冒険航海(Adventure Voyage)
第1回
★カルチエ物語第2回
第3回
ジャック・カルティエ船長
1534
プリンスエドワード島を発見
ヌーベル・フランス命名
大航海物語
 フランス★

R F
カルティエ船長

1534 カルティエのカナダ発見400年記念 1934
フランス 昭和9年 1934/7/18 発行

Republica da Guine Bissau
カルティエ船長とエメリョン号

ギニア・ビサウ 1981 発行
CANADA
大西洋を横断後に陸地発見の
カルティエ船長達


カルティエのケベック到達400年記念
カナダ 昭和9年 1934/7/1 発行
CANADA
プリンスエドワード島

シャルロッテタウン200年記念

カナダ 1969/8/15 発行

REPUBLIQUE FRANCAISE






サンマロ→
フランスの地図
     気象協会50年記念
      フランス 1990/9/29 発行

アラスカ


カナダ


U
S
A
Canada
ニューファウンド島の場所地図
中央がハドソン


カナダ 1981/6/30 発行

ケーン水路

グリーンランド

←パフィン島
プロビジャー
←ハドソン海峡
←ラプラドル湾
ラプラドル半島
ニューファンドランド島

←ケベック


BERMUDA
大西洋の地図
カルティエ船長の第1回探検航海地図(往路:赤線、帰路:青線

カナダ

イギリス
ボナヴィスタ岬→
ガスペ半島→
Pエドワード島→
←サンマロ



アメリカ



カリブ海




アフリカ
 これはシー・ヴェンチャー号航海地図の切手小型シートで作成
バーミューダ 1984/5/3 発行

CISKEI
探検船、アストロラーベ、デヴァイダー、海図

シスカイ 1993/5/19 発行
SEYCHELLES
フランス国旗を掲揚、仏領宣言

セイシェル 1989/11/17 発行

カルティエ船長はフランスから新大陸(北米)へ3度にわたる探検航海をなし、プリンス・エドワード島やセントローレンス河々口を発見。またカナダ本土に上陸し、後年のフランスによるカナダ領有の基礎を築きました。
ジャック・カルティエ船長 (1491/12/31〜1557/9/1)
 Captain Jacques Cartier

  フランス(ブルトン人)の探検家(Breton Explorer of Frence)
   生地:フランスのブルターニュ公国サン・マロ生
   没地:フランスのサン・マロ近郷リモイロウ、62才没
カルティエ船長はフランスのブルターニュ地方にあったブルターニュ公国(Duchy of Brittany, 939-1547)の現イル・エ・ヴィレーヌ県サンマロ港(Saint-Malo, Ille-et-Vilaine、Brittany, France)で生まれました。貿易を兼ねた探検隊に加わってブラジルニューファウンドランド島へ渡航していたようです。詳しいことは定かではありませんが、地図製作(cartography)や航海術(navigation)、天文学(astronomy)、数学(mathematics)を習得し、ディエップ港でも船乗り(seamanship)修行したと伝えられています。

1520年
5月頃、28才でサン・マロの警察官ジャック・ドゥ・グランシュ(Jacques Des Granches)の娘
      カトリーヌ・ドゥ・グランシュ(Catherine Des Granches)と結婚
1523年
     32才でフランスのヴェラザーノ船長北西航路(Northwest Passage)を求める探検航海に参加
     ラ・ドーフィーヌ号(La Dauphine)と他3隻でノルマンディーのディエップ港を出帆
1524年
04/17、新大陸アメリカのニューヨークに到達
07/08、フランスのディエップ港に帰港。

1532年にブルターニュ公国とフランスの連合が宣言され、フランス国王フランソワ1世(Francis I, 1494-在位1515-1547)の新世界探検隊派遣に関しての諮問に答えるため、カルティエ船長が初めて国王に謁見しました。そして国王の命で第1回の冒険大航海へと出帆しました。

・カルティエ船長の冒険大航海:〜北西航路の探索
第1回〜42才、1534/4/20〜1534/9/5、
       2隻の船隊、新大陸へ冒険航海
       プリンスエドワード島を発見、ヌーベル・フランス(新フランス)命名
第2回〜43才、1535/5/12〜1536/7/15、
       3隻の船隊、新大陸カナダへ探検航海
       セントローレンス河方面へ、モン・レアル(モントリオール)命名
第3回〜49才、1541/5/19〜1542/6、
       5隻の船隊、新大陸カナダへ遠征航海
       セントローレンス河方面へ、スタダコナ(ケベック)に居住地建設

第1回新大陸への冒険大航海
   北西航路の探索 (1534/4/20〜1534/9/5)
1534/4/20にフランスの新世界探検船隊を率いて2隻の船に61人で、当時の知られていた航海用具のアストロラーベ(Astrolabes)、海図(Charts)、羅針盤(Compasses)、クロススタッフ(Cross-staffs)、ノクターラーベ(Nocturnals)、トラヴァース・ボード(Traverse boards)、暦(Almanacs)などを持参して、サンマロ港を北西航路を求める探検航海へと出帆しました。順調な航海の後、僅か20日間でニューファウンドランド島に到達しました。ベルアイル海峡の西で、ラ・ロシェル(La Rochelle)から来たフランスの漁船に出会い、このあたりの海域にフランスやポルトガルの猟師達がしばしば来ていることも報告しました。ラプラドル半島南岸陸地の荒涼とした風景に失望したカルティエ船長は、5/11にニューファウンドランド西岸沿いに南下、セントローレンス湾(St. Lawrence Bay)を横断、肥沃なプリンスエドワード島を発見しました。1534年7月半ばにはカナダ本土のカスベ半島(Gaspe Peninsula)に到達しました。さらにセントローレンス河(St. Lawrence River, 1,197km)の河口に有るアンティコスティ島(Ile d'Anticosti)を探検しました。悪天候のためセントローレンス河は見つからずも、一帯をヌーベル・フランス(Nouvelle-France:新フランス)と命名。またセントローレンス河々口地方のイロコイ族(Iroquoians)の首長ドンナコナ(Chief Donnacona, 1539仏没)の息子2人ドマガヤ (Domagaya) とタイニョアニ (Taignoagny) が旗艦に乗船してきたので御馳走で歓迎して現地人との外交を開始しました。その後フランスへの帰途につき、現地人の2人はフランスに連れ帰り、1534年9月にサンマロ港に帰港しました。

1534年
04/20、フランスのサンマロ港を2隻に61人で北西航路を探す探検航海へ
     十分な食糧と飲料水、ワイン(red wine)を積み込んで出帆
     ・旗艦:グランデ・エルミン号(Grande Hermine)説有
       船長:ジャック・カルティエ探検隊長
     ・もう一隻の随伴船:エメリョン号(Emerillon)説有
04/24、天候が急変して2人が海に落ちるも、泳ぎが達者で
     助かり、ワインで祝う
05/10、20日でニューファウンドランド島ボナ・ヴィスタ岬(Cape
     Bonavista)の海岸に到達
     上陸して新世界到達を祝う
05/11、朝早く二手に分れてニューファウンドランド島を探検し
     午後6時に落合う
05/12、島で群れていた全長約80cm、体重5kg位のオオウミガ
     ラス(大海烏、リンネ博士がオオウミガラス属とするも
     乱獲で絶滅)を食料用に1,000羽も獲って貯蔵
05/13、この新世界のニューファウンドランド島をさらに探検
     その後、荒涼とした不毛の地の風景のラプラドル半島
     南岸陸地を観察。シャトー湾(Baie des Chateaux)
     現ベルアイル海峡(Belle Isle Strait)を通過
05/14、ニューファウンドランド島西岸沿いに南下
ラプラドル半島

USA 1908 発行

ュ|フ
ァウンドランド島
06/01、現地人と遭遇するも意思疎通できず、平和に見えるも疑念を持つ
06/06、50隻もの現地人カヌー(canoes)が船隊に近寄ってくる
     威嚇射撃する銃の一斉射撃の轟音で追い払う
06/15、ニューファンドランド島レイ岬(Cape Ray)とケープブレトン島ノース岬
     (Cape North)間カボット海峡(Cabot Strait)を横断南下、
     セントローレンス湾(St. Lawrence Bay)へ進入
     ブライオン島(仏:Iles de la Brion、英:Brion Island)を東に望見
06/26、現マドレーヌ諸島(Magdalen Islands)を東に発見、
     アライン諸島(Iles de la Araines)と命名
     マドレーヌ諸島の西側を南下航海
     セントローレンス湾を横断後
06/29、プリンスエドワード島(Prince Edward Island)を望見・発見
フランス探検船、現地カヌー

カナダ 2008 発行
     島沿いに北上してプリンスエドワード島ノース岬(Cape North)を
     回航南下、現地人を見かける
     ニューブランズウィック(New Brunswick)東岸を北上
     ガスペ半島(Gaspe Peninsula)の岬を望見、カプ・エスペランス岬
     (Cap d’Esperance:希望の岬)と命名
     シャルール湾(Baie des Chaleurs、英:Chaleur Bay)の奥へ進入
07/04、その付近を綿密に調査するも北西航路らしきもの無し
07/07、シャルール湾で現地人ミクマク族(Mikmaq people)に出会い、
     毛皮などと交易をする
07/09、調査を打切り、北上航海
ガスペ半島

ジャージー 1978 発行
     ガスペ半島東端カプ・ガスペ(Cap Gaspe:ガスペ岬)に到達
07/14、ガスペ湾へ進入
07/15、ミクマク族に出会い交易
     セントローレンス河々口のアンティコスティ島(ile d'Anticosti)南に到達
07/24、ガスペ湾口北岸のペノール・ポイント(Penouille Point)に十字架(30ft約9m)を建立、
     その一帯を国王フランソワ1世に因んでヌーベル・フランス(Nouvelle-France)と命
     名し、フランス国旗を掲揚してフランス領を宣言
     セントローレンス河々口を探検航海
十字架を建てる

バージン1992発行
07/25、セントローレンス河々口地方イロコイ族(St. Lawrence Iroquoians)に出会い交易後、
     ガスペ半島付近でドンナコナ酋長の子供2人が旗艦に乗船してきたのでご馳走でもてなす
07/29、アンティコスティ島南岸に到達し、東進航海
08/01、北西航路を求めて探検航海
     ラプラドル半島とアンティコスティ島間の現ジャック・カルティエ海峡(Jacques Cartier Strait)を探検
08/05、カルティエ海峡北ナタシュガン川(Natashquan River 410km)河口ナタシュガン・ポイント(Natashquan
     point)でモンターニュ族(Montagnais、現イヌー族:Innu people)に出会う
08/15、その後、東進航海して故国フランスへの帰途につく
     嵐で大西洋へ向う
09/05、サンマロに帰港
10/30、国王フランソワ1世から探検航海の恩賞金3,000ルーブル(livres)を拝領。

そしてカルティエ船長は再び国王から任務を与えられて、翌年の1535年に第2回目の探検航海へとフランスを出帆しました。

こちらで
プリンスエドワード島
  (Prince Edward Island)
ミクマク族
  (Mi'kmaq People)
ガスペ半島
  (Gaspe Peninsula)
をお楽しみください。

参考HP〜
サン・マロの場所地図
カルティエ船長の航海地図(第1回、1534-35)

ボナ・ヴィスタ岬の場所地図
セントローレンス湾付近の地図(アンティコスティ島、ベルアイル海峡、カボット海峡など有)
マグダレン諸島の地図
プリンスエドワード島の場所地図(日本語)
ケベック州の地図(北米の北部広域地図)
ミクマク族の居住地図
ガスペ半島の場所地図(シャルール湾、ガスペ湾、セント・ローレンス河々口など有)
アンティコスティ島の場所地図(カルティエ海峡、Natashquanなど有)
カナダの地図(日本語)

・上記はこちらの文献などを参照させてもらいました。     03/10/10、04/12/8、07/3/31、08/11/30、、14/5/12
★カルチエ物語、第1回、第2回第3回
スタンプ・メイツ
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