Netherland 国連 1989 発行 |
切手で綴る 蘭英戦争(Naval Battle Voyages)
オランダ海軍の提督 No.3
ウィット・デ・ワィズ提督
|
大航海物語 オランダ編★ |
NEDERLAND ウィット・デ・ワイズ提督 オランダ 1943-44 発行 |
JERSEY 英仏海峡の地図 ジャージー 1970 発行 |
→ |
NEDERLAND オランダの地図 オランダ 1972 発行 |
REPUBLIK INDONESIA ナッソー艦隊で世界一周航海 ナッソー艦隊:オランダ〜ホーン岬〜太平洋〜香料諸島赤○印〜喜望峰〜オランダ (喜望峰回り) 現在のジャカルタ〜アムステルダの航海地図 (スエズ運河回り) 赤丸(O)がモルッカ諸島付近図 (Jakarta-Amsterdam Spice Race) インドネシア 1980 発行 |
ワイズ提督は17才で海に出て船に乗組み東インドに渡って活躍し、21才でオランダに帰国しました。アムステルダム州の命で1622〜1626年の間にナッソウー艦隊の旗艦デルフト号艦長として世界一周航海をなし、莫大な富をオランダに持ち帰りました。第一次蘭英戦争では数々の海戦をイギリスと戦い抜き、1658年のスェーデンに対するコペンハーゲン防衛「サウンドの海戦」で戦死しました。 |
蘭提督ウィット・コルネリスゾーン・デ・ワイズ中将
B (Lieutenant Admiral Witte Corneliszoon de With, 1599/3/28〜1658/11/8) ワイズ提督はオランダ南ホラント州ブリール近郷ファルムスタッド(Farmstead, Brielle, South Holland provincce)で生まれ、オランダ独立戦争(八十年戦争, 1568-1648)と第一次蘭英戦争(1652-1654)に従軍したオランダ共和国(Dutch Republic, 1579-1795)の海軍提督で、トロンプ提督(父)の1年後に生まれ、トロンプ提督@とは幼な友達だったといわれていますが生涯のライバルとなりました。1602年3才頃に父が亡くなりました。1610年に家族はメノナイト教に入信し、仕事をしながらアナバプテスト(Anabaptist:再洗礼派)の影響を受けた平和主義者の少年時代を過ごしました。
・バーバリー海賊の討伐遠征 1620/8/20にマゼ海軍本部の下士官最高位の海軍兵曹長(Schipper)に昇進して、ヘルダーラント海軍本部の
・ナッソー艦隊で世界一周航海 (ナッソー艦隊私掠船デルフト号、Privateer Delft, Nassau fleet, 1622-1626) (ワイズ提督はオランダの”ドレーク船長”と言われています) 1623/4/29に北ホラント州アムステルダム海軍省(海軍本部)がスペイン領アメリカの西海岸を襲撃するナッソー艦隊(Nassau fleet)を編成。ワイズ提督はその”ナッソー艦隊”の旗艦デルフト号艦長に任命されて参加して、
1634年の初めにフィリップス・ファン・ドープ中将(Lieutenant Admiral Philips van Dorp, 1587-1652)がビスケー湾(Gulf of Biscay)遠征艦隊旗艦にプリンス・ヘンドリック号を使用した時にワイズ艦長は4ヵ月間海軍に復帰しました。ところが航海中にヤスパー・リーフェッバー中将(Vice Admiral Jasper Liefhebber)がワイズ艦長の横暴な態度に憤慨していることが明らかになって、二人の間の緊張は耐え難いものとなり、ワイズ艦長は作戦の途中で艦を去って海軍を辞去しました。1635年に短期間の海軍復帰を果たすも、間もなくドープ提督と意見衝突して海軍を去りました。オランダ独立戦争(80年戦争:Revolt of Netherlands, 1568-1648)中のダウンズの海戦(Battle of Downs 1639/10/31)をホランド州と西フェリシア州(West Frisia)海軍の最高位の海軍中将(Lieutenant Admiral)として戦うも、ドープ提督がワイズ提督をトロンプ提督の下位ランクに置いて、その指揮の下におかれたことに不満を持ち、またスペイン艦隊を撃破したダウンズの海戦後のトロンプ人気に嫌気がさしました。そして同じ海戦中にゼーランド州のDエヴァツェン提督を臆病者と言って敵にまわしました。1635/10月-1636/10月の間はブリル市(Brill)でシェペン(schepen:市会議員)を務めました。1636年に4番目の子供のマリア(Maria)が生まれました。1637/10月ワイズ艦長はブリル市の薄給のデコン(執事:Deacon)に任命され、主に両親から相続した土地の家賃で生活して、持ち船の川漁船(Fishing Vessel)の使用料で生活を補っていました。その後、トロンプ提督もドープ提督との衝突の後に海軍を辞去しました。
・軍法会議(Court martial) 1640年に船団護送中のトロン提督艦隊へニューポート沖(off Nieuwpoort)にてスペインのダンケルク海賊船団(Dunkirker)発見の知らせが届き、トロン艦隊は海賊船団攻撃へ向かうも、折からの嵐で艦隊が散りじりになって、ダンケルク海賊船団とは遭遇できず、船団護送に復帰してニューポート沖の海戦(Battle of Nieuwpoort, 1640)は幻の海戦になりました。ところがワイズ提督は護送艦隊に復帰できず、単独で南ホラント州ヴームプテン島ヘレヴォウツルイス(Hellevoetsluis, Voorne Putten Island, South Holland Province)に戻ってきました。嵐のせいで戻ってきたのに、トロンプ提督の軍法会議に掛けられるも、無罪放免となりました。1644年に大規模な商船の護送船団を指揮し、1645年には船団がデンマークのエーレスンド海峡(Oresund)で攻撃を受けました。1647年にはブラジルのオランダ植民地(Dutch Brazil, 1630-1654)をポルトガルの攻撃から護衛するために装備が貧弱な艦隊の指揮を執りました。数ヵ月後ブラジルの協力要請を断って、ワイズ艦隊は補給不足で解体し、命に反して2隻だけの船で、1649/11月にオランダに戻りました。帰国後に逮捕されるも、ホラント州政府(States of Holland)の介入で救われ、1651/2月にほとんどの告発が無罪となりました。ただ、その間は無給でした。1651/9月に船団護衛の任務に復帰しました。 ・第一次蘭英戦争 1652年にワイズ提督が新生オランダ共和国とイギリスの戦争回避のためにオランダのジェラルド・シェープ大使(Gerard Pietersz. Schaep, 1599アムステルダム生-1654アムステルダム没)などの外交官をイギリスへ送り届け、外交交渉が行われるも、1652/5/29にイギリス海峡で蘭トロンプ提督艦隊が英ブレーク提督艦隊と遭遇して宣戦布告がないまま偶発的に戦ってドーバーの海戦が勃発して引分になりました。1652/7/7夜にワイズ提督はトロンプ艦隊と合流するよう命じられロッテルダム本部艦隊を指揮して出帆。1652/7/10には英国議会がオランダに宣戦布告を行いました。1652/7/14にワイズ艦隊は北オランダ州ヴィーリンゲン水路(Wielingen passage, North Holland Province)で合流して、総司令官トロンプ提督@の下でエヴァツェン提督Dに次いで序列第3位の司令官となり、部下にデ・ロイテル提督Cがいました。
1656/7月にワイズ提督が指揮するオランダ艦隊がポートランドのグダニスク湾に来航して、スウェーデンが包囲するダンツィヒ港の封鎖を解除しました。 ・サウンドの海戦で戦死 1656年当時は徴兵制が無いので各艦長は自分で乗組員を募集しなければなりませんでした。その夏にワイズ提督はダンツィヒの救援に参加するため乗組員を募集するも、艦長の評判が悪かったためか? 乗組員を十分に集めることができずに人員不足のままブレデローデ号で出帆。10日遅れの1656/7/27にコペンハーゲンの合流場所に到着するも、戦わずにスウェーデンがコペンハーゲン包囲を解除したため、それほど問題にはなりませんでした。帰国の途中でデンマーク王フレデリク3世(Frederick III of Denmark, 在位1648/7/6-1670/2/9)から50クローネ(DKK:Danish Krone)を受け取りました。1657年と1658 年夏にワイズ提督は北海の警備任務に就き、1658/9/1にはブレデローデ号が嵐で大きな被害を受けました。1658/10月にブレデローデ号に座上し、第2次北方戦争中(2nd Northern War, 1655-1660)のデンマーク首都コペンハーゲン(Copenhagen)をスウェーデンから救援するオランダ艦隊の先鋒を指揮してサウンドの海戦(1658/10/29)に従軍して戦死しました。
・家族 1627/11月、28才で南ホラント州ニーウェンホールン(Nieuwenhoorn)出身の 又従妹マリア・デ・ワイズ(Maria de With, 1631没)と結婚 1626/9/22、世界一周航海後、母親と妹が亡くなっていたことを聞く 1629/9月、娘のコーネリア(Cornelia)誕生 1631/5月、妻マリア没 1631/8月、ロッテルダムの貴族の娘のヒレゴンダ・ファン・ゴッホ(Hillegonda van Goch)18才と再婚 1636年、4番目の子供の娘マリア(Maria)誕生 1639年、5番目の子供の娘カタリーナ(Catharina)誕生 1643/2月、6番目の子供の娘アイダ(Ida)誕生 1645/1/15、7番目の子供の娘アンナ(Anna)誕生 1648/1/30、8番目の子供の娘アドリアナ(Adriana)誕生 1649/5/22、6人の子供を残して妻ヒレゴンダ没 1651/5/23、亡きヒレゴンダ夫人兄ヘンドリック未亡人エスター・デ・メースター(Hester de Meester)再々婚 1652/5/8、9番目の子供の娘、もう一人のマリア(Maria)誕生 1653/5/25、10人目の子供の息子ヴィッテ(Witte)誕生 1654/8月、8人の子供を残して妻エスター没 1658/3/12、62才でアイスブランド・ファン・ハウテン(Jsbrand van Houten)未亡人 カタリーナ・ファン・ヘストレヒト(Catharina van Haestrecht)と再々々婚 1658/10/29、サウンドの海戦に従軍して戦死しました。 参考〜: ・メノナイト教団 (Mennonite) メノナイト教団は、メノー派はキリスト教アナバプテスト教派で、クエーカー教徒と共に歴史的平和教会の一つに数えられ、非暴力で暴力を使わない抵抗と融和および平和主義のために行動する教派。 ワイズ提督の従軍戦歴:〜 ◆オランダ独立戦争(80年戦争. 1568-1648) @ジャカルタの包囲戦(1618)蘭敗北 Aマタンサス湾の海戦(1628/9/7)オランダ勝利 Bダウンズの海戦(1639/10/21)オランダ勝利 ◆第一次蘭英戦争(1652-1654)オランダ共和国7州連合艦隊トロンプ総司令官の麾下 Cドーバーの海戦(1652/5/29)引分 Dケンティシュノックの海戦(1652/10/8)英勝利 Eリヴォルノの海戦(1653/3/14、イタリア)オランダ勝利 Fガバードの海戦(1653/6/12)英勝利 Gスヘフェニンゲンの海戦(1653/8/8)引分 ◆北方戦争(Northern Wars, 1655-1661) Hダンツィヒ包囲戦 (1655-1660)オランダ勝利 Iサウンドの海戦(1658/11/8)オランダ勝利 など。 参考HP:〜 ・テクセル島の場所地図 ・オランダの地図(1672) ・オランダ最大版図の地図(19世紀) ・オランダの地図(現在、水面下を示す図) ・ジャワ島の場所地図(赤:インドネシアの地図) ・ジャワ島の地図(地勢図) ・ジャワ島西部のバンタムの場所地図(Bantem, Jakarta有) ・オランダ領ブラジルの場所地図(Dutch Brazil, 1630-1654) ・コペンハーゲン付近の地図(エーレスンド砂州海峡:Oresund)点線はエーレスンドの南北境界を示す こちらで ・蘭英戦争(1652-1674) ・第1次蘭英戦争(1652-1654) ・第2次蘭英戦争(1665-1667) ・第3次蘭英戦争(1672-1674) ・第4次蘭英戦争(1780-1784)
・上記はこちらの文献などを参照させてもらいました。 2008/3/25、令和5年 2023/8/23 |