★イギリス サー・ウォルター・ローリー
1578
北西航路の探検へ出帆
大航海物語★

BRITISH GUIANA
ウォルター・ローリー卿
長男ウォルター


作者不詳、1602年作画
ロンドン国立ポートレートギャラリ−蔵
National Portrait Gallery, London

英領ギアナ 1934/10/1 発行 (200%)
サー・ウォルター・ローリー

イギリス 1972 発行
JERSEY
ヴァージニアの地図
(Roanork pasquenoke)

1600〜1603 ジャージー島総督
ヴァージニア植民400年記念

英領ジャージー 1976/5/29 発行
USA
失われた植民地(Lost Colony)

Roanork Voyage, North Carolina
1584 エリザベス号

USA 1984/7/13 発行

ローリーは軍人から身を起し、アイルランド問題でエリザベス1世の廷臣となり、「女王が馬車から降りようとすると地面に水溜りがあったので、自分の高価なマントを、サット広げて女王の足元を汚さなかった」との逸話を残しています。生涯結婚しなかった女王の愛人であったとも言われています。また、ローリーは北米に植民地建設を志し、独身の女王にちなんで、そこを「ヴァージニア(処女地)」と命名したことでも知られています。
ウォルター・ローリー卿 (1552頃〜1618)
 Sir Walter Raleigh

ローリーはイギリスの西部デボンシャーで裕福なプロテスタント(新教徒)の家に生まれました。オックスフォード大学オーリアル・カレッジで学んだ後、1569年17才で故郷を後にして、ユグノー救援軍に参加。フランス宗教戦争に身を投じ、大陸各地を転戦しました。5年間フランスを転戦、その間に遭遇した2度の大会戦とサン・バルテルミーの大虐殺にも生き残りました。1576年に帰国し、学生ではありませんでしたがロンドン法学院に寄宿し、自分の好むテーマ「生きとし生けるもののはかなさ」の詩を公刊しました。彼は当時の作風とは違う口語的な表現を用いていました。

ローリー卿の大航海
1578〜北西航路探検に出帆
1585〜プリマス〜ノース・カロライナのパミル湾ロアノ−ク島に入植地を建設
1586〜ロアノーク島入植者が帰国
1587〜ロアノーク島へ2度目の植民
1595〜エル・ドラード探検へ出帆、南米ギアナ探検に失敗
1616〜南米へ黄金を探しに出帆、スペイン人を攻撃したかどで帰国後に処刑で没

1578年(26才)にローリーは異父兄ハンフリー・ギルバートと共に、北西航路探検に出帆しました。ギルバートが取得していた航海免許状「スペイン領を侵犯しないことを条件に女王から西方探検の許可状を裁可されていました」、に反して出港すると直ぐ私掠船として活動し、スペイン船を拿捕して掠奪を働きました。ギルバートはハドソン川とハタラス岬の中間地点付近に植民地を建設しょうと計画していました。この航海の記録は伝わっておらず不明な点が多いのですが、西インド諸島方面を回って、ギルバートと共に1579年4月に帰港しました。すると枢密院から訴追を受け、帰国後の彼の行状や喧嘩口論もあって「平和を乱した」かどで前後2回も禁固6ヵ月の刑に処せられました。出獄後アイルランド戦争に歩兵中隊長を命じられて従軍しました。反乱軍討伐やスペイン・イタリ−連合軍との闘いで手柄を立て、マンスター州の臨時行政官に任命されましたが、上司を批判したため本国送還となりました。
1581年無一文でロンドンに送還され、「アイルランド問題の権威者」として、エリザベス女王の廷臣となり、よき助言者として女王の寵愛を受けました。彼はその美貌と任侠で宮廷内を牛耳ったと言われています。この間、女王にロンドン市内に大邸宅を、オックスフォードに2ヵ所の所領を与えられ、また1583年には実入りの良いブドウ酒占売権を翌年には大幅ラシャ地輸出独占権を与えられていました。1584年には爵位を与えられナイトに列せられました。1585年デボンとコーンウォールのスズ鉱山監督官、コーンウォール州総監、西部方面(デボンとコーンウォール)艦隊副司令官などを歴任しました。彼の態度は尊大であったので宮廷内では不評で憎まれてさえいました。デボンとコーンウォールでは採掘規則を改革したり、地元の私略船活動に協力していましたので、絶大な人気を得ていました。同年と1586年にはデボンシャー議会に選出されました。1586年ローリーは近衛連隊長に任命されました。 エリザベス1世女王

英領ヴァ−ジン諸島 1980/9/26 発行
1583年ギルバートがイギリス人カトリックの新大陸への移民計画実行の出港に際して、ローリーが同行するのを女王に禁じられましたので、資金と自作設計の船1隻を提供しました。その後、ニューファウンドランドからの帰途1583/9/9ギルバートが遭難死を遂げたので、ローリーに新天地の植民許可状が下付されました。そして先遣隊はアメリカ大陸カロライナ沿岸に新天地を築き始めました。ローリーはそこをイギリスの新領土として、処女女王エリザベスにちなんで「ヴァージニア(処女地)」と名付けました。ところが、最初の植民団は女王の持舟1隻と多少の資金の提供を受け、彼の従兄弟のリチャード・グレンビル船長指揮のもと出帆したのですが、内部抗争や規律の欠如、原住民(インディアン)の敵意のため失敗しました。それでノース・カロライナのロアノーク入植地は「失われた植民地」と呼ばれるようになりました。生存者は、1586年にドレーク船長の遠征艦隊に分乗して帰国してしまいました。この時、ジャガイモ葉タバコがイギリスに伝来したとされています。 タバコの葉

トルコ 1965 発行

1587年第2次植民団がジョン・ホワイトに率いられて出港しました。この頃スペイン無敵艦隊”アルマダ”の来襲があったため、新植民地への補給船を2年間も派遣することが出来ませんでした。ようやく1591年救援の船がアメリカに到着してみると、植民地はすでに消滅していました。その後もローリーは再三にわたってヴァージニアへ遠征隊を送りましたが恒久的な植民地は建設できませんでした。与えられていた特許状はジェームス1世によって回収されてしまいました。1588年のアルマダの来襲時にはデボンシャーで民兵隊を組織して沿岸防備を固めましたが、実際の海戦には参加しませんでした。

1591年ローリーは新大陸から帰ってくるスペイン装甲艦隊の襲撃を企て、正に出港しょうとした時に女王に止められました。代わりに出港したグレンビルがスペインの捕虜になったので、ローリーは従兄弟の仇をうつため新船団を組織して、念願の航海に出港しました。ところが、再び女王に呼び戻されて、彼が女王の女官と愛人関係とのかどで、ロンドン塔に幽閉されてしまいました。後に彼はこの女官(エリザベス・スログモートン)と正式に結婚し、ローリーの艦隊がスペイン領から略奪してきた莫大な財宝を女王に献上して、ドーセットシャー・シャーボーンの所領に帰る事を許されたのでした。

1594年末にギアナ(ベネズエラ)探検計画に女王が許可を与えたので、ローリーは新大陸へ赴き、1595年オリノコ河畔を探検。同年トリニダードトバゴ島でスペイン総督を捕えました。帰港の時には大量の金鉱石の見本を持ち帰りました。

1596年にはライバルのエセックス伯とマーチン・フロビシャージョン・デイヴィス船長と共にスペイン・カディス港を襲撃して大戦果を上げました。これで女王の勘気が解け、再び宮廷への出入りが許され、トランプの専売権を与えられ、海軍指令官を歴任した後、ジャージー島総督になって有能な行政官振りを発揮したと伝えられています。宿敵エセックス伯爵が反逆罪で処刑されてからは、女王の寵臣としての地位が不動のものとなりました。この頃から体調の優れぬ女王の後継者と目されていたジェームス王子にローリーを中傷する讒訴が吹き込まれました。1603年女王が亡くなり、ジェームス1世が即位すると、ローリーは全ての官職、近衛連隊長、鉱山監督官、ジャージー島総督を解任され、各種の専売権は
停止されました。その上、偽証によりロンドン塔に収監されてしまいましたので、ローリーは自殺を図りましたが死にきれませんでした。 その年末の裁判で死刑を求刑されましたが、刑の執行は猶予され、13年間ロンドン塔に投獄されました。塔での生活は彼に同情したヘンリー王子の計らいで優遇されました。ローリーはこの獄中で”世界史”(Historie of the World)を書き上げました。

1616年、前回のギアナ遠征で発見した金鉱脈の再探検を計画して許され釈放されました。同年6月金鉱発見のための探検隊を自ら率いてイギリスを出帆しました。しかしこの探検は失敗に終わり、しかもスペイン人との抗争事件を引き起こし長男ウォルターが戦死するという悲劇に見まわれました。手ぶらで帰国したローリーは再び逮捕され、反逆罪で1618/10/19に断頭台の露と消えました。
長男ウォルター
なお、1605年にロンドンで共同出資会社「ヴァージニア会社」の後援で、新大陸ノース・カロライナのロアノ−ク島入植地「失われた植民地」への植民団が編制され、スミス船長たち植民団144人が、1606年に3隻の船に乗船してイングランドを出帆、大西洋を横断して1607年にチェサピーク湾ケープ・ヘンリーに上陸後、ジェームス・タウンの入植地を建設しました。 ジェームス・タウン400年記念

マン島 2007 発行
・アーク・ロイヤル号の装備:〜
  HMS Ark Royal
、イングリシュ・ガレオン(Engrish Galeon)、1588年アルマダの海戦に従軍、勝利
アーク・ロイヤル号はローリーが建造して、英王室海軍(Royal Navy)が£5,000で買上げようとしましたが、1587/1月に女王エリザベス1世への献上品となり、1588年のスペイン無敵艦隊アルマダの来襲時にイギリス海軍連合艦隊の一方の旗艦になって活躍、イギリスを勝利へと導きました。
最後は1636/4月にメドウェイ川(River Medway, Kent, England)で事故で沈没しました。
船 型 イギリス(英王室)戦列艦(Royal Navy Ship ローリー卿 と アーク・ロイヤル号

セントヘレナ 2005/9/7 発行
帆 柱 3本マスト
全 長 31m
全 幅 11m
深 さ 4.9m
重 量 800屯
武 装 各種砲42門装備、砲列甲板2層
乗組員 268人
兵 員 砲兵32人、兵士100人
進 水 1587年、ロンドン(Deptford London, Eng)
最 後 1636/4月、沈没

・上記はこちらの文献などを参照させてもらいました。     09/3/25追記、12/11/12

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