★イギリス |
リチャード・グレンヴィル船長 1585 ロアノーク植民団を輸送 |
大航海物語★ |
リヴェンジ号 | グレンヴィル船長 |
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USA エリザベス号 失われた植民地 USA 1984 発行 |
AZORES アゾレス諸島 アゾレス 1980/9/17 発行 |
イングランド・デヴォン州生まれのグレンヴィル船長は24才でハンガリーに渡ってオスマン・トルコと戦い、帰国してからはアイルランドに渡り、デスモンド反乱直前の英植民地入植者と地元アイルランド人との紛争で戦いました。一時イングランドに戻り、世界一周計画を立案したり、ウォルター・ローリー卿のヴァージニア入植地”ロアノーク”へ入植団を輸送したりしました。そして再びアイルランドに戻り、第2次デスモンド反乱を戦いました。1588年のスペイン・アルマダの来襲時には海岸防備に専念し、その後に副海軍大将となってアゾレス諸島へ英艦隊を率いて出撃し、スペイン艦隊と戦い捕虜となり、その時の戦傷で亡くなりました。 |
サー・リチャード・グレンヴィル船長 (1542/6/6〜1591/9/10) Sir Richard Grenville リチャード・グレンヴィルは英国コーンウォール半島の中部にあるデヴォン州バックランド・モナクローム村バックアランドアビイのクリフトンハウス(Clifton house Buckland Abbey Buckland Monachorum Devon)で生まれました。グレンヴィルはサー・ウォルター・ローリー卿とフランシス・ドレーク船長との従兄弟(いとこ)でした。17才まで教会で修業しましたが、1562年20才の時に誤って人(Robert Banniste)を殺害して教会を追われましたが、その後に罪は赦免されました。 グレンヴィル船長の大冒険:〜 ・ハンガリーへ航海、ハンガリーの戦い(1566) ・アイルランドへ航海、第1次アイルランド反乱(1569) ・新世界へ大航海、ロアノーク島殖民(1585、1586) ・アイルランドへ航海、第2次アイルランド反乱(1583) ・アイルランドへ航海、アルマダの海戦(1588) ・アゾレス諸島へ大航海、最後の戦い(1591) ▼ハンガリーの戦い その頃、ヨーロッパの東端イスタンブールでオスマン・トルコの第10代皇帝スレイマン1世(Kanuni Sultan Suleyman、1494〜在位:1520-1566)が即位し、オスマン帝国の国力はもっとも充実して軍事力で他国を圧倒するに至り、その領域は中央ヨーロッパ、北アフリカにまで広がっていました。1529年にはハプスブルク家の神聖ローマ皇帝カール5世の都ウィーンを1ヵ月以上にわたって包囲しましたが、冬将軍の到来などで囲みを解き撤退しましたが、その後に再度の攻撃を受けました。 こうした中で、グレンヴィルは1566年にハンガリーに渡って行き、オスマン・トルコ軍と戦いました。1566年にスレイマン1世がハンガリー遠征中に陣没したため、戦いが終って帰国することになりました。
1569/6月にグレンヴィルはアイルランドからイングランへと出帆、生粋のプロテスタント(undeviatingly Protestant)としてコーク港の検察官(sheriff of Cork)になって、エリザベス1世女王の宰相ウィリアム・セシル男爵(William Cecil, 1st Baron Burghley 1520-1598、初代バーリー男爵)と対立していたアルンデル伯爵(Earl of Arundel)やノーフォーク公爵(Duke of Norfolk)のもとで働き、その後にデヴォン州北部の発展する前の小村ベドフォード港(Bideford)に移りました。コーンウォールの検察官(Sheriff of Cornwall)だったグレンヴィルは、1577/6/8にカトリック神学校聖職者(Seminary priest)のトレガン神父(Francis Tregian the Elder 1548-1608)と聖メイン神父(Saint Cuthbert Mayne 1544-1577)を百人で包囲して捕えました。グレンヴィルはアイルランドでの功績などにより1570年頃にエリザベス1世女王から爵位を与えられてナイトに叙せられました。グレンヴィルが留守にしていたコーク州では反乱事件が起っていました。
1586年にグレンヴィル船長が再度、ロアノーク島植民地へ行ってみると、食料の欠乏で飢えた植民者たちは、すでにドレーク船長の船隊に救助されて帰国していました。帰路の航海で、アゾレス諸島の各地を急襲し略奪して回りました。 ▼第2次アイルランド反乱 1583年に第2次アイルランド反乱(Second Desmond Rebellion 1579-1583)が収束すると、グレンヴィル船長はキナルメアキィ(Kinalmeaky)に97uの土地を買い、移住者を入植させて成功しました。 ▼アルマダの海戦 1587年のドレーク艦隊によるスペインのカディス攻撃には参加しませんでしたが、スペインのアルマダの来襲時にはウォルター・ローリー卿と共にデヴォン州の海岸防衛に専念し、スペイン無敵艦隊がアイルランドに接近するのを見張りました。アルマダが敗れ去ると、1590年遅くにイングランドのマンスター(Munster)に戻りました。 ▼グレンヴィル船長の最後の戦い 1591年にハワード提督(Admiral Thomas Howard, 1st Earl of Suffolk, KG, PC 1561-1626)のもとで副海軍大将(vice-admiral)に指名され、英海軍建艦技術の傑作だとみなされていたイングリシュ・ガレオン船リヴェンジ号(HMS Revenge、440 long tons、20 heavy guns)に乗艦して指揮をとりました。 1591年にウォルター・ローリー卿が新大陸から帰ってくるスパニシュ・ガレオン輸送装甲船団の襲撃を企て、正に出港しょうとした時に女王に止められ、代わりにグレンヴィル船長がリヴェンジ号で出帆しました。そして、アゾレス諸島でスペイン船団を待ち伏せすることになりましたが、フローレス島(Flores)でグレンヴィル船隊はフェリペ2世が送り込んだ強力な53隻のスペイン艦隊に遭遇・直面してしまいました。グレンヴィル船長は逃亡の機会を顧みずに対決を選択し、12時間の戦いの後にグレンヴィル船隊は15隻が重大な損傷を受けてしまいました。最後にグレンヴィル船長は船を爆破しょうと思いましたが、乗組員が降伏したので、グレンヴィル船長も捕虜になりました。グレンヴィル船長はその時の傷で数日後に亡くなりました。リヴェンジ号はその数日後のサイクロン(嵐)でスペイン船16隻と共に沈み、海の藻屑と消え去りました。 ▼その後 グレンヴィル船長が自分の代わりに出撃してスペインの捕虜になったので、ウォルター・ローリー卿は従兄弟の仇をうち救出するべく新船団を組織し、念願の航海に同年に出帆しました。ところが、再び女王に呼び戻され、ウォルター・ローリー卿が女王の女官と愛人関係とのかどで、ロンドン塔に幽閉されてしまいました。 ・リヴェンジ号の装備:〜: HMS Revenge、1577
・ル・アストロラーベ号 参考HP:〜 ・デヴォン州の場所地図 ・デヴォンシャーの場所地図 ▼参考:〜
・第2次アイルランド反乱 (Desmond Rebellions 1579-1583) 1570年にエリザベス1世がローマ法王に破門されたので、アイルランドのカトリック教徒はもはや異教徒の君主に忠義を負ってはいませんでした。 1579/7/18にフィッツモリス(Fitzmaurice)がローマ法王支援の小規模なスペイン・イタリア連合軍を率いてディングル(Dingle 現County Kerry)近くのスマーウィック(Smerwick)に上陸しました。1583/11/2にイングランド軍に敗れたデズモンド伯爵はコークの城壁に晒しものになりました。 ・参考HP:〜 アイルランドの地図
さらに、1538年プレヴェザの海戦ではスペインなどの連合艦隊を破り、地中海のほぼ全域を支配下に置くことに成功。そしてスレイマン1世はインドネシアのアチェ王国のスルタンであるアラー・ウッディーンの要請に応じて艦隊を派遣。このとき艦隊はマラッカ海峡まで行きました。スレイマンの治世はこのように輝かしい軍事的成功に彩られ、オスマン帝国の人々にとっては建国以来オスマン帝国が形成してきた国制が完成の域に達し、制度上の破綻がなかった理想の時代として記憶されていました。 なお、1566年にスレイマン1世がハンガリー遠征中に陣没したため息子のセリム2世(1524〜在位:1566-1574)がオスマン帝国の第11代皇帝として即位しましたが、大帝と恐れられたスレイマン1世の死は、ヨーロッパ諸国に大きな反攻の契機を与え、それが1571年にオスマン帝国海軍がコリント湾内でのレパントの海戦でスペインの艦隊に大敗するという結果で現れました。この時以来、スペインの艦隊が無敵艦隊(アルマダ、ARMADA)と呼ばれるようになりました。 ・参考HP:〜 イスタンブール付近の地図 ・上記はこちらの文献などを参照させてもらいました。 2010/1/23 |