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★フランス | ジャン・ニコレ 1634 ミシガン湖到達 |
大航海物語★ |
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GUINEーBISSAU 丸木舟カヌーを漕いで探検調査 ギニア・ビサウ 2007 発行 |
CANADA 中央がハドソン湾 カナダ 1981 発行 |
←ハドソン湾 ←ラプラドル湾 ←ラプラドル半島 ←ニューファウンドランド島 ←セントローレンス河 ←ケベック ←モントリオール |
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US Postage | ||
グリーンベイ→ ミルウォーキ→ シカゴ→ |
←ケベっク ←モントリオール ←デトロイト |
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スペリオル、ミシガン。ヒューロン、エリー、オンタリオ | ||
アメリカ 1966/6/28 発行 (200%) |
ジャン・ニコレはオハイオ北西領土(5大湖の南西地域)の探検で有名な、フランスの航海者でした。1634年7月ミシガン湖グリーン湾シェドレス海岸に上陸して”グリ−ン・ベイ”交易所を建設。その後、現ウイスコンシン方面を探検し、セントローレンス川探検の途中、嵐でカヌーが転覆、亡くなりました。 |
ジャン・ニコレ・ドゥ・ベルボルン (1598〜1642/11/1) Jean Nicollet de Belleborne ジャン・ニコレはフランスのシェルブールの近くで生れました。1618年に20才で新大陸に渡りました。ヌーヴェル・フランスのケベックで店員として働くかたわら、原住民にフランス人貴族の独占販売での商品売込みのための通訳としての訓練をつみました。従業員としてのニコレは熱心なカトリック信者で、アンシャンレジームの忠実な支持者でした。彼がケベックに着いた時、原住民の言葉を学ぶために、オタワ川の重要な毛皮取引ルートで最初の親密な国家のアルゴンキン語族のアルメット(Allumette)島定住地に住むために派遣され、色々な先住民の地域で取引や店の運営をして、オンタリオのニピシング(Nipissing)湖地域のニピシング国内では8年以上もの間暮らしました。1620年にはケベックに戻りました。そしてニピシング湖地域へ行くように命じられました。原住民の婦人と関係しで娘をもうけて植民地へ連れて帰りました。1628年7月19日ケベックがイギリス側のカーク兄弟の手に落ちた時、ニコレはフランスが戦力を盛り返すまで、安全なヒューロン族国へ落ちのび、イギリスの利益に反して働きました。 ニコレはサムエル・ドゥ・シャンプラン総督の命で、”中国の海”へのルート発見の探検へと出発しました。7人のヒューロン族のガイドを伴って、ヒューロン湖からスペリオル湖へとカヌーで進みました。この航海で、彼は現在のウィスコンシン州となるミシガン湖地域遭遇の最初のヨーロッパ人となりました。1634年には現ウィスコンシンのグリーン湾に到着し、シェドレス海岸に上陸したニコレに出会った最初の原住民はホーチャック(Ho-Chunk)という友好的なアメリカ先住民でした。彼はそこに”グリーン・ベイ”交易所を建設しました。 1635年の秋にケベックに戻ると、ヌーヴェル・フランスで独占取引件を持つ”100人組会社(Company of One Hundred Associates)”の資産とクラークの職を与えられトロワリヴィエール(Trois-Rivieres)に永久定住をすることになりました。ニコレはマルグリット(Marguerite Couillard)と結婚し、2人の子供をもうけ、そのコミュニティの指導的市民となりました。 1642年の秋にはケベックのシリイ(Sillery)近くのセント・ローレンス川を旅行中に、突然の嵐でボートが転覆しました。泳げない金槌のジャン・ニコレは溺れてしまい、その遺体は永久に発見されませんでした。 ジャン・ニコレの生涯年表
<参 考> ・グリーン・ベイ(Green Bay)はUSAのウィスコンシン州ブラウン郡の郡庁所在地で、ミルウォーキーから北へ180kmのフォックス川のグリーン湾(Bay of Green Bay)への川口にあります。グリーン湾はミシガン湖の腕の部分にあたる所にあります。 ・ウィスコンシンのグリーン・ベイにはニコレの偉業を記念する記念碑があり、ニコレの大きな油絵がグリーン湾ブラウン郡コート下院に飾られ、ニコレ像はニコレの最初の上陸地点”レッドバンクス”の”現ニコレ通り”に置かれています。しかもニコレを記念して名づけられた「ニコレ国立フォレスト(森林)」も有ります。 ・上記はこちらの文献などを参照させてもらいました。 2006/9/9、08/9/30追記 |