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★イギリス | ハンフリー・ギルバート 1583 ニューファウンドランド上陸、イギリス植民地宣言 |
大航海物語★ |
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NEWFOUNDLAND POSTAGE 1583 Sir Humphrey Gilbert 1933 イギリス植民地350年記念 英領ニューファウンドランド 昭和8年 1933/8/3 発行 |
ハンフリー・ギルバート卿 ケベック400年記念 カナダ 1983/8/3 発行 |
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CANADA | NEWFOUNDLAND POSTAGE | |||||||||
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←ケーン水路 ←グリーンランド ←パフィン島 ←プロビジャー湾 ←ハドソン海峡 ←ラプラドル湾 ←ラプラドル半島 ←ニューファンドランド島 ←ケベック |
ニューファウンドランド島の地図
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ニューファウンドランドは、ハンフリー・ギルバートが上陸し、1583/8/5、エリザベス1世女王裁可により、イギリス最初の海外植民地となりました。 |
ハンフリー・ギルバート卿 Sir Humphrey Gilbert (1537頃〜1583) ギルバ−トはイギリス西部のデボンシャー、グリーンウェーで裕福な家柄に生まれました。長男でなかった彼は教育費用だけはもらったようです。彼はエリザベス1世女王が即位する前から仕えており、女王の厚い信頼を得ていました。1562年25才でフランス政府の弾圧を受けていたユグノー教徒を救うべく編制されたティーウィック伯爵が率いるフランス遠征隊に参加しました。この遠征で彼がどのような活躍をしたかは定かでは有りませんが、フランスの地理学者アンドレ・テヴェと出会いました。テヴェは新世界へ行ってブラジルに関する著書を2冊書いておりました。この出会いで彼は新世界に大いに関心を持ちました。 ハンフリー・ギルバートの大航海:〜 1565年〜北アメリカ東岸、西インド諸島方面へ大航海 1583年〜ニューファウンドランド到達、帰路に遭難 1565年ギルバートは太平洋に至る北方航路に感心を向け、「中国への新航路の発見」を書いて、北アメリカ大陸西岸にイギリスの植民地を開拓するように提案しました。何の反響も得られなかったので、リチャード・グレンヴィルなどが戦っていたアイルランドに数度にわたって従軍し、1569年にはアイルランドのブラックウォーター(Blackwater)沿いのアイドローン(Idrone)西を陥落させました。その功績により1570年に爵位を与えられてナイトに叙せられました。その後の数年間はプリマスの議会に席を置き、ネーデルランドの軍務にも携わりました。1576年には彼の著作が公刊されました。 1578年41才でスペイン領を侵犯しないことを条件に女王から西方探検の許可状を裁可されました。彼はウォルター・ローリー卿と共にイギリスを出帆し、ハドソン川とハタラス岬の中間地点付近に植民地を建設しょうと計画していました。この航海の記録は伝わっておらず不明な点が多いのですが、西インド諸島方面を回って、1579年4月に帰国しました。1580年には彼の船1隻だけで出帆した記録が残っています。大航海の準備は資金面からも難しかったようです。 1583年6月ギルバートは準備が整い、入植者を含めて総員260人からなる植民開拓団を5隻の船に乗せて、プリマス付近の港から大航海へと出帆しました。1583/8/5にニューファウンドランドのセント・ジョン湾に到着、上陸して、そこを女王の名でもってイギリスの植民地として領有し、イギリス最初の海外植民地となりました。そして付近の大陸海岸を探検調査中に1隻の船と入植者全てを失ったと伝えられています。 そこで、彼はやむなく残った船員を集めて帰国することにしましたが、周りの忠告にもかかわらず、ギルバートは小型のスクウィレル号(Squirrel)に乗船して帰国の途に着きました。9月9日の夜に随伴中の僚船の見張りがスクウィレル号の灯火が消えるのを目撃しました。荷物を積みすぎて沈没し、彼も46才で海の藻屑と消え去ったものと報告されました。ギルバートはイギリス最初の植民地建設者として歴史に名を残しました。 彼は船では運に恵まれなかったと伝えられており、最後の航海に出るときにはエリザベス女王から「海では運の無い人なのだから」と、航海を思いとどまるように手紙で諌められていたと伝えられています。 ・上記はこちらの文献などを参照させてもらいました。 08/12/31追加 |