大航海物語
南蛮船
16世紀〜17世紀
日本に来航した南蛮船

参考資料
日本人が描いた南蛮船の図
Portugal
南蛮船(ポルトガル船)の図

狩野道味(1593-1600作)「南蛮屏風」
ポルトガル国立古美術館所蔵

日本・ポルトガル修好150年記念
ポルトガル 2010 発行 (200%)
日本郵便 NIPPON
南蛮船(ポルトガル船)の図

狩野道味(1593-1600作)「南蛮屏風」
ポルトガル国立古美術館所蔵

日本・ポルトガル修好150年記念
日本 2010/10/22 発行 (200%)

PANAMA
南蛮船(スペイン船)の図
南蛮船






和船
Anonimous Japanese
船型が南蛮船駿河湾来航図屏風に酷似

パナマ 1968/5/7 発行 (200%)

・南蛮船 (16世紀後半〜17世紀初頭)
  ・ポルトガル船(Portugese Galleon)、
     上図(左):1593-1600頃、日本人絵師・狩野道味(生年没年不詳)作
  ・スペイン船(Spanish Galleon)、
     上図(右):慶長初期(1600頃)日本人絵師作
            船型は九州博物館の南蛮船駿河湾来航図屏風に酷似
  ・イギリス船(British Galleon
  ・オランダ船(Dutch Galleon
  ・なお、幕末期(19世紀)にはロシア船も日本近海に出没
南蛮船は中国の中華思想の影響で、初めは広く南方から来た外国船を意味していました。室町末期にポルトガル人やスペイン人が南方から、キリスト教の布教活動や貿易のために来航するようになると、西洋船をさして南蛮船と呼ぶようになりました。最初の南蛮貿易は南蛮人(スペイン、ポルトガルの商人)が南蛮船に乗って日本にきて、日本の商人との間で、16世紀半ば〜17世紀初頭にかけて商取引(貿易)がなされました。

南蛮船来航の地:〜
琉球(りゅうきゅう)、琉球の琉球王国
  (現:沖縄県)
1542(天文11)、琉球にポルトガル船が到着するも、植民地化を恐れて交易をしませんでした。
    ポルトガルによるマラッカ(現:マレーシア)の占領を知っていたとの説も有。

▼種子島南端の門倉岬(かどくらみさき)、種子島の種子島氏領
  (現:鹿児島県南種子町、最南端の門倉岬公園)
1543(天文12)、日本で最初の南蛮船(ポルトガル船)が嵐で種子島に漂着して、鉄砲が伝来。
    島の古来からの豊富な砂鉄をもとに国産化に成功したので、「種子島銃」と呼ばれました。
    火薬は原料の硝石が日本に無かったので、輸入に頼っていたといわれています。
    なお、明国のジャンク船との説があるも確証はありません。

平戸港(ひらどこう)、肥前の平戸松浦氏領
  (現:長崎県平戸市大久保町、平戸島北東部崎方(さきがた)の港)
平戸は大曲記(1624-1645)が伝えるように、松浦隆信(1529-1599)の時代に大唐(中国)から五峯(王直)という者がきて印山寺屋敷に「唐様の屋形」を建てて住んだことが記され、平戸を拠点に中国との貿易を行なっていたように、海外からの船が来航していました。
1550(天文19)、長崎県内に入港した最初のヨーロッパの貿易船として南蛮船(ポルトガル船)1隻
    が平戸に初めて入港しました。以降、1562(永禄5)迄ほぼ毎年南蛮船が入港したことが史料
    上確認できます。
1550(天文19/8、聖フランシスコ・ザビエル一行が平戸に入り、多数の宣教師が活動して信者が
    増加。一方で仏教勢力などとの間に軋轢を生み、松浦氏領内の緊張は高まり、当初はキリ
    スト教に対して好意的だった領主の隆信もしだいに態度を硬化させました。
1561(永禄4)、ポルトガル船アイレスポテリョの船など五艘が入港。
1561(永禄4/8、綿布取引のトラブルをきっかけにカピタン・モールと13人の南蛮船乗員が松浦氏
    家臣らに殺害される「宮の前事件」が発生。ポルトガル人と松浦氏との関係は急速に悪化。
1562(永禄5)、聖ザビエルと共に来日した日本布教長コスメ・デ・トルレス神父(Cosme de Torres,
    1510−1570)が平戸に入港した南蛮船を大村純忠領の肥前横瀬浦に回航させました。
    以後、大村氏領の横瀬浦福田浦を経て長崎港が南蛮船の入港地となってゆきました。
1564(永禄7/1/4)、平戸が大火で町の大半を焼失。火災後は町にわずかの住民しかいなくなり、
    海賊が横行して略奪・誘拐するようになった時期があったといわれています。
1580(天正8)、宮の前事件から19年後に、イギリス船が入港。
1584(天正12/6)、マニラからの南蛮船(スペイン船)が入港。領主の松浦鎮信が歓待。家臣の
    吉近ハルタサに書簡を託してマニラに渡航船を派遣。ハルタサは1587(天正15)にも船に
    商品を積んでの貿易でマニラに渡航。鎮信は暹羅(シャム)との通交関係も結んで、松浦氏
    が暹羅の御皇に宛てた天正5年の書状案も現存。
1587、ポルトガル船乗船中の日本支部長(1581−1590)コエリョ(Gaspar Coelho、1530-1590)が
    九州征伐中の秀吉に呼出されて奴隷売買などの詰問を受けました
1609(慶長14)、オランダ商館が設置されて日欄貿易開始。
1613(慶長18)、イギリス船クローブ号が平戸に入港、イギリス国王使節ジョン・セーリスが
    ウィリアム・アダムスの通訳にて駿府で家康に謁見、イギリス商館が開設。
    李旦(りたん:アンドレア・ディッティス Andrea Dittis:?-1625)、鄭芝龍(てい しりゅう:チェン・
    チーロン Zheng Zhilong:1604-1661)らが平戸を拠点とする中国人海商の活動も活発で、
    松浦氏の朱印船貿易も開始され、平戸における国際貿易は新たな局面を迎えましたが、
1641、オランダ商館(Dutch trading factory)が長崎の出島へ移転。

横瀬浦(よこせうら)、肥前の大村氏領(純忠は日本最初のキリシタン大名)
 (佐世保湾、現:長崎県西海市)
1562(永禄5)、平戸に代わる南蛮貿易港として佐世保湾の一角にある西海町の横瀬浦を大村純
    忠(1533-1587)が開港しました。ポルトガル船と共に入港する商人達は関税を10年間免除。
    港には神父たちの意思なしに異教徒の住むことは許されず、港の周囲2レグア(約10km)の
    半分を教会が所有するものと定められました。教会が建立され、キリスト教徒や商人達が
    集まり、港は繁栄。
1563(永禄6)、領主の純忠が横瀬浦の教会でコスメ・デ・トルレス神父から洗礼を受け、日本で最
    初のキリシタン大名となりました。同年ポルトガル船が横瀬浦に入港してフロイス神父
    日本での第一歩を記しましたが、純忠の指示で領内の多くの神社やお寺が破壊されたの
    で、その政策に不満の大村氏家臣達と佐賀「武雄」領主の後藤貴明(1534-1583)らが手を
    組み、横瀬浦を針尾伊賀守貞冶(?-1572)に命じて焼き討ちさせて街は焼失しました。
    それで貿易港として、僅か2年の幕を閉じました。(1941(昭和16)年県指定の史跡が有)。

福田浦(ふくだうら)、肥前の大村氏領
  (現:長崎市福田本町)
1564(永禄7)、ポルトガル船は横瀬浦に入港できず、平戸に入港するも、良い結果がなかったこと
    から、大村氏領長崎湾外の福田浦に回航しました。すると平戸の松浦隆信は福田浦のポル
    トガル船に攻撃をかけるも、大敗北しました。
1565(永禄8)、ポルトガル船が入港
1566(永禄9)、ポルトガル船が入港
    その後、福田浦は直接外海に面しているという欠点があり、その上に奥行が浅く、港とし
    てはあまり良好でなかったので、3年間で島原半島の口之津に代わりました。

口之津港(くちのつこう)、肥前島原の有馬氏領(キリシタン大名)
  (現:長崎県島原半島の南端:南島原市口之津町)
1567(永禄10)、トリスタン・バス・デ・ベイガ船長のポルトガル船など3隻が入港。
1568(永禄11)、ポルトガル船2隻が入港
1570(永禄12)、ポルトガル船2隻が入港するも、
    ポルトガル人達が大村領内での貿易を希望して候補地が長崎港になりました。
1579(天正7)、ポルトガル船リオネル・デ・ブリット船長でヴァリニャーノ神父が上陸。
    (現在は石垣の周りが埋め立てられて、開田公園として町民の憩いの場になっています)。

長崎港(ながさきこう)、肥前の大村氏領
  (現:長崎市の長崎湾)
1570(元亀元)、ポルトガル船が長崎に来航、ポルトガルのガラス工が長崎に硝子製造法を伝授。
1571(元亀2)、ポルトガル船1隻、ポルトガルのチャーター船(唐船)1隻の計2隻の入港で長崎港は開港しました。以後、毎年のようにポルトガル船が訪れ、長崎はポルトガル貿易港として急速に発展しました。(1636、出島が完成)。

豊後の津・浦(ぶんごのつ・うら)、豊後の大友氏領
  (現:大分県)
1551(天文10)、ポルトガル船が豊後の国に偶然に漂着・来航。
    大友宗麟からインド総督への書簡を託された家臣と伴に聖ザビエルがインドへ帰国
1551(天文20)、豊後の日田(臼杵か?)ポルトガル船が来航
1552(天文21)、宣教師ガ−ゴを乗せた船が豊後の府内(ふない)に来航
1600(慶長5)、嵐でリーフデ号が豊後の臼杵(うすき)に漂着・来航
1609(慶長14)、3隻の船団でマニラからアカプルコへ向けての航海中台風に遭い、
    サンタ・アナ号が豊後の臼杵中津浦に緊急入港・来航。
    (大分県臼杵市中津浦地区にサンタ・アナ号来航記念の史跡公園有)。

坊ノ津(ぼうのつ)、薩摩の島津氏領
  (現:鹿児島県薩摩半島西南端)に有って、(南から)
 ・坊浦(ぼううら)
 ・泊浦(とまりうら)
 ・久志浦(くしうら)
 ・秋目浦(あきめうら)がある。
坊ノ津は飛鳥時代から遣唐使船の寄港地となり、唐の港・入唐道とも呼ばれました。
753(天平勝宝5)、鑑真和上が志し6回目で坊の津近くの秋妻屋浦(現:秋目)に上陸を果しました。
    平安時代末期には近衛家の荘園となり、室町時代には倭寇遣明船の寄港地となり、大陸
    や琉球、南方諸国とも貿易がなされ、島津氏の中国(明)・琉球貿易の根拠地になりました。
1530(享禄3/3)、12代将軍足利義晴の時、対明貿易(勘合船)が坊ノ津から再開。
1539(天文8)、遣明使船の1隻の薩摩船が坊ノ津を出帆。
    薩摩氏は山伏と真言宗を手厚く奨励保護していたので、
    南蛮船はキリスト教伝道に便利なキリシタン大名の港に向かいました。
1551(天文20)、大内氏が滅亡して勘合船による日明貿易が行なわれなくなったかわりに、
    倭寇による密貿易が盛んとなり坊ノ津も利用されました。
1561(永禄4)、ポルトガル船アフオンソワス船長が鹿児島県の阿久根に入港、
    もう一隻のマヌエル・デ・メンドーサ船長は坊ノ津の泊浦に入港、
    越冬(季節風待ち)後、翌年正月に出帆。
1623(元和10/6)、フランシスコ会の宣教師4人、ドミニコ会宣教師4人、オーガスチン派宣教師2人、
    計10人が坊ノ津の久志浦に上陸。
1630(寛文6)、キリシタン追放でマカオへ追放(1614)され、30才でローマへとマカオを出帆(1617)
    したペドロ・カスイ・岐部神父(1587-1639:日本人で初めてエルサレムを訪問(1620)して近世
    初頭の日本人の中で最も広い世界を見たので「日本のマルコ・ポーロ」とも「世界を歩いた
    キリシタン」ともいわれる)が、日本に戻る途中で七島海峡(トカラ列島の7つの島々)で嵐に
    遭い難破。乗船者全員が助かり島の人達の手厚い保護を受けその情けで別船で坊ノ津に
    到着。商人として坊浦に上陸(1630、密入国)。その後、52才で捕われ江戸で処刑・殉教。
1708(宝永5/8/28)、イタリア人のジョバンニ・パティスタ・シドッティが、屋久島の恋泊に潜入して捕
    まり、坊ノ津に送られて来ました。暫らく坊ノ津に幽囚されてから長崎へ、更に江戸に送られ
    小石川のキリシタン牢に入れられました。新井白石(1657-1725)が接見して西洋事情を聞き
    出し「西洋紀聞」を書いたとされています。

駿河湾(するがわん)、駿河の徳川氏領
  (現:静岡市清水区興津からの眺望)
1607(慶長12)、第1回朝鮮通信使の「海槎録」で当時、富士山・清見寺・駿河湾と松林、の絶景3点
    セットで日本随一の景勝地といわれていた清見寺に逗留の通信使一行を、家康が船5艘で
    清見潟(静岡市清水区興津にあった景勝地)の遊覧に誘い、海上の南蛮船を目撃。その様
    子を日本人絵師が「南蛮船駿河湾来航図屏風」に詳細に描き、その屏風は現在「九州国立
    博物館」に所蔵されています。上記の切手画像の船型が酷似するも、屏風のは帆を上げて
    いるのが違っているところです。

田尻浜(たじりはま)上総大多喜の本多氏領
   (現:千葉県夷隅郡御宿町)
1609(慶長14/7)、マニラからメキシコへのスペイン船3隻の船団で
    サン・フランシスコ号が嵐で千葉の田尻に漂着・来航。乗船してい
    たフィリピン総督ドン・ロドリゴは駿府城で家康に謁見。家康は銀
    の精錬に通じたスペイン技術者50人余を派遣してくれるよう強く
    要望。その後ドン・ロドリゴは幕府帆船按針丸で、商人田中勝介
    など22人の「大御所派墨使節」と共にメキシコに帰りました。(日
    本人使節団の初渡航)。

浦戸湾(うらどわん)土佐の長宗我部領
   (現:高知市浦戸)
1596(文禄5)、スペイン船サン・フェリペ号が四国土佐浦戸湾沖に漂着
房総半島の地図

日本 1995/11/6 発行
伊能忠敬


浦賀(うらが)相模の大久保氏小田原藩領?
   (現:神奈川県横須賀市)
1611(慶長16)、サン・フランシスコ号が相模国浦賀に漂着して、「家康の遣墨使節」が帰国し、
    答礼使ビスカイノ船長が日本に到着
    1611/3/7(慶長16/1/7)にシウダ・デ・メヒコを出発したビスカイノ船長と日本人貿易商達は
    3/19(慶長16/2/5)アカプルコ港に到着。そこを3/22(慶長16/2/8)の昼前に出帆。当初
    はアカプルコ港を出てマニラ市およびフィリピン諸島から金銀島の探検を始めることになって
    いるも、直接日本に向かい乗船している日本人を送り届け、大御所家康と将軍秀忠に副王
    ルイス・デ・ベラスコの使命を伝え、また贈り物を進呈することが決定されました。航海を初め
    2ヵ月後の5/27(4/15)夜半から翌日の夕方まで台風に遭って、さらに31日(4/19)の夜半
    から再び台風に遭い、しかも黒潮にも流されるも、6/8(4/27)の昼に陸地を発見・漂着。
    6/11(5/1)に相模国浦川(神奈川県横須賀市浦賀)に入港しました。そしてこの日に
    ビスカイノ船長は将軍秀忠と大御所家康に飛脚を送って、日本に到着したことを伝え、
    今後の行動について指示を仰ぎました。
1853(幕末)、米国の黒船ペリー艦隊が浦賀に到着、初来日

・南蛮船は:〜
1557年にポルトガルがマカオの使用権を獲得すると、マカオを拠点として、日本・中国・ポルトガルの三国の商品が取引されるようになり南蛮船が日本に来航。織田信長・豊臣秀吉は南蛮貿易を推奨。スペインはポルトガルに遅れてアメリカ大陸を経由しての太平洋航路(マニラ〜アカプルコ)を開拓し、ルソン島のマニラを本拠として日本に来航しました。

徳川家康はスペインとの貿易に積極的姿勢で、京都の商人田中勝介(生年没年不詳)を当時スペイン領のノビスパン(メキシコ)に派遣。また、ポルトガル商人に対しては生糸の独占的利益を得ていた為、これを削ぐことを目的として京都・堺・長崎の商人に糸割符仲間を結成させました。家康の頃はキリスト教は禁止されてはいたものの貿易は推奨されるも、その後の江戸幕府は禁教政策に加え、西国大名が勢力を伸ばすことを警戒したので海外との貿易を制限。交易場所は平戸と長崎に限られるようになり、1624年にスペイン船の来航が禁止され、1639年にポルトガル船の来航が禁止され、平戸での交易を禁止するなど鎖国体制が成立して南蛮貿易は終了し、南蛮船の来航もなくなりました。

参考HP:〜
門倉岬の場所地図(種子島)
種子島の地図
肥前の場所地図
肥後の場所地図
豊後の場所地図
薩摩の場所地図
長崎県の場所地図(平戸〜佐世保〜長崎〜島原半島)
平戸港・長崎港・口之津港の場所地図
平戸港の地図
長崎港の古地図(左が長崎湾口)
横瀬浦の場所地図(長崎県西海市佐世保湾南部)
福田港の場所地図(長崎市福田本町)
福田港の地図
豊後国の地図(府内、臼杵が有)
坊津の場所地図
坊津の地図
トカラ列島の場所地図
駿河の清見寺の場所地図
駿河湾の地図
浦戸湾の場所地図
浦賀の場所地図







南蛮船の来航・略年表:〜
日本郵便 Nippon
南蛮船(ポルトガル船)の図

狩野道味(1593-1600作)「南蛮屏風」
ポルトガル国立古美術館所蔵

日本 2010/10/22 発行 (200%)
1510、ポルトガルがインド西岸の街ゴアを占領、アジア貿易の拠点とする
1511、ポルトガルがマラッカに要塞を建設
1517、ポルトガルが中国南部のマカオに進出
1543、ポルトガルのメンデス・ピント種子島に漂着、火縄銃を伝える
1549、聖ザビエルがジャンク船でマラッカから鹿児島の薩摩半島南端の山川港に上陸
1550、ポルトガル船が平戸に入港、1562年迄ほぼ毎年入港
    ザビエル一行が(8月)肥前平戸到着布教を行い、10月下旬に京へ向かう
1551、聖フランシスコ・ザビエルがポルトガル船で豊後の府内(大分市)からゴアへ向け離日
    大内氏が滅亡して勘合船での日明貿易が行なわれなくる
1552、宣教師ガ−ゴを乗せた船が豊後の府内に来航
1555、ポルトガルがマカオに殖民都市を建設し、日本へ定期便の貿易船を派遣
1557、ポルトガルが中国のマカオに居住権を得て、東洋貿易の拠点とする
1561、ポルトガル船5隻が平戸に入港、別の1隻が坊津の泊浦に入港
    平戸で「宮の前事件」が発生、ポルトガル人14人が殺害される
1562、ポルトガル人が平戸に入港したポルトガル船を肥前大村領の横瀬浦に回航させる
1563、ポルトガル船が肥前佐世保湾の横瀬浦に入港、ルイス・フロイス神父が上陸
1564、平戸が大火で町の大半を焼失。
    ポルトガル船が戦乱で横瀬浦に入港できず、
    平戸に入港するも、火災後で良い結果が得られず、
    大村純忠領長崎の福田港に回航する
    松浦隆信が追討で福田港のポルトガル船を攻撃するも大敗北
1565、ポルトガル船が福田港に入港
1666、ポルトガル船が福田港に入港
1567、島原の口ノ津にトリスタン・バス・デ・ベイガ船長のポルトガル船3隻が入港
1568、ポルトガル船2隻が口之津に入港、
    翌年、翌々年にもポルトガル船2隻ずつが入港して活況を呈す
1570、倭寇が台湾に進出(一部を占領)し、中国を餌食にする
    ポルトガル船が長崎に来航、ポルトガルのガラス工が長崎に「硝子の製造法」を伝える
1571、大村純忠がポルトガルの長崎進出を援助して、
    ポルトガル船1隻、ポルトガルがチャーターした唐船1隻の計2隻の入港で長崎港が開港
    スペインがルソン島のマニラを占領して東洋貿易の拠点とする
1574、大友氏と龍造寺氏の戦いで博多の大半が焼失。
    秀吉の九州征伐時に島津勢が博多の町を焼き払って薩摩に引き上げ、博多は廃墟となる
1575、長篠の合戦で鉄砲が威力を発揮
1577、最初の日本船がヴェトナム南のコーチ支那(Cochinchina)に到着
1579、イエズス会巡察師アレッサンドロ・ヴァリニャーノ(Alessandro Valignano)が口ノ津に上陸
1580、イギリス船が平戸に来航
    大村純忠が長崎をイエズス会(Society of Jesus)に献上
    フランシスコ会宣教師がヴェトナムへ脱出
1584、マニラから南蛮船が平戸に来航。時の当主松浦鎮信はこれを歓待
    家臣に書簡を託してマニラに渡航船の派遣を要請
    マンショ伊藤(Mancio Ito)3人がイエズス会宣教師と共にリスボンに到着.
1587、(天正15/6/10)島津征伐の帰り筥崎に陣をとった秀吉が
    南蛮船に乗り湾上より視察、指示して博多の復興に着手
    秀吉が平戸でポルトガル船乗船中の日本支部長コエリョを呼出して奴隷売買などを詰問
    秀吉が宣教師の国外退去を命ずるバテレン追放を発布
1588、秀吉が海賊を禁止する
    ヨーロッパでアルマダ海戦が勃発、スペイン艦隊がイギリス艦隊に敗れる
1592、秀吉が朝鮮に出兵(文禄・慶長の役
    日本が16万の軍勢で朝鮮に侵入、文禄の役が勃発(Seven-Year War)
    御朱印船(Red Seal Ships)貿易が始まる。。。は
1596、日本のイエズス会が日本人を奴隷売買したポルトガル人に破門令を出す
1597、長崎で主にフランシスコ会の日本二十六聖人の殉教が起こる
1598、豊臣秀吉が亡くなる
1600、豊後国(現大分県)にウィリアム・アダムス(三浦按針)乗船オランダ商船リーフデ号が漂着
    関ヶ原の合戦で徳川家康が勝利
1602、マラッカ付近でポルトガルのカラベル船(Santa Catarina)をオランダ戦艦が攻撃
1603、徳川幕府が江戸に成立
    イギリス商館がバタニ(Bantam, Java)に設置される
    長崎で32,293語の日本語の日・葡(Japanese to Portuguese)辞書が発刊される
1605、家康が三浦按針の船友2人をタイ南部のパッターニー(Pattani)へ送って日蘭貿易を招聘
1607、第1回朝鮮通信使が駿河湾停泊の南蛮船を目撃(南蛮船駿河湾来航図)
1609、オランダ商館平戸に設置される、日欄貿易開始
    嵐でマニラ・ガレオン船サンタ・アナ号が豊後の臼杵(うすき)中津浦に緊急入港
1612、山田長政がアユタヤ(Ayutthaya, Siam)に居住地を建設
1613、イギリス船クローブ号が平戸に入港
    イギリス商館平戸に設置される
    支倉常長が慶長遣欧使節として出帆
1614、バテレン追放令(イエズス会)、キリスト教の禁止
1615、イエズス会宣教師がヴェトナムへ出発
1616、家康が亡くなる
1620、支倉常長が帰国
1622、長崎の西坂でカトリックのキリスト教徒55人が火刑と斬首で処刑された元和の大殉教
1623、平戸のイギリス商館が営業不振で閉鎖される
    山田長政がシャムのソンタム王(1590-1628)大使として日本に一時帰国、1626年に戻る、
    スペイン領フィリピンとの貿易が禁止される
1624、スペインと国交断絶、スペイン船来航禁止、日本のイエズス会宣教師がシャムへ脱出
1628、スペイン艦隊がアユタヤの高木作右衛門(?-1629)の御朱印船を破壊
    その報復でポルトガル貿易が3年間禁止される
1632、徳川秀忠が亡くなる
1634、将軍家光の命で出島が建設され、ポルトガル商人が長崎居住に制約される
1636、長崎港に出島が完成、オランダ商館となる
1637、キリスト教農民一揆「島原の乱」が勃発
1638、その結果、キリスト教が非難されて禁止となって、
    ポルトガル貿易が決定的に禁止となる
1639、(寛永16年)の南蛮(ポルトガル)船入港禁止で、鎖国となる(-1854)
1641、オランダ商館が長崎の出島へ移転

参考:〜
倭寇(わこう)の密貿易
  (1551頃以降〜1588頃)
中国大陸にが建国されると、明の太祖(洪武帝・朱元璋:1328-在位1368-1398)は室町幕府に使節を送って倭寇の禁止を求めてきました。これに対して室町幕府第3代将軍足利義満(1358-(在任:1368-1394)-1408)が、1401(応永8)年に財政が窮乏していた幕府を救うため朝貢の形式で対明貿易を明が発行した許可証の割符(勘合符)を積んだ勘合船で開始しましたが、勘合船の名義は足利将軍でも、実際の経営者は有力守護大名や大寺院で、博多や堺の商人がそれらと結びついて運営しました。勘合船貿易は義満が没すると、
ジャンク船

グレナダ 2001/6/16 発行
次の第4代将軍足利義持(1386-1428)が、1411(応永17)年の第6次船を最後に中止し、以後第6代将軍義教(1394-在任1428-1441)が1432(永享4)年に再開するまで、21年間の中断期間が生じました。再開すると、次第に細川・大内両氏の間で勘合の争奪が始まり、1523(大永3)年に両者の使節が寧波(ニンポー)で衝突した「寧波の乱」が起き、その結果一時中断。1536年(天文5)年に大内義隆(1507-1551)が貿易を再開して勘合貿易は大内氏の独占となりました。1547(天文16)年に幕府船は終了し、その後は大内氏が滅亡するまで続きました。

1551(天文20)年に大内氏が滅亡し、勘合船による日明貿易が行なわれなくなったかわりに、ジャンク船で海賊まがいの倭寇による密貿易が盛んとなりました。倭寇の大部分は中国人で、日本人は2、3割程度でしたが、王直(生年不詳-1559)や徐海(生年没年不詳)はそれぞれ五島列島や大隅に拠点をおき、中国大陸沿岸で密貿易を行なっていました。初期の倭寇は主に朝鮮半島周辺で活動。次第に中国沿岸に進出。なお明では、当時すでに中国大陸沿岸に出没していたポルトガル人のことを「仏朗機(フランキ)」と呼んで、倭寇としていました。勘合船(日明貿易:1380頃-1411、1432−1557(周防大内氏最後の(第17代)当主義長が毛利元就に討たれて大内氏が名実ともに滅んだ年)の中止以後、明の嘉靖年間(1522-1566)を中心とした約40年間は特に倭寇の被害が多く、これを「嘉靖の大倭寇」と呼んでいます。こうした倭寇の活発化は、中国との交易を求めた九州の戦国大名達から歓迎されて領内に招く者も多く、各地に唐人町を形成しました。

これに対して明側では、総督の胡宗憲(?-1565)が倭寇に貿易を許可するという懐柔策でだまして捕らえ、徐海や王直も討伐されました。こうした明による弾圧や1567(永禄10)年の海禁令の緩和により、倭寇は次第に沈静化に向い、豊臣秀吉が1588(天正16)年に海賊取締令を発布したことによりほぼ終息しました。なお、1562(永禄5)に鄭若曾(ていじゃくそう)が倭寇対策のために著した「籌海(ちゅうかい)図編」で、倭寇が欲した商品は「生糸、糸綿、布、綿紬、水銀、針、鉄錬、鉄鍋、磁器、古銭、古書画、薬材、漆器、醋」などで、一方、日本から輸出したのは「銀」が主で当時、東アジアの経済を支配していたのは銀で、戦国時代は「灰吹き法」の導入で日本国内の岩見銀山などで銀の生産が急増し、世界的にも注目されていました。後の、ポルトガル船来航の目的の一は、日本銀の獲得だったといわれています。

参考HP:〜
寧波の場所地図
五島列島の場所地図
五島列島の地図

こちらで・サン・フェリペ号の遭難を、
こちらで日本製のガレオン船を、
こちらでマニラ・ガレオン船をお楽しみください。

・上記はこちらの文献などを参照させてもらいました。     12/5/6、12/6/4
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