★イギリス |
キャヴェンディッシュ船長 1586〜1588 世界一周航海 |
大航海物語★ |
キャヴェンディッシュ船長 | デザイアー号、HMS Desier 1588 |
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レスタ|号 | ||
セントヘレナ 19//1 発行 | セントヘレナ 1998/8/25 発行 |
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FIJI デザイアー号で世界一周航海 太平洋と世界地図 フィジー 1977/4/12 発行 |
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キャヴェンディッシュ船長は15才でケンブリッジ大学のコープス・クライスト学校(Corpus Christi College, Cambridge)に入学、2年間(1575-1577)学びました。1584年にシャフツベリィ(Shaftesbury, North Dorset, England)議会議員。1585年にグレンヴィル卿の新大陸ヴァージニア遠征航海に参加。1586年にウィルトン(Wilton)議会議員。1586-1588年ドレーク船長の世界一周航海に参加。1591年第2回世界一周航海に出帆。1592年南大西洋で行方不明となり、32才で海の藻屑となりました。 |
サー・トーマス・キャヴェンディッシュ船長(1560/9/19〜1592/5) Sir Thomas Cavendish キャヴェンディッシュ船長はイギリス・サフォーク州の州都のイプスウイッチ市(Ipswich)で生まれました。12才の時に亡くなった父親の財産を受け継ぎましたが、17才で学業を終えると、その後の8年間の贅沢な暮しで、財産のほとんどを使い果たしました。 キャヴェンディッシュ船長の大航海:〜 第1回航海(1585年)〜グレンヴィル卿のヴァージニア遠征航海 第2回航海(1586-1588)〜世界一周航海 第3回航海(1591-1592)〜世界一周航海へ出帆、行方不明となる ▼第1回航海(1585年) それで、海に望みを託して、小型船エリザベス号(Elizabeth)を購入して、グレンヴィル卿(Sir Richard Grenville 1542-1591)の新大陸バージニア遠征(Sir Richard Grenville's 1585 expedition to Virginia)に参加して、ひと儲けしました。 ▼第2回航海(1586-1588) 1586/7月にドレーク船長の世界一周航海に参加するべく大型船デザイアー号(Desire、120tns)を造りました。1586/6/27にハーウィシュ港(Harwich Essex, England)をコンテント号(Content、60tns)を随伴して出帆。1587/6/6にマゼラン海峡に着き、2週間以上もかかって、ようやく6/24に太平洋に出ました。
キャヴェンディッシュ船長は中国の大きい地図も手に入れ、1587/5/14にアフリカの海岸に到達し、その後に1588/9/9にイングランドに帰港しました。それはドレーク船長より早くイギリスに帰港したのであり、9ヵ月の世界一周航海を成し遂げたのはデザイアー号1隻だけでしたが、戦利品のスペイン財宝をエリザベス1世女王に献上しました。イギリスのエリザベス1世女王はキャヴェンディッシュ船長のスペインへの攻撃成功に対して叙勲、28才で爵位を受領しました。なお、スペイン無敵艦隊の来襲アルマダの海戦は1588/7月にイギリスが勝利していました。 ▼第3回航海(1591-1592) 1591/8月にレスター号(Lester)で第3回航海へと出帆しました。デザイアー号にはジョン・デーヴィス船長(John Davis 1550-1605)が乗り組んで随伴しました。ブラジルのサントス港(Santos)に着くや、街を略奪しました。さらに南方へと航海してマゼラン海峡に向かいましたがレスター号の痛みが激しく傾きだしたので、マゼラン海峡の突破は断念してブラジルに戻りました。ブラジル南東部のエスピリトサント州の州都ヴィトーリア港(Vitoria)でポルトガル守備隊と激しい戦いとなり、ほとんどの乗組員を無くしました。残りの仲間とセントヘレナ島へと航海し、行方不明となりました。たぶんアセンション島の付近で遭難したんだろうと思われました。デーヴィス船長は、そのまま航海を続け、1592/8/14にフォークランド諸島に到達・発見し、飢えと病気で多くの乗組員を無くしながら、1593年にイギリスに戻りました。 参考HP:〜 バハ・カリフォルニア半島の地図 ・上記はこちらの文献などを参照させてもらいました。 09/8/15 |