiral)に任命されました。1667/4月には旗艦ホランディア号(Hollandia
80gn)に座上してオランダ艦隊24隻を率いてテクセル島を出帆。テクセル島から出帆する最初の輸送船団を迎撃することを狙い、またオランダ上陸のためスコットランド民兵全体が動員されていたスコットランド艦隊を阻止するために、北海北部を巡航してオランダ貿易航路を守備するために北海へ派遣されました。
・メドウェイ襲撃
(Raid on Medway, 1667/6/9-6/14)オランダの勝利
1667/5月にガント提督は、メドウェイ襲撃(チャタムの海戦)で水陸両用上陸作戦を実施するよう命じられました。1667/6/4デ・ロイテル艦隊がオランダ南西部を流れ北海に流入するスヘルデ川(Schelde,
350km)河口のスクーネヴェルト泊地(Schooneweld
anchorage)を出帆して、テム |
帆船の城塞への砲撃図
ガーンジー 1993 発行 |
ズ川河口へ進み、6/6に増強部隊が加わり、軍艦64隻・火船15隻・将兵17,416人が合流して大部隊になりました。当初ガント提督はオランダ諸州副司令官Sコルネリス・デ・ウィットが乗艦するドルフィン号(Dolphijn
82gn)に座乗するも、その後フリゲート艦アガサ号(Agatha
50gn)に移乗して、1667/6/9早朝にガント提督のフリゲート艦隊がメドウェイ埠頭に停泊していたイギリス艦隊を攻撃。
イギリスは英諜報者からオランダの脅威の警告を受けるも国王が防御を強化する努力をしなかったので、メドウェイ川(River
Medway 113km, Kent, England)の防御が貧弱で、そのためにイギリスはチャタム造船所(Chatham
Dockyard)に向かって砲台を築き、ジリンガム(Gillingham)の近くのメドウェイ川に閉塞船を沈めて、その上流に防鎖を渡しました。そこには英のピンネス艦30隻が火船攻撃を防ぐために待機しているも、停泊艦はほとんどが大砲を外していて戦闘に使用不能でした。オランダ艦隊は川を遡上してイングランドのケント州北部シェピー島(Isle
of Sheppey, Kent, England)北西の角にあるメドウェイ川の河口の横にある港町シェアネスの砦(Sheerness
Fort)を砲撃しました。オランダ艦隊は閉塞船をどけて航路を作り、ジリンガムに張られていた鎖を破壊し、火船で戦列艦を焼き払い、ジリンガムからチャタム造船所の向かいのアプノア城(Upnor
Castle)を攻撃。1隻の火船が英警備艦マサイアス号(Mathias
52gn)を破壊。オランダ艦隊はロイヤル・チャールズ号を拿捕して、オランダまで後ろ向きに曳航しました。ガント提督はユニティ号(Unity
42gn)を拿捕して自らの旗艦にしました。1667/6/14に火船はあらかた消え去り、デ・ロイテル提督はメドウェイ川から撤退してテムズ川の河口へ向かいました。オランダ艦隊の数は84隻に増えて、テムズ川河口に陣取り、デ・ロイテル提督とガント提督で役割を分担してイギリスの迎撃と哨戒に当たったため、テムズ川の交通が閉ざされ、ロンドンの石炭価格が高騰。1トンの値段が15シリングから140シリングに跳ね上がったといわれています。
ガント提督は南ホラント州南西のゴエリー島(Goeree)でロイヤル・チャールズ号を引き渡した直後、ドルフィン号(Dolphijn
30gn)でシェトランド諸島(Shetland)へ向かい、東インド諸島からの半年ごとの輸送船団の帰還艦隊を護衛しました。1667/7/31にブレダの和約の条約が調印されて初めて護衛艦隊とともにテクセル島に戻りました。チャタム海戦はイギリス最大の戦列艦3隻(ロイヤル・ロンドン号、ロイヤル・オーク号、ロイヤル・ジェームス号)が焼失し、ロイヤル・チャールズ号が捕獲されるなど、オランダ軍がイギリス軍に対して得た最大の海戦勝利であり、イギリス海軍がオランダ史上で受けた最大の敗北でした。ガント提督はオランダ総督から金の聖杯(Golden
enamelled Chalice)を授与されました。
・第三次蘭英戦争
(3rd Anglo Dutch War, 1672/3/27-1674/2/19)
第二次蘭英戦争後の翌年の1668年にガント提督は陸に上がってユトレヒト州(Utrecht)国務院議員になりました。1670/5月〜11月の間は英トーマス・アリン提督G指揮のイギリス艦隊と協力して、西アフリカ沖でアルジェリア海賊(Algerian corsairs)に対する討伐作戦に従事しました。ガント提督艦隊はアムステルダム・ロッテルダム・ジーラントの海軍本部で構成されたフリゲート艦を主体とする艦隊13隻でした。提督の副提督はIヨハン・デ・リーフデ(Johan de Liefde)とEコルネリス・エバーツェン・ザ・ヤンガー(Cornelis
Evertsen the Younger)が務めました。1670/8/17にガント提督は旗艦シュピーゲル号(Spiege)に座上して、英リチャード・ビーチ准将(Commodore
Richard Beach, 1692没)指揮下のイギリス艦隊とともにアルジェリアの私掠船(Algerine privateers)6隻を拿捕して炎上させ、200人のキリスト教徒奴隷を解放しました。その恩賞として、800ギルダー(guilders)相当の金の鎖(golden
chain)を受領しました。
1671年に再びイギリスとの戦争危機が迫った夏にオランダ南軍艦隊は主に紛争に備えた訓練に追われ、ガント提督は旗艦グーデン・レーウ号(Gouden
Leeuw 90gn)に座上して主にフリゲート艦で構成される第3艦隊を指揮。副提督はスウィアーズ提督(vice-admiral
Isaac Sweers, 1622/1/1-1673/8/22オリファント号戦死)が務めました。
1672/3/27にイングランド王チャールズ2世がオランダに宣戦布告して始まった第三次英蘭戦争で、ガント提督は1672/5/24に再度テームス川方面への攻撃を企図して15隻の艦隊でイングランドの海岸へと向かいました。ところが、以前のチャタムの襲撃を教訓にしたイギリスはイングランドの海岸を強力な防備で固めていたので、5/26に攻撃を中止して撤退しました。 |
英チャールズ2世
バーブダ 1970 発行 |
・ソールベー沖の海戦
(Battle of Solebay, 1672/6/7)
1672/6/7にガント提督はオランダ前衛艦隊旗艦ドルフィン号(Dolphijn
82g)に座上してソールベー沖の海戦に従軍し、イギリス青艦隊の初代サンドイッチ伯エドワード・モンタギュー提督(Edward Montagu,
1st Earl of Sandwich, KG, 1625-1672/6/7戦死)の旗艦ロイヤル・ジェームズ号(HMS
Royal James)を攻撃しました。ロイヤル・ジェームズ号は炎上し |
英仏海峡の地図
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て、モンタギュー提督は溺死しました。その交戦中に甲板に立っていたガント提督はキャニスター弾(canister)の直撃を受け、左足の膝下を切断し、胴体を5ヵ所貫通して前方に転がって戦死しました。ガント提督の遺体はすぐにガリオット艦ウォルビッシュ号(galliot
Walvisch)でオランダに持ち帰られました。ガント提督家族は、当時フランス軍に占領されていたユトレヒト州ユトレヒト市(Utrecht)に埋葬したい意向を示していたため、そこで防腐処理が施されました。1674/8月に彫刻家ロンバウト・フェルフルスト(Rombout
Verhulst, 1624-1698)はユトレヒト市の聖マルティン大聖堂(St.
Martin's Cathedral)にあるガント提督の墓碑の制作を開始し、1676/6月に完成。その時までガント提督は一時的にヘルダーラント州アーネム(Arnhem)に埋葬されました。ガント提督は正確な日付は不明なるも、1680年後半以前のある時点で再埋葬されました。墓碑は今も残って有。ガント提督は勇敢でありながら親切で気取らない人物だったことから、共和国内で深く悼まれました。
考HP:〜
・テームズ河の場所地図(Thames)
・テームズ河々口部の地図(Raid on the Medway、1667/6/9-14)Chatham & Upnor Castle有
・メドウェイ川の城塞の配置場所地図(Medway Forts, 1539-1956)
・シーアネスとグレーヴスエンド付近の場所地図(シェペイ島:Isle of Sheppey)
・メドウェイ川の場所地図(Medway)
・オランダの地図(オランダの州)
・テクセル島の場所地図
・オランダの地図(1672)
・オランダ最大版図の地図(19世紀)
・オランダの地図(現在、水面下を示す図)
こちらで
・蘭英戦争(1652-1674)
・第1次蘭英戦争(1652-1654)
・第2次蘭英戦争(1665-1667)
・第3次蘭英戦争(1672-1674)
・第4次蘭英戦争(1780-1784)
をお楽しみください。
・上記はこちらの文献などを参照させてもらいました。 令和5年 2023/12/23
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