★イギリス |
ジョン・ホーキンス船長 1562 カリブ海の私掠船航海 |
大航海物語★ |
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Saint Kitts and Nevis Anguilla
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Correos del Ecuador 海賊船の旗印 エクアドル 2006/12/29 発行 |
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エリザベス1世 と アルマダの海戦 セントヘレナ 2005/9/7 発行 |
イングランド・プリマス生まれのホーキンス船長はカリブ海でのポルトガル・スペインに対する私掠船という名の海賊大遠征航海で大儲けをしましたが、3回目の時に「サン・ホワン・デ・ウルーアの戦い」が勃発して、ほうほうのていで故国に生還しました。その後、英国海軍の財務官になって、その体験を生かして海軍の整備に貢献しました。スペイン無敵艦隊「アルマダ」の来襲では、フランスのカレーを襲撃して戦果を挙げました。戦後もカリブ海への私掠船航海をなし、プエルト・リコの「サン・ファンの戦い」で傷つき、故国へ帰ることも無くカリブ海の藻屑と消え去りました。 |
ジョン・ホーキンス(1532〜1595/11/12) Admiral Sir John Hawkins ホーキンス船長はイングランド王ヘンリー8世の寵臣の父ウィリアム・ホーキンス船長(William Hawkins、1562-1563)の子供として、プリマス(Plymouth)で1532年に生まれたイングランドの海賊、私掠船船長、奴隷商人、海軍提督で、フランシス・ドレーク船長の従弟(いとこ)でした。プリマスで父の事業を手伝ってアフリカの奴隷貿易にたづ触りましたが、1560年にロンドンに移りました。 ホーキンス船長の大航海:〜 第1回航海(1562-1563)〜ロンドン〜アフリカ〜カリブ海〜ロンドン 第2回航海(1564-1565)〜ロンドン〜アフリカ〜カリブ海〜ロンドン 第3回航海(1567-1569)〜サン・ホワン・デ・ウルーアの戦い ▼第1回航海(1562-1563) 1562/10にロンドンで3隻の船団を仕立てて、アフリカのシエラレオーネを経て、カリブ海への航海に出帆。シエラレオーネに到着して奴隷を獲得しました。カリブ海ではポルトガル船を襲って301人の奴隷を分捕り、さらに2隻のスペイン船を襲いました。イスパニョーラ島サントドミンゴ(Santo Domingo、現:ドミニカ共和国首都)で奴隷を売り払い、ロンドンの出資者に利益を分けました。1563/8には最初のアフリカからカリブ海とアメリカ南海岸方面への奴隷貿易に従事しました。 ▼第2回航海(1564-1565) 1564/10にエリザベス1世女王から大型の古い戦列艦ジーザス・オブ・ルーベック号(Jesus of Lubeck、700-ton ship)の提供を受け、3隻の小型船と4隻の船団を組んで出帆。ヴェネズエラ・カラボボ州(Carabobo)海岸の町で1548年に建設されていたバルブラタ(Borburata)を襲撃して400人の黒人奴隷を捕え、コロンビアのランチェリア川(Rancheria)河口の町リオ・デ・ラ・ハチャ(Rio de la Hacha)へ向かい、そこで奴隷を売ろうとしましたが、スペイン人は法外な税金を要求して妨害しました。ホーキンス船長は「町を燃やすぞ!」と脅して、やっと売り切りました。フロリダのフランス植民地へと出帆し、1565/9にアフリカで奴隷を積み込み、カリブ海で売り払い、1566/9にイギリスに戻りました。 1567年にホーキンズ船長は、英海軍会計官(Treasurer of the Navy)ゴンソン(Benjamin Gonson)の娘キャサリン・ゴンソン(Katherine Gonson)とロンドンで結婚しました。 ▼第3回航海(1567-1569):〜サン・ファン・デ・ウルーアの戦い(1568/9) 1567/10にポルトガルの奴隷船マドレ・デ・デウス号(Madre de Deus、神の母=Mother of God)を襲い、400人の奴隷を大西洋上で奪いカリブ海で売り払いました。1568/9アフリカで奴隷を積み込みカリブ海へ向かいましたが、カリブ海で大嵐に逢い、サン・ファン・デ・ウルーアにジーザス・オブ・ルーベック号の修理に寄港しましたが、スペインのヌエバ・エスパーニャ副王エンリケ(Don Martin Enriquez)は許可せず、海賊船だとしてスペイン軍が攻撃してきました。7隻の船団の内4隻が沈没、500人が死亡、2隻だけが脱出に成功し、ホーキンス船長のミニオン号(Minion)とドレーク船長のジュディス号(Judith)はみじめな航海の後にイギリスへ帰港しました。1569/2にもアフリカの奴隷貿易に航海しました。 ・サン・ホワン・デ・ウルーアの戦い(Battle of San Juan de Ulua、現:メキシコのベラクルス Veracruz) 1568/9月に再びカリブ海に現れたホーキンズ指揮の7隻、ジーザス・オブ・ルーベック号(Jesus of Lubeck、John Hawkins)、ミニオン号(Minion、John Hampton)、ウィリアム号(William)、ジョン号(John、Thomas Bolton)、ジュディス号(Judith、Francis Drake)、そして小型船2隻、エンジェル号(Angel)、スワロー号(Swallow)の船団は嵐のためスペイン領の”サン・ホワン・デ・ウルーア島”の港に退避しました。そこに、スペインの船団12隻がやってきました。ホーキンズはあくまで平和的に食糧の確保と嵐で傷んだ船の補修のみを望んだのですが……スペイン側の指揮官はホーキンズ船長を「海賊」と決めつけて、1568/9/23に攻撃してきました。イギリス人たちはすぐさま反撃してスペイン船2隻を撃沈したものの、自らも大損害を受け2隻だけで島から逃走しました。うち1隻は夜中に黙って姿を消し、ホーキンズの手元に残った小型船1隻は逃走の際に他の船から乗り移ってきた船員たちで定員過剰になっていました。食糧の不足に苦しんだ船員のうち100人はメキシコの無人海岸で自発的に下船し、残りの連中だけが飢えと病気に苦しみつつ数ヵ月かけてイギリスに生還したのは、ホーキンズ以下15人だけ、メキシコで降りた連中はインディアンかスペイン人に捕まって殺されるか、運がよくてもガレー船漕ぎの奴隷にされてしまいました。ホーキンス船長の砲手ハートップ(Job Hartop)の悲惨な生還物語などが生まれました。 ▼その後(1570-1587) 1571年のリドルフィ策略事件(Ridolfi plot、Roberto Ridolfi or di Ridolfo 1531-1612)でエリザベス1世の花婿候補にもなったノーフォーク侯爵の陰謀がホーキンズ船長らの通報で発覚して、ノーフォーク侯は9ヵ月の自宅軟禁後、1571/9/7にロンドン塔に投獄されました。ホーキンズ船長はその褒美に英国議会の議員に登用され、義父ゴンソンの死後に跡を継ぎ、英海軍財務官(1577/11/26-1595/11/12)になり、サン・ファン・デ・ウルーアの体験を生かして英国海軍を整備しました。
1590年にはドレーク船長と、「病気と老齢の船乗り」を救済する「チャリティーの会」を開催し、1592年にその資金で病院を造り、1594年はにホーキンス病院と名付けられました。救済のチャリティーは現在に引き継がれて継続されています。 ▼ジャガイモ・タバコ・サメ(Potatoes, tobacco and sharks) 1563か1565年にホーキンス船長がジャガイモ(Potatoes)をイングランドとアイルランドに輸入しました。 1569か1564年にホーキンス船長がタバコ(Tobacco)をイギリスに輸入しました。 1569にホーキンス船長の乗組員(ユカタン半島(Yucatan)のマヤ人)がサメ(sharks)の皮をイギリスに輸入しロンドンで展示販売しました。 1593年にホーキンス船長がイギリス人として最初にガラパゴス諸島に寄港。 ▼ホーキンス船長の最後 1595/1/25にプエルト・リコのサン・ファン(Battle of San Juan 1595、Fort San Felipe del Morro、Puerto Rico)を27隻の艦隊と2500人で襲撃、街を焼き払いましたが占領できずに、翌年再度の来襲時には、砲撃でかなりの損害を受けました。ドレーク船長の乗船は命中弾を受け負傷。ホーキンス船長はプエルト・リコ(Puerto Rico)の海上で亡くなり、ドレーク船長は数ヵ月後に帰国して亡くなりました。ホーキンス船長の息子のリチャード(Admiral Sir Richard Hawkins1562-1622)は父親の仕事を引き継ぎました。 参考HP:〜 ア・コルーニャの戦い地図 ・上記はこちらの文献などを参照させてもらいました。 09/7/17、12/7/13、12/9/17 |