七年戦争(1756-1763)、スペイン編
Seven Years' War スペインでは1762年に、カルロス3世(Carlos III, 1716-在位1759-1788)の下でイギリスとの七年戦争に参戦しました。この時の北米での戦争はフレンチ・インディアン戦争(French and Indian War、 1755-1763)、インドでの戦争は第2次カーナティック戦争(Carnatic Wars、1749-1754)とも呼ばれ、主として英仏が戦いました。フランスは植民地での劣勢を跳ね返すために同じブルボン王家のスペインに応援をもとめ、1762年にスペインが参戦してイギリスと戦うも、イギリスは大艦隊を編成してスペイン植民地のキューバのハバナ(Battle of Havana 1762)やフィリピンのマニラ(Battle of Manila 1762/9/24-10/6)を占領しました。 |
18世紀の海戦
セイシェル 1969-72 発行 |
・ハバナの戦い、イギリスの勝利
Battle of Havana (1762/6/6-8/13)
・スペインの兵力
キューバ総督ファン・ド・プラド(Juan de
PradoMayeraPortocarrero y Luna1716-70)
モロ要塞司令官ルイス・ヴェラスコ艦長
(LuisVicenteVelascoDeIsla1711-62/7/31)
1761/6月に提督グティエラ・ド・ハヴィア(Admiral Gutierre de Hevia 1720-1772)がスペイン艦隊7隻に1000人を乗船させてハバナに到着するも、黄熱病で兵力が半減防衛兵力は陸兵(soldiers)3,850人、水兵海兵5,000(sailors & marines)、民兵2,800人(militia) |
18世紀の英戦列艦-74門艦
図案は74門艦ロイアル・アデレード号
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計11,650人編成
・イスパニア歩兵連隊(Espana Infantry Regiment)481人
・アラゴン歩兵連隊 (Aragon Infantry Regiment)、265人
・ハヴァナ歩兵連隊 (Havana Infantry Regiment、856人
・エジンバラ竜騎兵隊 (Edinburgh's Dragoons)、150人
・陸軍砲兵隊 (Army's gunners)、104人
・海軍・海兵砲兵隊(Marines & navy's gunners)、750人
など。
・イギリスの兵力 |
キューバの地図
キューバ 1973/10/29 発行 |
ケッペル軍団(General George Keppel, 3rd Earl of Albemarle KG PC 1724-1772)、海軍
司令官ジョージ・ポコック提督(Admiral Sir George Pocock, KB 1706-1792)、ジェフリー
・アマースト元帥(Field Marshal Jeffery Amherst 1stBaron Amherst KCB 1717-1797)、
後のジブラルタル包囲攻撃戦(1782)に勝利した男爵ジョージ・オーガスタス・エリオット
中将(Major-General George Augustus Eliott, 1st Baron Heathfield, KB 1717-1790)、
提督ジョージ・ポコック中将(Vice Admiral Sir George Pocock, KB, 1706-1792)に率いら
れた英国艦隊に乗船した4個連隊4,365人
・プリンス・オブ・ウェールズ師団第22チェシャー歩兵連隊
(22nd Cheshire Regiment of Foot、Prince of Wales' Division)
・第34カンバーランド歩兵連隊
(34th Cumberland Regiment of Foot)
・第56ウェスト・エセックス歩兵連隊
(56th West Essex Regiment of Foot)
・第34リッチモンド歩兵連隊
(72nd Richmond's Regiment of Foot)など4,365人。
3/05、英国艦隊7隻がスピッドヘッド(Spithead, England)を出帆
4/20、バルバドス島(Barbados)到着、その後最近占領したマルチニーク島(Martinique)の
フォート・ロイアル(Fort Royal)を出帆したロバート・モンクトン少将(Major-General
Robert Monckton, 1726-1782)の8,461人、ジョージ・ロドニー海軍少将(Rear Admiral
George B. Rodney)の戦艦8隻と合流して戦列艦15隻の艦隊となる
5/23、英艦隊がハイチのサンドマング沖(Saint-Domingue、Haiti)到着、
ジャマイカのポート・ロイヤル(Port Royal, Jamaica)を出帆した提督ジェームス・ダグ
ラス(Admiral Sir James Douglas, 1st Baronet, 1703-1787)艦隊と合流して強化され
戦列艦21隻、その他24隻、水兵海兵14,000人、傭兵水兵3,000人、新参正規水兵
(regulars)12,826人(計29,826人)となる
6/06、英軍がハバナ突入、
英艦隊12隻がハバナ湾水路の入口を封鎖して、
水路北側にあるヴォーバン式モロ星型要塞(Morro
fortress 1589)と、もう一つのプンタ要塞(Punta
fortress)を攻撃。水路口防御用ブーム・チェーン
(boom chain)で、64門艦アジア号(Asia)、64門艦
エウローパ号(Europa)、74門艦ネプチューン号
(Neptuno)の3隻が沈没
6/07、英軍がハバナ北西に上陸、ハバナへと進軍
6/11、モロ要塞のあるカヴァノス高地(Cavannos heights)
前面に布陣
6/13、モロ要塞を攻撃する砲台を構築
6/22、英軍の砲台から重砲12門、大砲38門が砲撃を開始 |
モロ要塞
図案は同一形式の星型要塞 ペルー 1936/8/27 発行 |
6/29、毎日500発の砲弾を撃ち込む、
要塞は毎日30人以上を喪失
6/30、擲弾兵(grenadiers)海兵(marines)工兵(engineers)奴隷(slaves)の混成決死隊
988人が英軍へ突入、大きな戦果を上げる
7/01、戦列艦スターリング・キャッスル号(HMS Stirling Castle 1742 70g 1,225t 1762/9/14
自沈)、ドラゴン号(HMS Dragon 1760 74g 1614t 1784売却)、マールボロウ号(HMS
Marlborough 1669 90g 1,567t 1762沈没)、ケンブリッジ号(HMS Cambridge 1755 80g
1,615t 1808解体)の4隻がモロ要塞を艦砲射撃するも、高所の要塞には効果無く、
逆に砲台の大砲30門の砲撃で重軽傷者192人を喰らい、後に3隻が沈没
7/02、モロ要塞からの砲撃で英軍砲台が破壊され、英軍将兵の多くが黄熱病にかかる
7/17、モロ要塞の砲撃で英軍砲台は沈黙し、英軍は北米へ援軍を要請
7/20、英砲台の砲撃600発で、モロ要塞では負傷者60人となる
7/22、英軍1,300人がハバナを攻撃するも占領できず
7/24、英軍が要塞に降伏を勧告するも、砲撃で回答を受ける
7/27、北米からの増援部隊が途中の海上で仏の攻撃で捕虜500人を出すも、到着
・第46トーマス・マーレイ歩兵サウス・デボンシャー歩兵連隊
(46th Thomas Murray's South Devonshire Regiment of Foot)
・第58アンストラサー歩兵ラトランドシャー歩兵連隊
(58th Anstruther's Rutlandshire Regiment of Foot)
・アメリカ人レーンジャー部隊(American provincials)、3,000人
・ゴーハムのレーンジャー部隊(Gorham's rangers)
7/29、要塞攻撃用の地雷が要塞したに到達、地上攻撃に開始し、反撃の要塞兵と白兵戦
を展開して激戦となり、要塞司令官ヴェラスコが負傷して戦死
7/31、城壁下に達した地雷を爆発させて要塞の城壁が崩れると、スペイン守備隊が降伏
8/11、ハヴァナを総攻撃
8/12-13、スペイン軍が艦隊を焼却して英軍の手に落ちるのを防ぐ
8/14、英軍がハバナ市に入城して占領
英軍の損失は戦死2,764人
10/10、英軍の戦病死が4,708人となる
12月、戦列艦テンプル号(HMS Temple, 1758, 68gun, 1429t, 1762/12沈没)を帰途で失い、
戦列艦3隻の損害となる
1763年、ハバナはパリ条約でイギリスからスペインへ返還されました。
1762/6/6-8/13 |
イギリス軍の勝利 |
スペイン軍 |
司令官 |
総司令官ケッペル将軍
司令官エリオット中将
提 督ポコック中将 |
キューバ総督ファン・ド・プラド
モロ要塞司令官ヴェラスコ艦長
提督グティエラ・ド・ハヴィア |
兵 力 |
陸軍:12,826人
海軍:17,000人
戦列艦:23隻
フリゲート艦:11隻
スループ艦:4隻
爆弾艦:3隻
カーッター艇:1隻
輸送艦:160隻 |
歩兵騎兵:3,870人
水兵海兵:5,000人
民兵:2,800人
戦列艦:9隻 |
損 害 |
戦死傷病:2,764人
戦 列 艦 :3隻 |
戦死病:3,800人
戦傷病:2,000
捕 虜:5,000人
艦 艇:13隻拿捕
自 沈:3隻 |
場 所 |
キューバのハバナ |
ハヴァナはスペイン軍が降伏してイギリス支配の下で自由貿易港になると、多数のアフリカ人奴隷がイギリス人商人によってアフリカからハヴァナへ連行されました。1763年にスペインとイギリスの間でパリ条約が締結され、イギリスはキューバとマニラ(フィリピン)を返還してフロリダを受け取りました。スペインはこれに懲りてハバナの更なる要塞化を進め、アメリカの全域でも最も強固な要塞都市としました。一方、一年間のイギリス軍の占領の最中に自由貿易を実現したハヴァナは経済的に繁栄し、ハヴァナのクリオージョ支配層は自由貿易の実現を望むようになってゆきました。
・マニラの戦い、イギリスの勝利
Battle of Manila (1762/9/24-10/6)
マニラ市占領 (1762-1764)
・スペインの兵力
マニラ総督ヴィエイラ大司教
(Archbishop Manuel Rojo del Rio y
Vieyra, 1708-1764、在任1762-1764)
フィリピン総督サイモン・サラザール
(Simon de Anda y Salazar 1701-1776、
在任1770-1776)
・イギリスの兵力 |
18世紀の英戦列艦-74門艦
図案は74門艦エイジャックス号
|
1762/8/1にインドのマドラス港(Madras)をイギリスの総司令官、准将ウィリアム・ドレーパー卿
(Brigadier general Sir William Draper KCB 1721-1787)
副司令官海軍少将サミュエル・コルニッシュ卿(Rear-Admiral Sir Samuel Cornish, 1st Baronet 1715-1770)、司令官メイソン大佐(Colonel
Monson as Second in Command)、副官スコット少佐(Major Scott as Adjutant-General)、東印度会社の艦長フレッッチャー少佐(Captain
Fletcher asBrigade -Major of the East India Company)が指揮する戦艦(ships of the
line)8隻・フリゲート艦(frigates)3隻・補給艦(store ships)4隻が水兵海兵(sailors and marines)6,839人を乗せた英艦隊(British
fleet)15隻が出帆。
9月、フィリッピン沖に現れたイギリスの兵力
・第79ドレーパー歩兵連隊450人 |
フィリピンの地図
フィリピン 発行 |
(79th Draper's Regiment of Foot)
・支援のマドラス大隊デスプランス大尉(Captain DesPlans)セポイ兵連隊2000人
(battalions of sepoys (Madras Sepoy regiments)
・降伏仏兵マーティン中尉隊(Lieutenant Martin)200人
(French deserters)
・支援の混成隊
(自由奴隷・ネイボッブ(nabob)歩兵・ポルトガル支配下で降伏キリスト教徒現地人)
(freed African slaves, native Christian Indians, Nawab European infantry)など
9/24、マニラ湾に突入、
マニラ湾に突き出た半島のキャヴィテ(Cavite City)を攻撃
9/25、キャヴィテ上陸
10/4、スペインが1000人で反撃するも大損害を出して退却
10/5、マニラ総督ヴィエイラ大司教が降伏
10/6、キャヴィテ市街を占領
10/10、マニラ市が降伏、占領(1762-1764)
1763年、パリ条約でイギリスからスペインへ返還されました。
1762/9/24-10/6 |
イギリス軍の勝利 |
スペイン軍 |
司令官 |
総司令官ドレーパー准将
司令官コルニッシュ提督 |
フィリピン総督サラザール マニラ総督ヴィエイラ大司教 |
兵 力 |
陸海軍:10,300人
艦 艇:15隻 |
スペイン兵:565人
フィリピン:8,600人
仏兵英脱走兵:200人 |
損 害 |
戦死傷:147人 |
スペイン人戦死傷:100人
スペイン人捕 虜:361人 |
場 所 |
フィリピンのマニラ |
参考HP:〜
・マニラの場所地図
・大マニラ圏の区分地図(日本語有)
・マニラの地図(日本語)
・マニラ湾の地図
(バターン半島、コレヒドール島、マニラ、キャビテのマニラ湾での位置関係を示す地図)
・キャビテの地図
・ニュー・スペインの植民地区分地図(副王領:1819、北米・中米の地図)
・パリ条約
Treaty of Paris 1763
1763/2/10に英仏スペイン間でパリ条約が締結されました。そのパリ条約で、フランスはケベックなどカナダの領土とミシシッピ川以東アパラチア山脈までのルイジアナをイギリスに割譲し、ミシシッピ川以西のルイジアナ(French
Louisiana)をスペインに割譲(1762-1800)しました。このことは、フランスが北アメリカ大陸から完全に撤退することを意味していました。また、セネガルをイギリスに割譲し、一部の商業都市を除いたインドの植民地を放棄。こ |
ルイジアナ、1803
USA 1904/4/30 発行 |
れによりフランスはインドから事実上撤退することになりました。その他、イギリスはスペインにマニラとハヴァナを返還するかわりにフロリダを獲得。イギリスはこの時、西インド諸島のグアドループ、マルティニーク、セントルシア、セネガル沖のゴレ島、インドの商業都市などをフランスに返還。フランスはかわりに上記以外に西インド諸島ではドミニカ、グレナダ、セントビンセントおよびグレナディーン諸島、トバゴ島をイギリスに返還。イギリスはさらにスペインとの合意に基づき、イギリス領ホンジュラスの城壁を取り除く替わりに領有を維持。この時フランスは北アメリカでのほとんどの領土を放棄(カナダから撤退)するも、ニューファンドランド島沖での漁業権とその漁獲を乾燥させるための2島、サンピエール島・ミクロン島の領有を維持しました。こうして、北米、西インド諸島、インドにおけるヨーロッパ各国の植民地の帰属が再編され、フランスはインドからほぼ全面的に撤退し、北アメリカの植民地のほとんどを失いました。代わって北米とインドでの植民地獲得競争におけるイギリスの優位が決定的になりました。なお、スペイン領ルイジアナは1800年に米国に売却(ルイジアナ買収)されました。
こちらで
・ヴォーバン式星型要塞
・スペインのインディアス大臣ホセ・ド・ガルヴェス侯爵
・サフレン提督の従軍戦歴 (2)七年戦争
をお楽しみください。
参考HP:〜
・フランス領ルイジアナの場所地図
・上記はこちらの文献などを参照させてもらいました。 08/11/22追記、13/3/31、2017/2/27
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