Netherland 国連 1989 発行 |
切手で綴る 蘭英戦争(Naval Battle Voyages)オランダ海軍の提督
No.8
コーネリス・エバツェン・ザ・ヤンゲスト提督
|
大航海物語 オランダ編★ |
NEDERLAND エバツェン・ザ・ヤンゲスト提督 オランダ 1943-44 発行 |
JERSEY 英仏海峡の地図 ジャージー 1970 発行 |
→ |
NEDERLAND オランダの地図 オランダ 1972 発行 |
REPUBLICA DE GUINEA ECUATORIAL 海戦の図 赤道ギニア 1975 発行 |
Gエバツェン・ザ・ヤンゲスト(最年少)提督はKゼーラント州スヘルデ川(Scheldt River, 360km)河口のワルヘレン島(Walcheren Island)南岸フリシンゲン(Vlissingen)出身で、Dジーラント海軍の中将にしてオランダ連合海軍の最高司令官(1690-1706?)を務めました。ヤンゲスト提督は父親Fエヴァツェン・ザ・エルダー提督など数人の提督を輩出した家柄の出身で、第二次蘭英戦争(1665-1667)や第三次蘭英戦争(1672-1674)、蘭仏戦争(1672-1678)、英名誉革命の侵攻(1688/11/5:蘭大軍が英トーベイ(Torbay)上陸)、九年戦争(1689-1697)中の蘭英海戦では第3次ビーチーヘッドの海戦(1690/7/10)に貢献し、1684年にオランダ連合艦隊の最高司令官に就任後は陸上で指揮をとり、ゼーラント州ミデルブルグ(Middelburg, Zeeland)で病没しました。 |
蘭提督コーネリス・エバツェン・ザ・ヤンゲスト中将(Fの次男) (Lieutenant Admiral Cornelis Evertsen the Youngest, 1642/11/16-1706/11/16, 64才), 病没 ・幼少期 (生い立ちと子供時代:Early life, Childhood) Gヤンゲスト提督は、ワーテルゲーゼン (Watergeuzen:水乞食(Geuzen)グースン)のF中将エルダー提督の次男としてゼーラント州フリシンゲンで誕生しました。Dヨハン・エバーツェン中将の甥であり、そのD中将の息子であるEエバーツェン・ザ・ヤンガー中将の従弟でしたが、よく混同されます。父親と同じく気難しい短気な性格のため、キースジェ・デン・デュベル(Keesje den Duvel:小さなコーネリス悪魔)というあだ名が付けられました。プロテスタントのドルト教会(Protestant Synod of Dort)で礼拝していました。 なお、Eエバーツェン・ザ・ヤンガー提督(Vice admiral Cornelis Evertsen Younger, 1628-1679, 51才没)はスヘフェニンゲン沖の海戦(1653)で負傷し、ノースファランド沖の海戦(四日海戦, 1666)にジーリクゼー号(Zierikzee, 40gn)で従軍して、第三次蘭英戦争の全ての海戦で旗艦ジーリクゼー号に座上して従軍後、1679年にゼーラント州フリシンゲン(Vlissingen)にて病没しました。
(2nd Anglo Dutch War, 1665/3/4-1667/7/31) 1655/4/15にヤンゲスト艦長のフリゲート艦エエンドラグト号(frigate Eendragt, 32gn)とイーンドラグト号(Eendragt)の2隻艦隊が、イギリスの3隻艦隊(ダイヤモンド号(Diamond)とヤーマス号(Yarmouth)など)に敗れて英艦隊に拿捕されました。国王の弟ヨーク公ジェームズ上級提督(Lord High Admiral James, the Duke of York, ジェームズ2世(James VII and II, 1633-在位-1685/2/6-1688/12/1-1701/9/16)は尋問中に、ヤンゲスト艦長の帽子のてっぺんにできた銃弾の跡について質問し、艦長にイギリス軍がヤンゲスト艦長の衣服を傷つけたことを許してくれるよう求めると、ヤンゲスト艦長が「その穴を誇りに思っている」と不機嫌そうに答えたとも伝わっています。1665/4/24にオランダ亡命中にエバーツェン家が支援していた英国王チャールズ2世(Charles II of England, 在位1660/5/29-1685/2/6)の恩返しによって釈放されました。 それはチャールズ2世が若きオランダ統領オレンジ公ウィリアム3世(William III of Orange, 在位オレンジ(オラニエ)公:1650/11/4-1702/3/8、オランダ総督:1672/6/28-1702/3/8、イングランド王・スコットランド王:1689/2/13-1702/3/8)の大義を擁護するふりをして、頑固なオランジストのジーランド州と共和制のオランダ州の仲を不和にしょうとたくらんでのことだったといわれています。 1665年に帰国後、ヤンゲスト艦長は父の第2艦隊旗艦ホーフ・ファン・ゼーラント号(Hof van Zeeland 58gn)でローエストーフト沖の海戦(1665/6/13)に志願で従軍。1665/7月にはジーランド海軍本部の艦長に就任。1666年に四日間の戦い(ノースファランド沖の海戦, 1666/6/1-6/4)で父の旗艦オルヘレン号(Walcheren)の艦長を務めていると、海戦の最初の夜に逃走する英ヘンリー号(HMS Henry 64gn)から攻撃を受けて父Fエルダー提督が真っ二つに切り裂かれて戦死しました。1666年にセント・ジェームス・デイの戦い(二日海戦、1666/7/25)に従軍するも、叔父D長兄エヴァツェン提督は戦死しました。 ・第三次英蘭戦争 (3rd Anglo Dutch War, 1672/3/27-1674/2/19) 第三次英蘭戦争の直前(1672/3/12)にSデ・ハーゼ提督とヤンゲスト艦長が指揮する蘭護衛艦隊5隻がオランダの財宝輸送船団スマーナ船団(Smyrna Convoy)66隻を護衛して、イングランドの白亜のチョーク岩が続く断崖ビーチーヘッド(Beachy Head)沖の英仏海峡に差し掛かるとイギリスのFホームズ卿艦隊と遭遇。イギリス艦隊の停船命令を無視して航海を続けるオランダ商船団へ英艦隊が砲撃してきたので、蘭艦隊が反撃して第2次ビーチーヘッド沖の海戦(Battle of Beachy Head, 1672/3/12)となって、デ・ハーゼ提督が戦死するもヤンゲスト艦長は英艦隊を撃退・勝利してオランダのスマーナ船団62隻を守護しました。第三次英蘭戦争が開戦すると1672/6/7に勃発したソールベー沖の海戦(Battle of Solebay)にズワーネンブルク号(Zwanenburg 44gn:元英フリゲート艦セント パトリック号:frigate HMS Saint Patrick)で従軍しました。 1672/12月に、任務でイギリス東インド諸島の船員をできるだけ多く迎撃するために、6隻の船でセントヘレナを奇襲するために出帆。ところがカーボベルデ諸島での戦闘で遅れてセントヘレナへ着くと、オランダVOCがすでにセントヘレナを占領していました。代替目標はフランス領ギアナの首都カイエン(Cayenne)攻撃が挙げられるも、熟考するとヤンゲスト艦隊はそれには弱すぎると考え、アムステルダム海軍本部の、第二次英蘭戦争でメドウェイ襲撃(1667/6/9〜6/14)にフリゲート艦エッセン号(frigate Essen)で従軍したジェイコブ・ ビンケス艦長艦隊に加わって新大陸へと航海しました。 1673/7月にヤンゲスト艦長とビンゲス艦長との連合戦隊9隻がバルバドスからネイビスに至るイギリスとフランスのアンティル諸島を襲撃し、十数隻の船舶を拿捕しました。オランダ艦隊は兵士と物資でオランダ領スリナムを強化し、戦争初期にイギリス軍が占領したオランダ領アンティル諸島のサバ島とシント・ユースタティウス島を奪回しました。その後にバージニア海岸の攻撃に成功し、第二次ジェームズ川の戦い(Second Battle of the James River, 1673/7/12-13)で、バージニア州タバコ艦隊の一部を焼き払いました。1673/8月にはヤンゲスト艦長は旗艦ズワーネンブルク号(Swaenenburgh)に座上してオランダ艦隊21隻を率いてニューヨークの前に現れ、ニューヨークは降伏して旧オランダ植民地ネーデルラントの首都ニューアムステルダムを奪還して、ニューヨークはニュー オレンジと改名されました。 ・オランダへ帰国 1674/7月にオランダのジーラント州に戻りました。1675/1月に少将(Rear Admiral, 32才)に、1679/9/20に中将(Vice Admiral, 37才)になりました。1677年にフランス軍に就いているダンケルク私掠船に対するオランダの封鎖艦隊を指揮しました。1684/4/1にオランダ総督オレンジ公ウィリアム3世が病弱を理由にオランダ連合艦隊の最高司令官Aコルネリス・トロンプ提督を解任したので、その後任としてDジーラント州中将ヤンゲスト提督がオランダ連合艦隊最高司令官に就任しました。1688年にオランダ統領オレンジ公ウィリアム3世が英名誉革命(1688-1689)中のイギリス諸島に侵攻したときには、オランダ艦隊の前衛艦隊司令官で従軍しました。オレンジ公ウィリアム3世がイングランド王になって、九年戦争(1689-1697)中の蘭英海戦で英蘭連合艦隊をフランスに対して派遣したベヴェシエの戦い(Battle of Bevesier, 別名:第3次ビーチーヘッドの海戦:Battle of Beachy Head, 1690/7/10)では、ヤンゲスト提督は英蘭連合艦隊の前衛艦隊の司令官で従軍しました。1689/11/27にヤンゲスト提督はワルヘレン号(Walcheren)でイングランドから蘭フリシンゲンに帰国。フリシンゲン港岸壁には市民約6,000人が艦隊の帰還を歓迎しました。1690年には司令官ヤンゲスト提督が引退して、前任者Aコルネリス・トロンプ提督が就任するも1691年に亡くなったので、その後任司令官にはフィリップス・ファン・アルモンデ提督(Lieutenant Aadmiral Philips van Almonde, 1644/12/29-1711/1/6)が就任しました。 ヤンゲスト提督は結婚せず、1706/11/16に64才で病没してミデルブルグの北門教会(Noordmonsterkerk. Middelburg)にあるF父とD叔父の霊廟に埋葬されました。1年後にその中将(Leutenant Admiral)の地位は末弟(十男)ゲリン・エバツェン(Geleyn Evertsen, 1655/1/22-1721/7/25)に引き継がれました。 参考HP:〜 ・スヘルデ川の場所地図(河口ワルヘレン島) ・ゼーラント州の場所地図(Zeeland、Vlissingen) ・仏蘭戦争の地図(仏軍侵攻図、1672) ・英トーベイの場所地図(Torbay) ・英ビーチーヘッドの場所地図(Beachy Head) ・テクセル島の場所地図 ・オランダの地図(1672) ・オランダ最大版図の地図(19世紀) ・オランダの地図(現在、水面下を示す図) こちらで ・蘭英戦争(1652-1674) ・第1次蘭英戦争(1652-1654) ・第2次蘭英戦争(1665-1667) ・第3次蘭英戦争(1672-1674) ・第4次蘭英戦争(1780-1784)
・上記はこちらの文献などを参照させてもらいました。 令和6年 2024/1/24 |