United Kingdom

国連 1983 発行
切手で綴る イギリスの大航海(Great Adventure Voyage)殖民大航海(IV-20
ジェームス・ウォルフ将軍
1759
ビーバー戦争・アブラハム平原の戦い
大航海物語
 イギリス編

CANADA
フランス
モンカム将軍
  イギリス
  
ウォルフ将軍
MONTCALM & WOLFE
1608 ケベック300年記念 1908

カナダ 明治41年 1908/7/16 発行

中央がハドソン

カナダ 1981/6/30 発行





グリーンランド



←ラプラドル半島
←ニューファウンドランド島
←セントローレンス河
ケベック
←モントリオ−ル
ビーバー

カナダ 1954 発行

ウォルフ将軍は、はるばる大西洋を横断して新大陸に渡り、ビーバー戦争(フレンチ・インディアン戦争)での対ヌーベルフランス戦のイギリス軍司令官を務めて、イギリスを勝利へと導き、ケベック近くのアブラハム平原の戦いで、フランスのモンカム将軍と戦い、勝利しましたが戦死しました。
ジェームス・ウォルフ将軍
 General James Wolfe(1727/1/2〜1759/9/13)
ウォルフ将軍はイングランドのケント州ウェスターハム(Westerham, Kent, #1B23)で生まれ、フレンチ・インディアン戦争で、ヌーベル・フランスを敗北させ、イギリスの領土を画定させたイギリス陸軍の将軍です。彼は1746年に19才でスコットランド連隊”RHF”(Royal Highland Fusiliers Glasgow and Ayrshire Regiment)にホーリー将軍(Henry Hawley 1679-1759)の副官として入隊し、1745年のジャコバイト蜂起(Jacobiteは1688年イギリスで起こった名誉革命の反革命勢力の通称で、チャールズ(3世)が念願のブリテン上陸をはたし政府軍を破りましたが、スコットランド(#2-20)のカローデンの戦い(Battle of Culloden、1746/4/16、英勝利)でカンバーランド公に惨敗し変装して大陸に逃げ帰った)で、同年にイングランドに呼び戻され、フォルカークの戦い(Battle of Falkirk, 1746/1/17)で敗戦し、カローデンの戦いでは勝利しましたが、イギリス側指揮官カンバーランド公(William Augustus, Duke of Cumberland, 1721-1765)の虐殺が後世に残り、スコットランド人の対イングランド感情を悪化させました。ウォルフ将軍は敵負傷者の虐殺命令を拒否して昇進が遅れたと伝えられています。ドイツでオーストリア継承戦争をモーダント将軍(Gnrl Sir John Mordaunt 1697-1780)のもとで闘いました。ロウフェルドの戦い(Battle of Lauffeld July 2, 1747、仏勝利)では負傷しましたが司令官になりました。1748年21才で7年戦争中はイギリスのスコットランド(#2)に戻り守備隊勤務をこなし、1年後少佐となり第20連隊の指揮をとりました。1750年22才で中佐になりました。1756年のフランスのシャラント=マリティーム県(#21)ロシュフォート(Rochefort)攻撃に大佐で従軍しましたが戦争は敗戦でした。8年間スコットランドに留まり、フランス語の軍事パンフレットを作成するために何度もパリ(#53)へ行きフランス語が上達しました。

予想より2年早く1758年に新大陸の7年戦争に従軍すために北アメリカに派遣されました。ピット首相(William Pitt, 1st Earl of Chatham PC 1708-1778)の裁決で、新大陸ヌーベルフランスのケープ・
ブレトン島ルイズバーグ要塞(Fortress of Louisbourg)攻撃のため1758/1/23に准将(Brigadier General)に任命されアムハースト少将(Jeffrey Amherst 1717-1797)と共に新大陸へと向かい、同年9月にはフランスを降伏せしめました。ルイズバーグ要塞攻撃(1758/6/8〜7/26)で勝利して少将となり、ピット首相の採決でケベック攻撃の司令官に就任しました。ケベックの包囲攻撃は3ヵ月にも及び、その間に彼はヌーベルフランスに対する「マニフェスト」をフランス植民地の市民(ケベック, #QC)に対して発表しました。 ルイズバーグ要塞

カナダ 1985 発行

1759/3月にアムハースト将軍が到着する前に、彼にいかなる困難があろうともケベックを奪取すると手紙を書いていました。ケベックの堅い守りの前に、ウォルフ将軍は200隻の船で9,000人の歩兵と18,000人の水夫をケベック前面のセント・ローレンス河を渡河させ、危険で険しい断崖の上に登らせ、多くの大砲を引張りあげさせました。1759/9/13の早朝、フランス植民地軍司令官のマルケス・ドゥ・モンカム将軍が登れないと思っていた崖の上からの砲撃を開始して、残っていたケベックの城壁を破壊しつくし、引き続きアブラハム平原の戦い(1759/9/13)で両軍は最期の大決戦をして、イギリス軍が勝利しケベックは降伏しました。ウォルフ将軍はマスケット銃で胸を撃たれて戦死しをとげ、享年32才の若く波乱に富んだ生涯を閉じました。ウォルフ将軍のケベック勝利は続く年のイギリス軍のモントリオール勝利(1760年アムハースト将軍が仏軍に勝利)へと繋がり、北アメリカでのフランスの セント・ローレンス河

カナダ 1991 発行
植民地支配は終わりました。ウォルフ将軍の遺体は英国へと運ばれ、彼の父(1750/3死去)と共に、ロンドン(#1H)のグリニッチ(Greenwich)のセントアルフェジ教会に手厚く葬られました。

参考HP〜
ウェスターハムの場所地図
シャラント=マリティーム県の場所地図
ケベックの場所地図
ケープ・ブレトン島ルイズバーグの場所地図

・上記はこちらの文献などを参照させてもらいました。   2007/11/20、令和7年 2025/10/28

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