United Kingdom![]() 国連 1983 発行 |
切手で綴る イギリスの大航海(Naval Voyage
of Britain)海軍(1-2)
エリザベス1世女王 1588 スペイン無敵艦隊アルマダを撃破 イングランド王国 テューダー朝(1485-1603)第6代 |
大航海物語 イギリス編★ |
British Virgin Islands | |
エリザベス1世女王![]() |
エリザベス女王のドレーク船長への 爵位(ナイト)親授式 ![]() |
英領ヴァ−ジン諸島 1980/9/26 発行 | 英領ヴァ−ジン諸島 1980/9/26 発行 |
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BARBUDA エリザベス 1世 ![]() バーブダ 1970/10/15 発行 |
St. Helena エリザベス1世 と アルマダの海戦 ![]() セントヘレナ 2005/9/7 発行 |
・エリザベス一世 女王 Elizabeth Ist (1533/9/7〜在位1558/11/17〜1603/3/24) イングランド王国(Kingdom of England)の女王(1558-1603) アイルランド王国(Kingdom of Ireland)の女王(1558-1603 テューダー朝(Tudor dynasty:1485-1603)第6代(最後)の君主 生誕地:イングランド王国ロンドン(#H)特別区グリニッジ王室特別区の現プラセンティア宮殿 (Palace of Placentia, Royal Borough of Greenwich, London, England) 没 地:イングランド王国サリー州(#25)"リッチモンド宮殿" (Richmond Palace, Surrey, England)69才没 エリザベス1世は、別名グロリアーナ(Gloriana)で、ヘンリー8世と2番目の王妃アン・ブーリンの子として
女王になると、父の政策を踏襲して再び「国王至上法」を発令、「礼拝統一法」によってイングランド国教会を国家の主柱として位置づけました。1569年にはカトリックを信仰する北部諸侯の乱を鎮圧し、1570年にローマ法王庁教皇ピウス5世から正式に破門宣告されました。以後エリザベスは何度となく、国内のカトリック勢力による暗殺の危険にさらされました。 一方、この時代にはフランシス・ドレーク船長やジョン・ホーキンス船長など優れた航海家を排出しました。1568年にフランス育ちで、かってフランス王フランソワ2世の妃でもあったスコットランド女王メアリー1世(Mary Stuart, 1542-在位1542-1567-1587、ジェームス1世の母)が、スコットランドの内紛でイングランドへ逃げてきました。始めは賓客扱いでしたが、メアリーはエリザベスの伯母マーガレット・テューダーの孫でイングランド王位継承権を持っており、1586年のカトリック教徒がエリザベスの暗殺を狙ったバビントン事件に加担して有罪で死刑判決などがあり、側近達が生かしておくには余りにも危険な存在だと主張してイングランドに18年半滞在した後、メアリーを北イングランドで処刑しました。エリザベスはメアリーを処刑したがらなかったと伝えられています。
エリザベス1世は財政難を補うため私掠船に掠奪許可証を与え、植民地から帰還途上のスペイン船を掠奪させていたのと、カトリック教徒だったメアリーの処刑で、スペインとの対立が深刻化しました。そして、 スペインのフェリペ2世は、スペインの植民地だったオランダからイングランドへの上陸をもくろみ、1588年にスペイン無敵艦隊(アルマダ)を侵攻させ、英西戦争(Anglo-Spanish War、1585-1604)が始まりました。イングランドは十分な海軍を持っていなかったので、私掠船などをかき集めた寄せ集めの艦隊で、海賊上がりのドレイク提督以下、機動力の高い小型艦と射程距離の長い大砲を駆使し、スペイン無敵艦隊アルマダの海戦で大勝利を収め、スペイン無敵艦隊を撃破してスペインのイングランド上陸を阻止しました。スペイン艦隊は北海で嵐にも巻込まれ、スペインに戻ることができた軍艦はほとんどなかったと伝えられています。このアルマダ海戦での大勝利以後、スペインに代わりイングランドが世界貿易を一手に握るようになってゆきました。 晩年は「囲い込み」によって発生した農民の大量難民に対処しきれず、発布した「エリザベス救貧法」も効果が上らず、また、対スペイン戦やアイルランドの反乱鎮圧のために軍事費が増大して重税を課し社会不安が増加しました。逼迫した財政立て直しのため独占許可状を乱発しましたが、議会の猛反対にあい、やむなく撤回するはめとなりました。しかし、この際の演説は「黄金のスピーチ」として今も語りぐさとなっています。文化的にはエリザベスの時代には、ウィリアム・シェイクスピアを始めとする文筆家を多数輩出して一大文化を築きました。1603/3月に後継者にスコットランド王ジェームズ1世(メアリーの息子)を指名し、70才で亡くなりました。 生涯独身であったため処女王(Virgin Queen)と呼ばれましたが、実際には数人の愛人を持っていました。レスター伯ロバート・ダドリー(Robert Dudley, 1st Earl of Leicester, KG、1533-1588)や、エセックス伯ロバート・デヴァルー(Robert Devereux, 2nd Earl of Essex, KG, PC、1566-1601、レスター伯とエセックス伯は義理の親子)、サー・ウォーター・ローリーなどでした。特にダドリーとは一時は結婚まで考えましたが、その妻エイミーが階段から落ちて死亡する事件が起こり、ダドリーとの共謀説が流れたため、結婚を断念しました。ローリー卿は新大陸(アメリカ)にエリザベス女王に因みヴァージニア(ロアノーク)植民地を建設するなどして好意を得ていましたが、エリザベスの侍女と極秘結婚したためロンドン塔に幽閉されました(後に放免)。エセックス伯に対しては女王が老齢に達していたこともあり寛容でしたが、1601/2月にエリザベスに対して反乱を起こしたので、処刑を命じました。 未婚の理由については諸処の説がありますが、 国外の王族と結婚すればその国の属国になり、国内の貴族と結婚すればその貴族が国王となってしまうというジレンマによるといわれています。また、未婚でいることによって外交を有利に運ぼうという政策が基本にありました。なお、肖像画に影(=しわ)を入れないよう命じたため、彼女の肖像画にはしわは描かれていません。これは日々老いる姿を国民に見せないようにして安心させるためであり、政治的な配慮だったといわれています。
・第6代(最後) エリザベス1世 (Elizabeth I、1533-在位1558-1603) ・以降はスチュアート朝(英国年表)。 こちらで ・ジェームスT世 (英国王:イングランド国王(Kingdom of England)国王) ・ヴィクトリア女王 (英国王:イギリス(United Kingdom)国王) 世界遺産の ・ヌビア遺跡 (エジプト) ・ピラミッド (エジプト) ・パルテノン神殿 (ギリシャ) ・姫路城 (日本) をお楽しみください。 ・上記はこちらの文献などを参照させてもらいました。 2007/12/20、2018/8/28、令和7年 2025/9/25 |