France

国連 1980 発行
 切手で綴る フランス革命 (No.2)
フランス七月大革命
1780/7/27
French July Revolution

大航海物語
フランス編
日本郵便 NIPPON
ドラクロワ作 七月革命
民衆を導く自由の女神

日本におけるフランス年記念
日本 平成10年 1998 発行
U N
フランス大革命にも、第一次・第二次世界大戦にも耐え抜くいた
現存するフランスの世界遺産
パリのセーヌ河岸

(Banks of the Seine, Paris)
モン・サン・ミッシェル

ノルマンディー地域圏マンシュ県
国連(UN, NY)2006 発行
U N
マリー・アントワネット妃の実家, オーストリアの世界遺産
シェーンブルン宮殿、ウィーン

Schonbrunn Palace, Vienna Austria
国連(UN, NY)2006 発行
マリー・アントワネット(1762, 7才)は此処でモーツアルト(6才)に出会ったとの伝聞有
REPABLIQUE de TCHAD
マリー・アントワネット妃

ブルボン家↑紋章   .
(幼名:マリア・アントニア、Maria Antonia, 1755-1793)
チャド 1971 発行
REPUBLIK OSTERREICH
作曲家 モーツアルト 神童

(Wolfgang Amadeus Mozart、1756-1791)
生誕200年記念

オーストリア 1956 発行

MAGYAR POSTA
歌劇 魔笛の一場面 モーツアルト最後の曲

(0pera "Magic Flute" Mozart, 1791)
ハンガリー 1967 発行

・フランス七月革命
 (French July Revolution, 1830/7/27-29)
 別名:栄光の三日間革命(Three Glorious Days Revolution)
七月革命は、1789/7/14のフランス大革命に次いで、1830年7月にフランスで起こった革命です。その影響はヨーロッパ各地に波及しました。革命による1815年の王政復古で復活したブルボン朝は再び消滅しました。ウィーン体制で構築された正統主義は部分的に崩壊し、ブルジョアジーの推すルイ・フィリップが王位に就きました。ここにフランスにおけるブルジョワジーによる市民革命は一定の成果を持って終結しました。

・発端
1815年の王政復古で王位に就いたルイ18世は、フランス革命による成果を全く無視して、時代錯誤も甚だしい反動的な政治を行いました。この復古王政による政権は、アンシャン・レジームよろしく、貴族や聖職者を優遇する政策をとり、市民たるブルジョワジーの不満は当然高まることになりました。フランスはあたかも革命以前の状態に逆行してしまったようであり、ルイ18世の後を継いだ、弟シャルル10世も、兄王の政策を受け継いだため、いよいよ革命の機運は高まるようになってきました。

・経過
シャルル10世は国内の不満を逸らす目的で、1830年7月にアルジェリア侵略を始めました。これが1960年代まで続くフランス・アルジェリア植民地の端緒となるも、それでも国内の不満は治まらず、ついには自由主義者が大きな勢力を持つに至った議会を強制的に解散させ、次の選挙における大幅な選挙権の縮小を命ずる勅令を発してしまいました(七月勅令)。当然これは火に油を注ぐ結果となり、7/27に民衆は三色旗を翻してパリの街頭にバリケードを築き始めました。 鎮圧軍に戦意はなく、7/31にパリ市庁舎のバルコニーにラファイエット将軍とともに姿を現したオルレアン公ルイ・フィリップは民衆の歓呼の声に迎えられました。8/2にギロチンを怖れる国王シャルル10世はランブイエ城からあっさりオーストリアに亡命。後継政府には共和派の反対を押して、国民王ルイ・フィリップが立ちました。ここにフランスは立憲君主制に移行しました(7月王政)。

・結果とその影響
ルイ・フィリップ公は別名「株屋の王」であり「ブルジョワの王」であったため、市民たるブルジョワジーの不満は急速に解消されていきました。王は内閣制をとり一定の成果を収める事に成功。ブルジョワジーをさして「市民」革命という形態での革命はこれで終わり、以降の革命は労働者や農民がその不満を爆発させる一種の階級闘争に様変わりしました。フランス7月革命の影響は各国に伝播し、ウィーン体制の全面的な崩壊こそ免れたものの、部分的には大きく揺るがすことになりました。なおウィーン体制が全面的に崩壊するのは1848年革命まで待つ必要がありました。

七月革命の各国への影響
・ベルギーでは
ウィーン会議の結果オランダに併合されていたベルギーでは、オランダの支配に対してブリュッセルで暴動が発生しました。結果としてオランダとイギリスをはじめとする列強諸国はベルギーの独立を認め、翌1831年ドイツの名門貴族であるザクセン・コーブルク・ゴータ家から国王を迎えて、「ベルギー王国」として独立を果たしました。

・ポーランドでは
ロシア帝国による支配に対しての不満という形で、民族主義者や自由主義者がワルシャワで革命(十一月蜂起)を起こしました(当時のポーランドは、ポーランド立憲王国と言う一種の立憲君主国であるも、事実上ロシアの傀儡で、属国)。この革命はロシア軍によって鎮圧され、以降ポーランドの民族運動は逼塞しました。

・イタリアでは
カルボナリが、ナポリ、ピエモンテでの革命以来の復活を果たしました。しかしこのカルボナリの蜂起はオーストリア軍によって、直ぐに鎮圧されました。しかしカルボナリの理念は、自由主義者として即位したサルデーニャ王カルロ・アルベルトによって引き継がれ、後にリソルジメントとして実現しました。

・芸術作品への影響
フランスの画家ウジェーヌ・ドラクロワ(Eugene Delacroix, 17981863)はフランス7月革命におけるパリ市街戦を題材として「民衆を導く自由の女神」を表しました。これは7月革命をテーマとして書かれた絵画の中では最も有名な作品。

ポーランドの音楽家フレデリック・ショパン(Frederic Chopin, 1810-1849) は、故郷ポーランドの革命がロシア軍に圧殺させられたと聞くと、大変悲しみ、又憤り、この革命をテーマとして「革命のエチュード」(12の練習曲ハ短調)を著しました。

・ウィーン体制(Vienna system, Vienna Settlement)
ウィーン体制とは、ウィーン会議(1814-1815)以後のヨーロッパの国際秩序。1848年革命(ヨーロッパ各地で起ってウィーン体制の崩壊を招いた革命の諸国民の春(Springtime of Peoples)1848-1849)を経てクリミア戦争(1853-1856)によって完全に崩壊するまで続いた国際的体制。ウィーン会議でフランス首相タレーランの主張した正統主義を基に、フランス革命とナポレオン戦争で荒廃・混乱したヨーロッパを、













クリミア半島の場所地図

ギリシャ  エーゲ海     ↑スクタリ     トルコ
ジョージア 1998 発行 小型シートより













それ以前の状態に復活させることで大国の勢力均衡を図った。キリスト教の理念に基づく神聖同盟やフランスを牽制する四国同盟(のち王政復古のフランスも加入し五国同盟)など、従来の君主制に立脚する列強を中心に自由主義・国民主義運動を抑圧。一方で、その基本理念はヨーロッパの協調で、国家間の諸問題の解決に外交努力を惜しまなかったことから、歴史的にみても比較的長期(第一次世界大戦までとも)の安定をヨーロッパにもたらした。しかし、産業革命による市民生活の発展や大国間の利害関係の複雑化、あるいは1830年前後のギリシア独立戦争・フランス7月革命などの動揺などから次第に枠組みが揺らぎ始め、1848年革命の波及で大国の被支配地域を中心にナショナリズムが先鋭化すると自由主義・国民主義を抑圧する機能が維持できなくなった。そして体制を支えていた同盟国同士が自国の利益のみを追求するようになると列強間の平和維持の役割も果たせなくなったため、英露対立やフランス第二帝政の成立などを背景とするクリミア戦争を回避することができず、最終的に体制は崩壊。

こちらで
フランス革命 (No.1)
世界遺産
フランス世界遺産フランス
富士山日本
パルテノン神殿ギリシャ
ピラミッドエジプト
をお楽しみください。

・上記はこちらの文献などを参照させてもらいました。   令和 R.4/4/4(2022)追記

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