Netherland 国連 1989 発行 |
切手で綴る 蘭英戦争(Naval Battle Voyages)
オランダ海軍の提督 No.17
ティジェルク・デ・フリース提督 1666/7/25 セント・ジェームス・デイの海戦 |
大航海物語 オランダ編★ |
NEDERLAND Pフリース提督 オランダ 1943-44 発行 |
JERSEY 英仏海峡の地図 ジャージー 1970 発行 |
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NEDERLAND オランダの地図 オランダ 1972 発行 |
REPUBLICA DE GUINEA ECUATORIAL 海戦の図 赤道ギニア 1975 発行 |
12才で船に乗組んで海に出たフリース少年はやがて商船の船長になりました。1658年のスェーデンに対するコペンハーゲン防衛の海戦にはジュディス号艦長として従軍して兵員輸送で初陣を飾り、4ヵ月後のサウンドの海戦では敵艦を拿捕するなど勝利してフリースランド海軍の特別艦長に任命されました。1665年のオランダが大敗して最高司令官が失脚したロストーフトの海戦で、勇敢に戦って帰港すると民衆から英雄として歓迎され、フリースラント海軍中将に任命されました。1666年にノースファランド沖の海戦の初日にエヴァツウェン提督Fが戦死すると司令官を勤めてオランダを勝利に導きました。その1ヵ月後のセント・ジェームス・デイの海戦で戦死しました。 |
蘭提督ティジェルク・ヒッデスゾーン・デ・フリース中将P (通常:ヒッデス・デ・フリース提督:Hiddes de Vries)セクスビエルム生、フラッシング没 (Lieutenant Admiral Tjerk Hiddeszoon de Vries, 1622/8/6-1666/8/6, 44才戦没) フリース提督は、1622年にオランダのフリースラント州セクスビエルム村(Sexbierum, Friesland)で製粉業者の父ヒッデ・ショールズ(Hidde Siurds)とスワブ・ツェルク(Swab Tjeirck)娘の母の次男として生まれました。12才で商船に乗組んで海へ出ました。1648年フリースラント州ハーリンゲン村(Harlingen)の少女ナンネチェ・アテス(Nannetje Atses)と結婚して、フリースラント州の主要港ハーリンゲン港(Port Harlingen)に住みました。1654年には商船の船長(Skipper)になりました。 1658年のスウェーデンとの北方戦争中(First Northern War, 1558-1583)に、ローストフトの海戦(Battle of Lowestoft, 1665/6/13)で戦死したフリースラント海軍のKワッセナー・オブダム提督の艦隊に所属して、コペンハーゲンの救援で兵員輸送船ジュディス号(Troopship Judith, 24gn)艦長として従軍。サウンドの海戦(1658/10/29)ではフリース艦長がジュディス号の海兵たちをスウェーデン艦3隻に乗り込ませて拿捕。この功績でオランダの5海軍省の内のフリースラント海軍(Admiralty of Friesland)の特別艦長に任命されました。 第二次英蘭戦争(1665/3/4-1667/7/31)では、1665/3/27にデルフ・シュテーデン号(d'Elff Steden, 54gn)艦長に任命されてロストーフトの海戦で、艤装に絡まって炎上する他の3隻の僚艦から自艦を切り離して生還しました。この戦いはオランダにとって大敗で、無能な他の司令官と違って、フリース艦長が戦い中で示したその勇敢さでオランダの民衆から英雄として讃えられました。最高司令官ユニコ・ヴィルヘルム・ファン・ヴァッセナール・オブダム伯爵(Unico Wilhelm rijksgraaf van Wassenaer Obdam, 1692-1766)は失脚しました。1665/6/29に、ロストーフトの海戦で戦死したアウケ・ステリングヴェルフ提督(Auke Andriesz Stellingwerf, 1635-1665/6/13)の後継者としてフリースラント海軍中将(Lieutenant Admiral of Friesland)に任命され、フリースラント艦隊の強化のため新しい艦艇28隻の建造を指揮監督しました。1666年のノースファランド沖の海戦(四日海戦, 1666/6/1)では、ジーラント海軍のコルネリス・エバツェン提督F艦隊で副司令官を務めました。その海戦の初日にエバツエン提督Fが戦死すると、フリース提督が司令官となって旗艦グルート・フリジア号(Groot Frisia, 72gn)で指揮しました。特に最終4日目は健闘してオランダの勝利に貢献しました。6週間後のセント・ジェームズ・デーの海戦(1666/7/25)では、第2艦隊ヨハン・エバツェン提督D艦隊の前衛艦隊で司令官としてグルート・フリジア号にて指揮しました。ところが、グルート・フリジア号がイギリス艦隊の総司令官ライン王子ルパート提督Bの猛攻撃で、フリース提督は腕と足を撃ち落とされました。グルート・フリジア号は漂流し、翌日トロンプ提督A指揮のオランダ後方艦隊に発見されました。負傷したフリース提督はヨットで速やかにゼーラント州フリシンゲン(Vlissingen, Zeeland)に揚陸されるも、1666/8/6の誕生日にその傷がもとで戦死しました。 フリース提督はフリースランド州ハーリンゲンの大教会(Grote Kerk of Harlingen)に埋葬されました。フリース提督戦死の4日後に息子のティルク・ヒデス・ザ・ヤンガー(Tjerk Hiddes the Younger)が誕生し、生後すぐに海軍本部から父親の追悼の意を込めて将来の艦長就任が約束されました。 参考HP:〜 ・テクセル島の場所地図 ・オランダの地図(1672) ・オランダ最大版図の地図(19世紀) ・オランダの地図(現在、水面下を示す図) ・ジャワ島の場所地図(インドネシアの地図) ・ジャワ島の地図(地勢図) ・ジャワ島バンタムの場所地図(Bantem, Jakarta有) こちらで ・蘭英戦争(1652-1674) ・第1次蘭英戦争(1652-1654) ・第2次蘭英戦争(1665-1667) ・第3次蘭英戦争(1672-1674) ・第4次蘭英戦争(1780-1784)
・上記はこちらの文献などを参照させてもらいました。 令和5年 2023/11/23 |