Netherland

国連 1989 発行
切手で綴る 蘭英戦争(Naval Battle Voyages) オランダ海軍の提督 No.2
コルネリス・トロンプ提督(子)
1673/8/21
テセルの海戦に勝利、祖国防衛に成功

大航海物語
 オランダ編

NEDERLAND
トロンプ(息子)

オランダ 1943-44 発行

JERSEY
英仏海峡の地図

ジャージー 1970-75 発行



NEDERLAND
オランダの地図

オランダ 1972 発行









オランダ・テセル→

イギリス→
Nederland
テセル島の場所地図

オランダ 1996 発行






オランダ

ANTIGUA BARBUDA
海戦の図

アンチグアバーブダ 1984 発行

コルネリス・トロンプはオランダの名将トロンプ提督の子供としてロッテルダムで生まれ、14才で父の乗艦アメリア号に乗組んで初めて海に出ました。20才で艦長となり、24才で海軍少将になり、数々の海戦を戦い抜き、1673年のテセルの海戦に勝利して祖国防衛に貢献し、アムステルダムで62才で亡くなりました。

蘭提督ソルベスボリ伯コルネリス・マーテンスゾーン・トロンプ中将(息子)
(Cornelis Maartenszoon Tromp, Count of Solvesborg, 1629/9/3-1691/5/29)
 オランダ海軍在籍(Dutch Navy 1643/9/1-1691/5/29)
 中将オランダ提督将軍(Lieutenant Admiral General 1679/2/6-1691/5/29)
コルネリス・トロンプ提督はマールテン・トロンプ提督(Maarten Tromp)の子供としてオランダの南ホラント州ロッテルダムで生まれました。1642年にカルビン派の説教師に言葉を習うために、フランスのオート・ノルマンディー地域圏にあるハルフロウ港(Harfleur)へ行きました。1643/9/1に14才で父のトロンプ艦隊・旗艦アメリア号(Aemilia)に乗組み初めて海に出ました。1645/9に16才で海軍大尉に任官しました。1649/8/22に20才で艦長に任じられました。第一次蘭英戦争(1652〜1654)ではイタリア・リヴォルノの海戦(Battle of Leghorn、1653/3/14)に従軍し、地中海艦隊ガレン(Johan van Galen 1604-1653)司令官が戦死する激戦を戦いました。

父のトロンプ提督がテル・ヘイデの海戦(1653/7/31, スヘフェニンゲンの海戦)で戦死を遂げました。1653/11/11にマース(Maas)海軍省から海軍少将に推挙されました。1656年にはグダニスク(Gdanisk、ダンチッヒ)の解放戦に従軍しました。1658年から1662年まで奢侈品の貿易船団を護送する任務につきその指揮を執りました。1665/1/29に海軍中将に推挙されました。

第二次蘭英戦争(1665〜1667) でのロウェストフの海戦(Battle of Lowestoft 1665/6/13)で大被害を受けましたが、オランダ艦隊の大部隊を避退させて全滅をまぬかれました。1665/7/23に海軍大将に推挙されました。1666/2/6にデ・ロイテル提督がアムステルダム海軍省から総司令官に任命され、1666/6に四日海戦と、聖ジェームスの日の海戦(St James' Day Battle、1666/8/4-5)が勃発し従軍しました。1666/8のベルギー・ニューポート(Nieuwpoort)作戦の失敗をロイテル提督に非難され、また政府転覆の容疑で罷免されて海軍を去りました。

第三次蘭英戦争(1672〜1674)が勃発すると、1673/4にに呼び戻され、「スクーンヴェルデの海戦」(Battle of Schooneveld、1663/6/7-14、ゼーランド州ワルヘレン(Walcheren)島のスヘルデ河(Schelde)河口での海戦)と、続いて起こった「テセルの海戦」(Battle of Texel、Battle of Kijkduin 1673/8/21)に従軍し、旗艦グーデンリーウー号(Gouden Leeuw, 82 guns、金獅子)に乗艦して戦い勝利し、祖国オランダを守り抜きました。この最期の海戦では宿敵のイギリス提督スプラッグ卿(Sir Edward Spragge 1629-1673/8/11)が乗艦もろとも海没して戦死しました。

1672年に起こったヨハン・デ・ウィット兄弟の民衆による虐殺事件には巻き込まれそうになりましたが、なんとか切り抜けました。1675年にイギリスのオックスフォードを訪問した時にイングランド国王チャールス2世から男爵の爵位を授与されましたが、栄誉勲章は断りました。1676/5/8にデンマークから海軍大将に推挙され、デンマーク最高勲章(Order of the Elephant)をデンマーク議会から授与されました。1676に勃発したオーランドの海戦(Battle of Oland 1676/6/1)でスェーデン艦隊を撃破しました。1679/2/6にネーデルラント連邦共和国の海軍大将に推挙されましたが、オラニエ公ウィレム3世の時代には司令官ではありましたが、実戦に赴く事は無く、酒びたりとなって、1691年にアムステルダムで亡くなり、やがてはエヴァツェン(弟、Cornelis Evertsen Youngest 1642-1706)の時代へと移り変わりました。

参考:〜:
・オレンジ家
 (Orangists)
オレンジ家とは、オラニエ=ナッサウ家(Oranje-Nassau)のことで、現在のオランダ王室。元はドイツ西部のライン地方を発祥とする諸侯の家系であるナッサウ家の支流。ネーデルラント連邦共和国時代には、総督の地位をほとんど独占していました。

・ヨハン・デ・ウィット宰相
 (Minister Johan(Jan) de Witt, 1625/9/24-1672/8/20)
ヨハン・デ・ウィット宰相はオランダ共和制(ネーデルラント連邦共和国)の政治的指導者で、ホラント州の法律顧問(raadspensionaris:1653-1672年)。蘭英戦争で北部7州の共和国を率いました。デ・ウィットは財政再建を進め、また第一次蘭英戦争での敗戦を教訓に海軍力を増強し、第三次蘭英戦争では1672/3にイングランドがオランダに宣戦布告、つづいてフランス王国も4/6に宣戦を布告(オランダ戦争)。このため、オランダは海陸から攻撃を受けるという国家的危機に瀕しました。蘭英戦争と海上封鎖で経済が疲弊し、民衆はデ・ウィット政権に不満を抱くと共に、この国家的危機を乗り切るために前回の講和条約で禁止されていた、当時22才のオラニエ公ウィレム3世を支持。1672/7/24に兄のコルネリス・デ・ウィット(Cornelis de Witt, 1623-1672/8/20)が、ウィレム3世に対する反逆罪の嫌疑で訴えられ逮捕され、ハーグのヘバンゲンポールト城(現ハーグ監獄博物館)に収監されました。コルネリス・デ・ウィットは拷問を受けて衰弱し追放処分を受け弟へ救いを求め、それに応じてヘバンゲンポールト城へデ・ウィットが来ました。デ・ウィット兄弟がいることを知った群衆はヘバンゲンポールト城を取り囲んで、1672/8/20に城に乱入し兄弟を引きずり出して兄弟を虐殺しました。

こちらで
蘭英戦争(1652-1674)
第1次蘭英戦争(1652-1654)
第2次蘭英戦争(1665-1667)
第3次蘭英戦争(1672-1674)
第4次蘭英戦争(1780-1784)
マゼラン (海峡)
スパイス (香辛料)
コーヒー (嗜好飲料)
ラッコ(絶滅危惧種)
クリッパートン島(絶海の孤島)
カリブ海の地図(島国シリーズ)
フランスの王と王族(ブルボン朝)
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イギリス皇太子ご成婚
・切手で綴る東海道五十三次
全米50州アメリカ
・世界で1番美しい 蝶々
・ギリシャの民族衣装
・スペインの画家ゴヤ
世界遺産
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ヌビア遺跡エジプト
ピラミッド (エジプト)
パルテノン神殿ギリシャ
モヘンジョダロパキスタン
をお楽しみください。

・上記はこちらの文献などを参照させてもらいました。   平成20年 2008/1/23、令和5年 2023/7/8追記
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