★イギリス |
総督エドモンド・アンドロス卿 1674 初代(第4代)ニューヨーク州総督 |
大航海物語★ |
1660年カステロのニューアムステルダム古地図 | 17世紀のガレオン船 画像はヘクター号 ココス諸島 1984/10/10 発行 |
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ニュ | ヨ | ク総督アンドロス卿 |
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地図左端:1635年オランダ建設ウォール(街) Sir Edmund Andros、1668 画像:200% |
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ボストン市民に捕らわれる |
ヴァージニアの総督官邸 |
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1637 アンドロス生誕350年記念 1987 ガーンジー 1987/7/7 発行 1660年カステロのニューアムステルダム古地図 Castello map of New Amsterdam 1660 Castello Plan:city map of Lower Manhattan by Jacques Cortelyou 1625-1693 |
五大湖地方 |
デルマーヴァ半島 ガーンジー島、サーク島 |
イギリス軍 ノルマンディ|半島 |
エドモンド・アンドロスは17世紀中葉のロンドンに生まれました。それは英国の市民革命の勃発や、3次に渡る英蘭戦争の時期であり、新大陸では蘭仏との植民地獲得競争中の時期でもありました。そういう激動の時期に新大陸ニューイングランドへ総督として派遣され、活発な海外進出中のイギリスの現地責任者として、英仏蘭の衝突や、植民地入植者同士や入植者と現地人インディアンとの紛争の調停をなし、時には裏切りや暴動で本国送還にあいながらも、紛争解決に長期間に渡って奔走しましたが、遂に老たるアンドロスは病いとなって不本意ながら本国へ帰国しました。なお、アンドロスが囚われたボストン暴動事件は100年後のボストン・ティー・パーティー事件の前哨戦とも言われています。 |
総督エドモンド・アンドロス卿 (1637/12/6〜1714/2/24) Sir Edmund Andros ロンドン生、76才ロンドン没、聖アン教会埋葬 (Resting place St Anne's Church, Soho, London, England Religion Anglican) ・ガーンジー島執行官 (バイリフ・オブ・ガーンジー:Bailiff of Guernsey 1674-1713) ・初代(第4代)ニューヨーク植民地総督 (4th Colonial Governor of New York、1674/2/9〜1683/4/18) ・ニューイングランド総督 (Governor of the Dominion of New England、 1686/12/20〜1689/4/18) ・ヴァージニア植民地総督 (Colonial Governor of Virginia、1692/9〜1698/5) ・ガーンジー島副総督、アン女王(Anne, Queen of Great Britain 1665-1714)から受領 (Lieutenant Governor of Guernsey 1704-1708) ・なお、”Scott”では (Lieutenant Governor of Guernsey 1704-1706) (Statesman of Colonial America 1672−1710)となっている。 エドモンド・アンドロスはガーンジー島執行官バイリフ・オブ・ガーンジー(Bailiff of Guernsey、在任:1661-1674)の父親アミアス・アンドロス(Amias Andros 1610/9/5-1674/4/7)と母親エリザベス・ストーン(Elizabeth Stone)の第3子としてロンドンで生まれました。父は1649年のピューリタン革命で処刑されたチャールス1世(Charles I:1600-1649)の堅い支持者で、母の姉妹は国王の姉エリザベス・ステュアート(Elizabeth Stuart 1596-1662、チャールズ1世の姉)に仕えていました。
▼第4代ニューヨーク州総督の時期(1674/2/9-1683/4/18) (Governorship of provinces of New York, East and West Jersey, Virginia, and Maryland) ニューヨークは、1664/3月にイギリス国王チャールズ2世がオランダが入植していたニューネーデルラントを併合する決定を下し 、1664/8/27に総司令官ヨーク公が率いるイギリスのフリゲート艦4隻がニューアムステルダムの港に侵入して、ニューネーデルラントの明け渡しを要求し、十分な守備兵や武器弾薬が不足したままのオランダ総督ストイフェサント(Peter Stuyvesant 1612-1672、在任:1647−1664)は降伏し、イギリスが占領してイギリス人入植者の到着が始まりました。1667年に第2次英蘭戦争が終わると、オランダはニューアムステルダム(後のニューヨーク)の自治権をイギリスに明け渡す代わりに、当時北米よりもさらに価値のあった東インド諸島中バンダ諸島のラン島(Pulo Run)を獲得しました。ところが、1673/8月にオランダは当時の北アメリカでは最大の21隻の艦隊でニューネーデルラントを再占領して、ニューオラニエ(New Orange)と改名しました。ウエストミンスター条約(Treaty of Westminster 1674/2/19)が調印されて第3次英蘭戦争が終結。戦争終結後にオランダはニューネーデルラントをイギリスに本格的に割譲し、1674/11/10に南米のスリナム(Surinam)とニューネーデルラントを植民地交換しました。
1674/10/31にアンドロス総督がニューヨーク港に到着、オランダ総督と領土の移管交渉を実施した結果、同年11/10に第3代総督アンソニー・クローヴ(Anthony Colve:在任1673/9/19−1674/2/9)が退去してニュージャージーへ行き、ニューヨークはアンドロス(イギリス)の支配となりました。アンドロス新総督はオランダ人居住者の財産とプロテスタント(Protestant:新教)宗教を保証しました。輸出入にはニューヨーク市の税金をかけ、商業は6年間で10倍になりました。30家の商人が繁栄した一方で、1600人の奴隷が貧困に喘ぎました。 ・コネチカットのバウンダリー・ディスピュート(境界論争) (Connecticut boundary dispute) コネチカットのバウンダリー論争は当初コネティカットのハートフォード条約(Treaty of Hartford 1650)で遥か東のコネティカット川(Connecticut River 655km)迄オランダだとしていたのを、ヨーク公主張の通りに、1664年にハドソン川東32km線としました。1675年早くにフィリップ王戦争が勃発すると、1675/7月に少数の戦力を船でコネティカットへ派兵して確保しました。1675/7/8にアンドロス総督がコネティカッ河々口近くのディープ川(Deep River)のセイブルーク(Saybrook)に着くと、コネティカット市民軍が砦を占領してイギリス国旗を掲げていましたので、砦の隊長と簡単な会見をしてニューヨークへ帰りました。
アンドロス総督がニューヨークに来て、その状況の安定に取り掛かりました。レナペ族酋長達(Lenape sachems)にイギリス人と他部族との調停者になってもらって、もう一度友好関係を築こうとしました。1676年にアメリカの植民地で起こった反乱としては初めての、不満を抱いた開拓者が参加して、急進的なインディアン対策を要求したベーコンの反乱(Bacon's Rebellion、バージニアの反乱:Virginia Rebellionとも)がポトマック川サスケハナ族砦を攻撃して反乱が起こされましたが、同じ年にメリーランドでも類似した反乱が起こり、メリーランドで突然起こった時、平和が訪れようとしました。サスケハナ族の生き残りは、ある夜にデラウェア湾の東へとこそこそと逃れてゆきました。
・左遷 (Recall) アンドロス総督の政敵はヨーク公に、オランダ人に依怙贔屓しているとか個人で儲けているとかと非難中傷を告げ口しました。ヨーク公がアンドロス総督を左遷してロンドンに呼び戻したので申し開きのために、1681/1月にブロックホールズ(Anthony Brockholls)管理下で、メアリー夫人を残してニューヨークからイングランドへと出帆しました。 ▼ニューイングランド植民地連合(ドミニオン)総督の時期(1686/12/20〜1689/4/18) (Governorship of Dominion of New England in America 1686-89 首都:ボストン:Boston) ニューイングランド植民地はマサチュセッツ湾植民地(Massachusetts Bay Colony)から拡大した現在の8州:メーン州(Maine)、ニューハンプシャー州(New Hampshire)、ヴィーモント州(Vermont)、マサチュセッツ州(Massachusetts)、ロードアイランド州(Rhode Island)、コネティカット州(Connecticut,)、ニューヨーク州(New York)、ニュージャージー州(New Jersey)の連合体でしたが、イギリス本国の名誉革命(Glorious Revolution 1688-1689)の一報が伝わると、イギリス国教会の代表とみなされたアンドロス総督に対する清教徒(ピューリタン)によるボストン暴動(1689 Boston revolt)が、1689/4/18に起こってドミニオンは解体されました。 1686年にアンドロス総督はニューイングランド植民地連合の第3代で最後の総督( 指名:1686/6/3、在任:1686/12/20〜1689/4/18)に指名され、1686/12/20にボストン(Boston)に到着しました。メアリー夫人はボストンで合流して、1688年に亡くなりました。 ・イギリス国教会 (Church of England) アンドロス総督は到着後まもなく、ボストンにあるピューリタンの教会(Puritan churches)をイギリス国教会(Church of England)の集会所に使用させるように諮問しましたが、拒否されました。1687年にサムエル・ウィラード牧師(Reverend Samuel Willard 1640-1707)の第3教会の鍵を没収。1688年に牧師(Reverend Robert Ratcliff)の木造教会「キングス・チャペル(King's Chapel)」ができるまで使用して、市民にイギリス国教会の代表とみなされました。 ・税法 (Revenue laws) アンドロス新総督はイギリス本国にならって税法などを制定し、1687/3月に植民地連合(ドミニオン)全地域で施行すると宣言しました。また取り扱いが増加していた酒類(alcohol)にも課税しました。税法施行は特にマサチュセッツで強い反対に遭いましたが、納税しない者は逮捕してボストンに投獄しました。 ・タウンミーティング法(市民集会禁止法) (Town meeting laws) 税法抗議が活発となって、市民集会が度々開かれるようになると、総督はそれを禁止しました。市民は税法はマグナ・カルタ(Magna Carta 1215/6/15:大憲章:Great Charter)違反だと抗議しました。 ・土地に課税(改訂) (Land title reform) アンドロス総督はイギリス本国に倣って、マサチュセッツ州から、ニューハンプシャー州、メーン州と順次に土地税(Quit rents:土地の権利絡みの法)を課しましたので、地主の反発が起こりました。コネティカット、ロードアイランドへと拡大すると、土地の略奪だと、さらなる反発を買いました。マサチュセッツ州プリマスのピューリタンの土地所有が進むと課税反対が加熱し、不法侵入令状(writs of intrusion)を発行しました。 ・コネティカット憲法 (Connecticut charterof 1662) アンドロス総督は、1687年にコネティカット総督ロバート・トリート(Robert Treat 1622-1710:コネティカット総督在任1683-1698)が着任後まもなく、彼にとって代わって、植民地連合に統合しょうと、1687/10月にコネティカットへ出かけ、10/31にハートフォード(Hartford)着。植民地リーダーと会見。オーク憲法(Charter Oak 1687)が成立して植民地連合に加盟しました。その後、全ての植民地を回って、ボストンに帰りました。1687/10/29に植民地連合会議(dominion council)を全植民地連合に適用しました。
・インディアン対策(外交) (Indian diplomacy) 1687年にヌーベルフランス総督デノンヴィル侯爵(Marquis de Denonville 1637-1710:ニューフランス在任:1685-1689)が、1677年にアンドロス総督がニューヨーク総督時代に締結していたイロコイ族連盟(Iroquois confederatio)とイギリスのオルバニーとの貿易条約で平和だったコヴェラント・チェーン(Covenant Chain)の一角を崩そうと、海から上陸して現:西ニューヨークのセネカ族(Seneca)の村を攻撃しました。イギリスのニューヨーク総督トーマス・ドンガン(Thomas Dongan)が英本国に救援を求めてきましたので、英国王ジェームス2世がアンドロス総督に支援を命じ、同時に仏国王ルイ14世(Louis XIV)と交渉を始めて、北西フロンティア辺境地(northwestern frontier)に緊張が走りました。ニューイングランド北東辺境地(northeastern frontier)では、それ迄英国人居住者に不平を持っていたアベナキ族(Abenaki)が1688年の早くに攻勢をかけてきました。アンドロス総督はメーン遠征をなし、多くのインディアン居住地を襲撃しました。また、1674年にヌーベルフランスのフロンテナック総督の命でメーン州ペノボスコット湾(Penobscot Bay)でアベナキ族と居住地していたジャンヴィンセント・ドゥアバディ(Jean-Vincent d'Abbadie de Saint-Castin 1652-1707)の村も襲い、カトリックのカスティン礼拝所(Catholic Castin's chapel)は注意深く保存しましたが、後にカトリックのポペリー(popery)の非難の対象となりました。 1688/8月にアンドロス総督はニューヨークの支配を引き継ぎ、オルバニーでイロコイ族と会見、契約を一新し、イロコイ族を刺激しました。総督はボストンに帰りましたが、アバナキ族はフランスに唆されて攻撃を続けました。メーン州の状況は、イギリス入植者がインディアン部落を襲い、捕虜を船でボストンに送ったので、再び悪化してきました。総督はその不当行為を厳しく罰して、インディアンをメーンに戻すように命令。アンドロス総督はメーンに戻って移住者を保護するために武装を強化しました。アンドロス総督はメーンで冬を過ごし、イギリスで革命が起こりそうだと聞くと、3月にボストンに戻りました。
その後ウィリアム3世の命令により、アンドロスや他の自治領の幹部達と共にイングランドに召喚されました。植民地当局はアンドロスとダドリーを起訴するも、ロンドンのマサチュセッツ代理人達は、誰も告訴を取り仕切る態勢になかったため、代理人達は解任され、2人は釈放されました。アンドロス総督は「何故に「暴政」を強行したのか」と問われると「イギリス本国の法を植民地に施行しただけである」と言い放ちました。アンドロス総督がロンドンを出帆する前にボストン暴動は終息していました。 裁判官としてのダドリーは、1686/12月にアンドロス総督が到着して直ちに仕事に取り掛かかり、ニューイングランド自治領全域に税法、タウンミーティング法、そして土地の権利絡みの法を施行したので多くの住民はダドリーがアンドロス総督の「暴政」の中核を担っていると思っていて、この上なく厳しい批判と苦情に晒されました。特にアンドロス総督から強要された税法、タウンミーティング法、そして土地の権利絡みの法を施行した時の批判は大きく、1688年の名誉革命の知らせがマサチューセッツに届くと、1689年にボストン暴動が起きて4月にアンドロス総督が逮捕され、ダドリーはその時ボストン市外にいたので戻って来たところを逮捕されました。ダドリーはこの時体調を崩しており、1,000ポンドの保釈金を払って逮捕を免除され、家に戻ったところを暴徒が家まで押し掛けて来て、彼を監獄へ連れ戻しました。ダドリーは監獄で10ヵ月過ごし、ウィリアム3世の命令により、アンドロスや他の自治領の幹部たちと共にイングランドに召喚され起訴されましたが釈放されました。 ▼ヴァージニア総督の時期(1692/2月-1698/5月) (Governor of Virginia、首都:ジェースタウン、後ウィリアムズバーグ、現リッチモンド) アンドロスはロンドン滞在中の1691/7月に前夫人の家族と関係のあったエリザベス・クラファム(Elizabeth Crisp Clapham)未亡人と再婚。1692/2月にエフィンガム男爵フランシス・ハワード卿(Lord Francis Howard, 5th Baron Howard of Effingham 1643-1694)の縁で、ヴァージニア州総督(governor of the Province of Virginia)に推挙されました。ニューイングランド植民地連合フランシス・ニコルソン(Francis Nicholson)副総督がヴァージニアでの上位の地位を希望していましたが、ウィリアム3世はアンドロスにその地位を授与し、ニコルソンにはメリーランド(Maryland)の副総督の地位を授与しましたので、反目されることになりました。 1692/9/13にヴァージニア州総督サー・アンドロスがヴァージニアに到着、1週間後には仕事を始めました。ニコルソン副総督は優雅に出迎え、その後間も無くロンドンへと出帆。後にウィリアムズバーグ(Williamsburg)になるミドル・プランテーション(Middle Plantation:中央農園)を整備・建設し、1695年まで居住しました。ベーコンの反乱(Bacon's Rebellion)や奴隷の反乱(slave rebellions)で以来、荒れ果てていた州を苦労して組織再編しました。タバコに依存していた州の経済を多様化するよう奨励。膨張政策をとるフランス王ルイ14世とアウクスブルク同盟に結集した欧州諸国との大同盟戦争(Nine Years' War 1688-1697)の影響で北米ではイギリス領のニューイングランドとフランス領のヌーベルフランス間の最初の交戦ウィリアム王戦争(King William's War, 1689-1697)となって貿易も酷く傷つけられ、商船は(convoys)を要求。数年間に渡ってヴァージニアは軍隊の援護がなく、ヨーロッパへ生産品を輸出できませんでした。アンドロス総督は綿、亜麻や繊維産業(cotton 、flax, and the manufacture of fabric)等の新しい作物の導入を奨励。ヴァージニアでの最初の仕事は地方の組み合わせでした。議会(House of Burgesses)との関係は概して親しいものでしたが、特に戦争、および植民地の備えに関する処置に、彼はある反対に会いました。武装船を借上げて植民地の海面をパトロールさせて、ニューヨークの備えを財政的に支え、フランスやインディアンのヴィージニアへの侵入に対する備えとなりました。1696年にアンドロス総督は国王に軍隊の派遣を要請し、議会はその費用に£1,000ポンドを渋々準備しました。アンドロス総督の植民地防衛の経営はヴィージニアで成功し、戦時中なのにニューヨークやニューイングランドのような攻撃を受けませんでした。ウィリアムズバーグの米国で2番目に古いウィリアム・アンド・メアリー大学(College of William and Mary in Williamsburg)の創立者ジェームス・ブライアー(James Blair 1656-1743)がニコルソン副総督と、大学の設立を支持しなかったとしてアンドロス総督の辞職を画策しました。1693年に大学が設立された時、アンドロス総督は大学の礼拝堂(chapel)建築用レンガ(bricks)の費用を寄付し、議会は大学に年£100ポンドの資金供与を認めました。 1697年にブライアーはアンドロス総督の貿易庁(Board of Trade)と英国国教会(Church of England)に対する不正や背信行為を色々とでっち上げて、ロンドンに行って訴えました。ジェームス2世の即位に反対したホイッグ党(Whig Party)が力を持ってくると、アンドロス総督の支持者の力が弱くなり、貿易庁の支持をも失いました。英国国教会の司教達(Anglican bishops)はブライアーとニコルソン副総督を強力に支持しました。1698/3月にアンドロス総督は長年の労苦の疲労で病気になり、辞任の伺いを申し出ました。 ▼その後 (Later years) 1698/5月にアンドロス総督の辞任がロンドンで発表され、ニコルソンが総督になって、アンドロスはロンドンへ呼び戻されました。アンドロスは再びバイリフ・オブ・ガーンジーとなり、ロンドンとガーンジー島デンマーク・ヒル(Denmark Hill)の家を往復しました。1703年に2番目の夫人が亡くなり、1707年にエリザベス夫人(Elizabeth Fitzhebert)と再々婚しました。1704年にアン女王が副総督(lieutenant governor of Guernsey)に任命し、1708年迄務めました。1714/2/24にロンドンで亡くなり、ソホーのセント・アン教会(St Anne's Church, Soho)に埋葬されました。1717年に婦人が亡くなり、近くに埋葬されました。その教会は第2次世界大戦で破壊され、墓所は無くなりました。 アンドロス総督はバハマのアンドロス島(Andros Island)にその名を残しています。
・アンドロス総督時代のニューヨーク州の場所地図(1688年頃) ・列強による北アメリカの領土区分地図(1660年頃) ・コネティカット植民地の場所地図(1636〜1776年頃) ・インディアン部族の居住地の場所地図(マサチュセッツ湾植民地の地図) ・ニューヨーク、ジャージー、ペンシルヴェニアの場所地図(17世紀中頃) ・マサチュセッツ湾植民地の場所地図(1630〜1691年頃) ・モヘガン湖の場所地図(ヴァージニア州ヨークタウン近郷) ・ニューヨーク州の地図(現在の行政区画地図) ・ニューヨーク州の場所地図(現在の地図) ・ヴァージニア州の地図(現在の地図) ・ヴァージニア州の場所地図(現在の詳細地図) ・コネチカット州の場所地図(現在の地図) ・コネチカット州の地図(現在の行政区画地図) ・マサチュセッツ州の場所地図(現在の詳細地図、ボストン有) ・メイン州の場所地図(現在の詳細地図) ・ニューイングランドの場所地図 ・ニュージャージーの場所地図(現在の詳細地図) ・ボストンの場所地図(USAの主要都市有) ・USA東部州と主要都市の場所地図(日本語) ・ハドソン川流域とモホーク川の場所地図(日本語) 参考:〜
・ニプマク族(Nipmuc):マサチューセッツ州ウースター郡に先住した部族、 ・ポデュンク族(Podunk):コネティカットに先住した部族、 ・ナラガンセット族(Narragansetts):ロードアイランド州ナラガンセット湾に定住していた種族 ・ナシャウェイ族(Nashaway):マサチューセッツのナシャウェイ川渓谷(Nashua River valley)の部族 ヨーロッパではファルツ継承戦争(1688〜1697)と呼ばれ、 新大陸ではウィリアム王戦争(1692〜1699)と呼ばれるインディアンとの戦いが起こりましたが、 白人入植者の勝利となり、最終的にはオランダのライスワイクでのライスワイク条約 (Treaty of Ryswick 1697/9/20)で講和が結ばれて平和が訪れました。 新大陸でのフィリップ王戦争は、1675年にニューイングランドで白人入植者とインディアン諸部族との間で起きたインディアン戦争で、フィリップ王とはワンパノアグ族(Wampanoag)の酋長メタコメット(Metacomet 1639-1676/8/12、別名:メタコム:Metacom)のことで、白人入植者は彼をそう呼んでいました。イギリス(白人)がニューイングランドと名付けた入植地で、彼らはワンパノアグ族から手厚い保護を受け、食料を贈られ厳しい冬の飢餓と寒さを越えることが出来ました。白人達の入植地の拡大はエスカレートし、やがてはインディアン達の領土をよこせ、と要求し始めたのでした。インディアンにとって土地は共有財産であり、誰の物でもなかったのですが、白人の要求はインディアン全てを立ち退かせる排他的なものでした。当然インディアン達は激怒。また白人はこの取り決めを「公平」に「条約」で行おうとし、その署名者として彼らの酋長を選びましたが、インディアンの社会は白人の独任制と違い、合議制でした。部族を代表する首長や君主は存在しませんでした。酋長はあくまで調停者で部族を代表するものではないのでしたが、白人にはこれが理解できませんでした。入植者は酋長と盟約すればワンパノアグ族は納得するものと思い込んでいましたが、それは全くの思い違いでした。元々ワンパノアグ族は白人入植者達に対して友好関係を築いており、1620年に酋長のマサソイト(Massasoit、別名「黄色い羽」の意味:オウサムクイン:OusaMequin 1581-1661)は慣れない環境による寒さや病気、飢えで苦しむ白人入植者を助け、平和と友情による条約を結んでいました。1621年の秋の感謝祭の際にマサソイトは多くの食料を持参して列席。しかし急激に増加した白人の入植者はインディアンに土地を売るように要求したり、強引なキリスト教への改宗強制や、インディアンに不利な裁判を行い、インディアンの白人に対する反感を買いました。インディアンに「土地を売る」という概念はそもそもなかったし、個人の選択として宗教を受け入れることはあるも、部族全体を従わせようとする白人の思考はインディアン共同体には理解不可能でした。さらに白人と友好を築いていたマサソイト酋長が死ぬとさらに状況は悪化。マサソイト死後、ワンパノアグ族酋長は息子のワムスッタ(Wamsutta 1634-1662)になり、白人側は彼らが住む土地にまで入植地を拡大して行きました。そのためワムスッタは「調停者」たるインディアンの酋長の役目として、白人が父マサソイトに要求して結んだ入植の土地の譲渡と和平条約に異議申し立てをプリマス入植地で行い、侵略行為を止めるよう説得するも、プリマス入植地から村に帰る途中、ワムスッタはなぜか病気(毒殺説有)による謎の死を遂げました。新たに24才のワムスッタの弟メタコメット(Metacomet、1639-1676/8/12、別名:アレキサンダー)が新酋長になると、白人との関係はさらに悪化。メタコメットも兄ワムスッタと同様に、調停者として最大の努力を払い、白人との友好関係を続けていくことに苦心するも、誇り高いワンパノアグ族とメタコメット酋長は合議の結果、部族の土地を侵す白人に対して、ついに宣戦布告の準備を始めました。1675/6/25にキリスト教に改宗したワンパノアグ族で、ハーバード大学のインディアン・カレッジで学んだジョン・ササモン(John Sassamon)がプリマス入植地の総督ジョシア・ウィンスロー(Josiah Winslow (1628-1680)に「ワンパノアグ族のメタコメット酋長が白人に対して戦争準備をしている」と通報。その後ササモンは別部族のインディアンに殺されました。 ニューイングランドのインディアン部族はこれ以上白人の横暴を許せず、メタコメット酋長らのワンパノアグ族は、ニアンティック族(Niantic)、ペナクック族(Pennacook)、ノーセット族(Nauset)らワンパノアグ族と同盟を結んでいた部族と共同して、プリマス入植地を攻撃。攻撃された入植地の白人側も武装して、ワンパノアグ族と敵対するモヒカン族(Mohican)やモホーク族(Mohawk)などの部族を味方に付け全面戦争が勃発。インディアン側はニプマック族(Nipmuck)やナラガンセット族も参戦。プリマス入植地総督のウィンスローはナラガンセット族の婦女子を大虐殺して怨みをかいました。こうしてマサチューセッツ植民地とコネチカット植民地を引き込んでのニューイングランド一帯に置ける大戦争に発展。激しい戦闘が繰り広げられ、双方大規模な打撃を受けました。ナラガンセット族のカノンチェット酋長(Canonchet、白人は指導者と思っていた)が1676/4/3に逮捕及び処刑され、白人に対して反旗を翻し戦いを挑んだワンパノアグ族ではメタコメット酋長が3ヵ月後の8/12に戦死し、侵略者側が勝利する形で戦争は終結。戦いで600人の白人入植者と4000人以上のインディアンが犠牲となり死亡。戦死したメタコメット酋長の遺体は白人達により八つ裂きにされ、首は槍の先に突き刺され、白人達の村に24年間飾られ、捕虜となったメタコメット酋長の家族を始めとするインディアン達は奴隷として西インド諸島などに売り飛ばされました。インディアンに「司令官」はいないという、彼らの文化は白人には理解できず、侵略者はただメタコメットを「戦争を始めた首謀者」と一方的に見なし、理不尽な辱めを与えて勝利を祝ったのでした。 ・参考HP:〜 ・フィリップ王戦争の場所地図(1675-76年) ・インディアン部族の居住地の場所地図(Pennacook族など) ・インディアン部族の居住地の場所地図(マサチュセッツ湾植民地の地図) (Wampanoag、Narragansetts、Niantic、Pequot、Mohegan、Nipmuck、Nauset族など) ・インディアン部族の居住地の場所地図(Mohawk、Mohican族など) ▼ミドル・プランテーション (Middle Plantation、 Virginia)、現ウィリアムズバーグ(Williamsburg) ミドル・プランテーションは最初、1632年に設立。ジェームズタウンや他の川と航行可能な水路沿いに建てられていた初期の植民地とは違って、このミドル・プランテーションはジェームズ川とヨーク川の間、バージニア半島のおよそ中間にある高地にありました。半島の高地にあっただけでなく、プランテーションは半島の低地末端にある海面まで東に斜面が下がったタイドウォーター地域の高原の西端にも置かれていました。一帯は、現地のネイティブ・アメリカンとの初期の対立が起こっている中、こうした半島の低地まで防衛線を建設するにはごく自然な場所でした。 1676年にジェームズタウンの州議会がベーコンの反乱で焼かれた後、バージニア植民地議会は近接していたミドル・プランテーションで会合を開催。1693年にウィリアム・アンド・メアリー大学が創設され、1694年の初めにはミドル・プランテーションの近隣へ移転。初代大統領のジョージ・ワシントンもこの大学で測量士の資格を取得しました。ジェームズタウンの州議事堂(議会議事堂建物)は、1698/10/20に再び焼失。その後再び議員達はミドル・プランテーションで会議を開催。1699年に入植者達により行われた会議の中で、ウィリアム・アンド・メアリー大学の学生団体が、当時猛威をふるっていたマラリアや、感染した蛾から身を守るため、植民地政府をミドル・プランテーションへ移設する提案書を提出。その後バージニア植民地の政府はミドル・プランテーションへと移転。そのすぐ後、ミドル・プランテーションはイギリスのウィリアム3世の栄誉をたたえ、発案者の王室総督フランシス・ニコルソン(Francis Nicholson 1655-1727)によってウィリアムズバーグと改名されました。 ・参考HP:〜 ・ヴァージニア半島の場所地図(現ウィリアムズバーグ:ミドル・プランテーションの場所) ・ジェームズタウンの場所地図 ・ジェームズタウンの場所地図(日本語:ロアノークなどの入植年付)
・参考HP:〜 ・ベーコンの居住地の場所地図(1675-76年) ・ベーコンの反乱の関連地図(1675-76年) ▼ビーバー戦争、17世紀中葉 (Beaver Wars) フランスとイロコイ族の戦争(French and Iroquois Wars)とも 17世紀半ばに北アメリカ東部で戦われた、インディアン部族とフランス植民地軍との一連の「インディアン戦争」の総称。1649年に白人(フランス)入植者とイロコイ族との間で、ビーバー戦争が勃発。サスケハノック族はイロコイ族と同盟を結び白人と戦い、1675年に敗北しました。また、サスケハノック族は白人が持ち込んだ天然痘などの伝染病や戦争で、その人口を大幅に減らしました。 ・参考HP:〜 ・ビーバー戦争の場所地図(17世紀中葉、五大湖他) ・イギリス軍の進行ルートの関連地図(1695年) ・インディアン部族の居住地の場所地図 (1600年頃ニューイングランド南部のアルゴンキン語族の分布地図) ・北米インディアン部族のアルゴンキン語族の分布地図 ▼エリザベス・ステュアート Elizabeth Stuart, 1596-1662 (Queen Elizabeth of Bohemia) エリザベス・ステュアートはスコットランド王ジェームズ6世(Charles James Stuart 1566-1625、イングランド王ジェームズ1世、在位:1603-1625)と王妃アン(Anne of Denmark 1574-1619)の長女、チャールス1世(在位:1625-1649)の姉。プファルツ選帝侯フリードリヒ5世(在位:1610-1623:ボヘミアの「冬王」独:Friedrich V., 1596-1632、ボヘミア王:フリードリヒ1世、Friedrich of Bohemia 在位:1619-1620)の王妃。エリザベスが生まれた当時、父ジェームズはまだスコットランドのみの王でした。娘が老いたイングランド女王エリザベス1世の後継者となることを望んだジェームズは女王の歓心を買うつもりもあって、自らの長女に女王と同じ名を付けました。1603年にエリザベス女王は死去し、ジェームズはイングランドとアイルランドの王位を新たに継承。1613年にエリザベスはプファルツ選帝侯フリードリヒ5世と結婚し、宮廷のあったハイデルベルクに居住。フリードリヒ5世は1619年にボヘミア王に即位するも、翌1620年にボヘミア(現チェコ)の首都プラハ近郊の「白山の戦い」(Battle of White Mountain, 1620/11/8)に敗れて王位を追われ、1622年にはライン川西側一帯の本国プファルツもハプスブルク軍の侵攻を受けてオランダ共和国へ逃亡。エリザベスは夫に従ってオランダに亡命し、以後はハーグに居住。夫に先立たれた後、1661年にイングランドへ帰り、翌1662年にロンドン没。陽気で美しく慈悲深かったエリザベスはイングランドでも人気がありましたが、嫁ぎ先のプファルツやボヘミアでも人々に慕われ、「ブリテンの真珠」「イングランドの薔薇」「慈愛の王妃」などと呼ばれました。夫フリードリヒ5世との間には13人の子をもうけ、長男フリードリヒ・ハインリヒは若くして水死し、家督を継いだ次男カール・ルートヴィヒは三十年戦争終結後に選帝侯位と所領の大半を回復。一方、三男ループレヒト(ルパート)と四男モーリッツ(モーリス)はイングランドでエリザベスの弟チャールズ1世に仕え、イングランド内戦で王党派の一員となって活躍。五女ゾフィーはハノーファー選帝侯エルンスト・アウグストと結婚、その息子ゲオルク・ルートヴィヒはハノーヴァー家のジョージ1世で、エリザベスの孫であることを根拠にイギリス王位を継承して「イギリス王ジョージ1世」(在位:1714-1727)となりました。 ・参考HP:〜 ・プファルツ選帝侯領の場所地図 ▼ニューヨーク植民地総督列伝:〜 (Colonial Governor of New York 1664-1783) 第1代〜リチャード・ニコルス(1664年の占領軍司令官) (Richard Nicolls 1664/9-1668/夏) 第2代〜フランシス・ラブレイス (Francis Lovelace 1668/夏- 1673/4) 第3代〜アンソニー・クローヴ(オランダ支配時期) (Anthony Colve 1673/9/19-1674/2/9) 第4代〜エドモンド・アンドロス卿(1674-1681以降は総督代理を置く) (Sir Edmund Andros 1674/2/9-1683/4/18) 第5代〜アンソニー・ブロックホール (Anthony Brockholls 1681-1683(総督代理) 第6代〜トーマス・ドンガン (Thomas Dongan 1683/8-1688/8/11) 7 Francis Nicholson 1688-1691 (事実上:1689/6迄) 8 Jacob Leisler 1689-1691(反乱) 9 Henry Sloughter 1691 10 Richard Ingoldesby 1691-1692(総督代理:acting governor) 11 Benjamin Fletcher 1692acting governor1697 12 Richard Coote, 1st Earl of Bellomont 1698-1701 13 John Nanfan 1701-1702(総督代理) 14 Edward Hyde, Viscount Cornbury 1702-1708 15 John Lovelace, 4th Baron Lovelace 1708-1709 16 Peter Schuyler 1708-1709(総督代理) 17 Richard Ingoldesby 1709-1710(総督代理) 18 Gerardus Beekman 1710(総督代理) 19 General Robert Hunter 1710-1718 20 Peter Schuyler 1719-1720(総督代理) 21 William Burnet 1720-1728 22 John Montgomerie 1728-1731 23 Rip Van Dam 1731-1732(総督代理) 24 Sir William Cosby 1732-1736 25 George Clarke 1736-1743(総督代理) 26 Admiral of the Fleet The Hon. George Clinton 1743-1753 27 Sir Danvers Osborn, 3rd Baronet 1753-1753 28 James DeLancey 1753-1755(総督代理) 29 Admiral Sir Charles Hardy 1755-1758 30 James DeLancey 1758-1760(総督代理) 31 Cadwallader Colden 1760-1762(総督代理) 32 Lieutenant-General Robert Monckton 1762-1763 33 Cadwallader Colden 1763-1765(総督代理)r 34 Sir Henry Moore, 1st Baronet 1765-1769 35 Cadwallader Colden 1769-1770(総督代理) 36 John Murray, 4th Earl of Dunmore 1770-1771 37 William Tryon 1771-1774 38 Cadwallader Colden 1774-1775(総督代理) 39 William Tryon 1775-1780 40 General James Robertson 1780-1783(軍司令官:military governor) 41 Andrew Elliot 1783/4/17-11/25(軍司令官) ・参考HP:〜 ・ニューヨーク植民地の場所地図 ・ニューネーデルラント植民地の場所地図(1614-1667) ▼ニューイングランド植民地連合の総督と副総督 (Governor in Chief of the Dominion of New England 1686-1689) ・ジョセフ・ダッドリー総督(ニューイングランド(議会)議長、1686-1686) (Joseph Dudley(1647-1720)、President of the Council of New England ) ・ウィリアム・ストートン副総督(議長代理) (Lieutenant Governor William Stoughton、Deputy President) ・サー・エドモンド・アンドロス総督 (Sir Edmund Andros 1686/12/20〜1689/4/18) ・フランシス・ニコルソン副総督 (Lieutenant Governor Francis Nicholson 指名:1688/4) ・参考HP:〜 ・ニューイングランド植民地連合地の場所地図 ・上記はこちらの文献などを参照させてもらいました。 2012/2/12 |